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曇天。  作者: 凪
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3月 埋み火③

 京子はホテルのロビーにある喫茶店にいた。そわそわと辺りを見回し、何度も腕時計を確かめるが、約束の時間までまだ10分以上ある。


 ――早く来すぎちゃったな。


 ほかにすることもないので、ウエイトレスが運んできた水を口に運ぶ。

 京子は三日前の電話でのやりとりをもう一度、頭の中で再生させた。


「桂木さんが美園ホームのHPでブログを書いていらっしゃるのを拝読しまして、ぜひそれを素材にして、本をつくれないかと考えているんです」


 平和堂出版の編集者である、田口冬実という女性はやわらかな口調で切り出した。


「えっ、本ですか?」

「ハイ、単行本なんですが、一冊にまとめられないかと考えておりまして」

「でも、3か月分しか書いてませんよ」


「本にする際は、ブログをそのまま掲載するのではなく、普通の本のように1章ごとにテーマに沿って文章をまとめる形で考えています」

「えっ、そんな、私文章書くのは苦手なんです。ブログは、友達にメールを打つような感覚で書いてみてって園長から頼まれて、気楽に書いていただけですから」


「そうですか。もしご自分で書くのが難しいようでしたら、プロのライターさんに書いてもらうこともできますから」

「プロのライター?」

「いわゆる、ゴーストライターということです。いずれにせよ、一度詳しい説明をさせていただきたいんです。近いうちにお会いできないでしょうか」


 そういうやりとりがあって、京子は田口冬実に会うことになったのである。出版社の人間と会うのは初めてなので、緊張していた。


 やがて、約束の時間の5分前に、女と男がつれだって喫茶店に入ってきた。

 女は銀縁のメガネをかけ、髪を後ろで1つに結び、グレーのスーツを着ている。電話で聞いていた特徴と同じだったので、京子は席から立ち上がった。相手も京子に気づき、近寄ってくる。


「桂木さんですね」

「ハイ」

「私、平和堂出版の田口と申します。今日は忙しいなか、ありがとうございます」


 田口冬実はショルダーバッグから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を京子に手渡した。


 京子は名刺を受け取り、「すみません、私、今無職なので、名刺持ってなくて。桂木京子と申します」と頭を下げた。


 続けて、冬実は隣にいた男を、「こちらはライターの安藤さん」と紹介した。


「どうも、安藤です」


 30代後半ぐらいに見えるその男は、微笑みながら名刺を京子に渡した。口ひげを生やし、黒いフレームのメガネの奥の細い眼が、京子をまっすぐ見据える。

 名刺には太く大きな字で『安藤邦雄』と印刷されている。肩書きは編集・ライター・企画となっていた。

 3人は席に座り、コーヒーを頼んだ。


「無職ということは、やはり老人ホームは倒産したってことなんですか」

「そうなんです。系列のホームはどこかに買い取ってもらうって話を進めているようなんですけれど……」

「そうですか、それは大変ですねえ」


 冬実はおそらく、京子と同世代だと思われる。


 ――高校のときにクラスで本をよく読んでいた、文学少女ってあだなの子に雰囲気が似てるな。


 京子は緊張が少しずつほぐれていくのを感じた。


「それじゃ、桂木さんは別のホームに移るんですか」

「それを考えていて、今探してるところなんです。でも、なかなかうちの近くでは見つからなくて。美園ホームで働くために青梅に引っ越したばかりだったので、また引っ越すのはつらいんですよね」


「そうですか、それでは、今はそれほど忙しいわけではなく」

「ハイ、毎日ゴロゴロしているようなものなんです」

「そうですか。それなら、この話も進めやすいです」


 冬実は何冊か本を取り出して、


「これはうちの会社から出しているノンフィクションものです」

「あ、この『いつか、笑顔で』は知ってます。私、この本大好きなんです。ドラマ化もされましたよね」


「そうですか、ありがとうございます。これはベテランの介護士さんの話ですから、桂木さんにとって共感できる部分も多かったんじゃないですか」

「ええ、この本を読んだときはまだ介護士ではなく、会社員だったんです。この本を読んで介護士になろうと決めて」

「ええっ、そうなんですか? すごい、嬉しいです、本を読んで感化されたなんて」


「でも、一冊の本を読んだだけで介護士になろうとするなんて、ずいぶん思い切った決断ですね」

 邦雄が話に入ってきた。


「もともと、福祉関係の仕事には興味があったんです。でも、大変だからって親に反対されてあきらめたんです。だけど、会社で事務の仕事をしているうちに、このままでいいのかなって思うようになって。その時にこの本を読んで、大変だけどやってみたいと思うようになって」


「作者の水谷さんは、楽しんで介護士の仕事をしていますからねえ。本でも、その様子が伝わってきますよね」

 冬実の言葉に、京子は頷いた。


「そうなんです。それで、夜間の専門学校に通って福祉の勉強をして資格を取ってから、会社を辞めてホームに入ったんです」

「すごい、努力家ですねえ」

「いえ、そんな」


 京子は照れて俯いた。

「今の話だけで、本になりそうですね」

 邦雄が話を継いだ。


「介護士になってからだけではなく、介護士になる前の話も入れたら、共感する読者も多いでしょうね。今は、自分が何をしたらいいのか分からず、漠然と悩んでいる社会人が多いから。そういう人に向けての生き方のヒントになるんじゃないかって、思います」


 その後、冬実はどんな本を作りたいのかをざっと説明した。

 新米の介護士が、悪戦苦闘しながら老人介護の現場に関わる様子を、生き生きと描きたい。楽しい体験ばかりではなく、苦しかったことや悲しかったことなどもありのまま描きたい。

 そして、放火事件についても触れたい。放火事件のときの様子やその後の経緯、それを通して京子自身は何をどう考えたのか――。


「最近、老人を狙った殺人事件が多いですよね。先日も別のホームが放火されたし。桂木さんがそういった事件について感じた怒りや憤りなどを伝えれば、強いメッセージになると思うんです」

「はあ」


 京子はしばし考えた後、

「でも、それなら勤続年数が長い、ほかの介護士さんのほうがいいんじゃないですか。私、美園ホームで半年しか働いてませんし。あの夜はほかにも宿直担当の人達がいて、私より経験がある人ばっかですよ」

 と提案した。


「働く長さは関係ないと思いますよ。僕も桂木さんのブログを読みました。率直に嬉しかったことや自分ができなくて悔しかったことを綴っているでしょう。それは仕事を始めたばかりの新入社員や、転職したばかりの人も共感すると思うんですね。悩んだり壁にぶつかったりしながら、自分の夢を実現するために一歩ずつ前進している、それは昔から本にもよくあるテーマだけど、今の時代はみんなすぐに成功できると思っているでしょう。今の時代だからこそ、コツコツ努力をしている人の話は、逆に新鮮じゃないかなって思いますね」


 邦雄は穏やかに自分の考えを述べ、微笑んだ。京子は少しどぎまぎしながら、「あの、さすがライターさんだけあって、表現が上手ですね」と返した。


「そうなんですよ、安藤さんはこの手のノンフィクションものに強くて、人間を描くのを得意としているんです」

 すかさず冬実は付け加えた。

「この企画を提案してくださったのも、安藤さんなんですよ」


「そうなんですか」

 京子が邦雄を見ると、「いやいや」と照れたように鼻の頭を掻いた。


「それで、私は何をすればいいんですか」

 京子が尋ねると、

「介護士になる前と、なってからのことを話してくれればいいんです。僕が色々聞きますから、それに答えてくだされば、それをもとに僕が文章を組み立てます」

 と邦雄が答えた。


「そうですか……」

 京子はコーヒーカップを置くと、

「あの、こんな私の話でよければ、いくらでもお話します」

 と、ペコリとお辞儀をした。


「本当ですか? よかった」


 冬実は嬉しそうな声をあげた。

 邦雄も「ありがとうございます。よろしくお願いします」と笑顔で返した。

 京子はその笑顔を直視するのが気恥ずかしく、俯いてコーヒーを飲んだ。

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