1月 火種 ②
「とよさん、火事です!」
京子がとよの部屋に飛び込んだとき、とよは静かにベッドから起き上がった。
「京子ちゃん、来てくれたの」
「早く、早くしないと、煙が2階まで来ているんです。3階にも、すぐに来るかも」
京子が車椅子をベッドの横につけようとしたとき、「いいのよ」と、とよは制した。
「私はいいから。他の人を助けてあげて」
京子はポカンとして、とよの顔を見つめた。
「えっ、でも、他の人を助けてからじゃ、戻って来るまでに時間がかかるし」
「いいの、戻って来なくて。そっとしておいて」
「そっとしておくって?」
「私はいいの。ここで死ぬから」
とよは再びベッドに横たわり、布団を肩まで上げた。
「やだ、何言っているんですか。火事ですよ、逃げなきゃダメですよ」
京子は混乱しながら、とよの布団をはぎとろうとした。とよはすごい力で、布団をとられまいと引っ張る。とても年寄りとは思えない力だ。
――もしかして、痴呆が始まったとか? こんな時に?
京子は布団を引っ張るのをやめ、部屋の外に駆け出た。
「誰かっ、手伝ってくださいっ、とよさんが、起きようとしないんですっ」
だが、京子の声は廊下に響き渡る悲鳴や怒号などで、むなしくかき消された。杖をつきながらヨロヨロと逃げていく入居者もいるが、とても手助けを頼めない。
京子は再び部屋に戻り、今度は強引にとよを起こそうと、体の下に腕を差し入れた。
「やめてっ」
突き飛ばされ、京子はバランスを崩した。車椅子に足を取られ、「あっ、あっ」と声をあげながら、車椅子ごと床に転がった。
右腕を強打して、あまりの痛さに起き上がれない。
「京子ちゃん、大丈夫? 大丈夫?」
とよのオロオロした声が聞こえる。とよは、ベッドから心配そうにこちらを見ている。
「ごめんね、京子ちゃん、ごめんね。」
そのとき、どこかでガラスの割れる音がした。
――マズい。逃げないと。
京子は腕をさすりながら立ち上がる。
「京子ちゃん、もう行って。早く逃げなきゃ」
「だから、とよさんも」
「私はいいから。私、ここで死にたいの」
とよはきっぱりした口調で言った。とよの目には強い光が宿り、正気なのだと分かった。
「どうして、そんな」
「だって、私には帰るところがないんだもの」
とよの目から涙が零れ落ちた。
「私の家は売っちゃうって言ったでしょ? でも、あの子の家には行きたくないの。あの家に行ったら、絶対に嫌がられるから。あの子の嫁は、本当に冷たい人で、絶対にうまくやっていけない。あの子だって……」
とよは嗚咽をもらした。あの子とは息子のことだろう。
京子は黙ってとよの泣き顔を見ているしかなかった。説得しようにも、かける言葉がない。
部屋が煙たくなってきた。もう、迷っている暇はない。
とよは涙を拭うと、やや落ち着いた様子で、
「もう私は、お父さんのところに行くから。これでやっと死ねる。やっと死ねる」
とかすれた声で言った。
京子は左手でとよの手を握った。とよも握り返す。
「ありがとうね。京子ちゃんに会えて、よかったわ」
「とよさん……」
近くの部屋から悲鳴が聞こえた。
「さあ、行って」
とよは、かすかに微笑む。京子は頷いて、ドアに向かった。
「ありがとうね、京子ちゃん、ありがとう」
最後に振り向くと、とよは小さく手を振っていた。
廊下に出ると、すでに煙が充満している。京子はとっさに膝をつき、袖で口を覆った。そのとき、右手から血が流れ出て、袖口を染めていることに気づいた。転倒したときに切ったのだろう。
――逃げなきゃ。
京子は煙が流れていく廊下を、無我夢中で這い進んだ。
それが、とよとの別れだった。
外に出て、炎に包まれた建物を見上げながら、京子は「本当にこれでよかったのかな」「でも、とよさんがそう決めたんだから」と、何度も自問自答した。
ケガをした入居者に付き添いながら病院に行き、京子自身も手当を受けているときに、ふと「生きたまま焼かれるのって、ものすごく苦しいんじゃ」と思い至った。
スマフォで、火事で亡くなるときの状況を調べて、身体が焼かれる前に一酸化炭素中毒で意識を失うことが多いのだと知り、少し安堵した。
それでも、とよを置き去りにしたことには変わりはない。
日が経つにつれ、京子はとよを強引にでも連れ出すべきではなかったのかという後悔の念を抱くようになっていた。