3月 埋み火②
「ねえ、ちょっと」
突然、肩を叩かれて牧野香織は驚いて顔を上げた。見ると、太った老婆が、険しい顔つきをしている。
「あなた、なんでここに座ってんの?」
「はい?」
香織は老婆の質問の意味が飲み込めず、首をかしげた。
「なんで座ってるのって、聞いてんのっ」
「なんでって……受付の方から、ここで待つように言われていて」
「よく見なさいよ、立って待ってる年寄りが多いのに、なんで若いあなたが堂々と座ってるわけ?」
香織は改めて待合室を見渡した。
小さな個人病院の待合室。20人ぐらいの老人がソファに鈴なりになり、大声で談笑している。
壁際には、具合悪そうに床に座り込んでいるビジネスマンらしき男や、真っ赤な顔をしてマスクをしている女子学生、「もうちょっとだから、ガマンしてね」と子供をなだめている母親がいる。
香織は昨晩高熱が出てしまい、朝になっても熱が下がらないので、この病院を訪れた。8時半から受付なので、10分前に行けば余裕だろうと思っていたが、ソファにぎっしりと座っている老人を見たときは、思わず「ウソでしょ」とつぶやいた。
驚いている香織を見て、受付の女の子は小声で、「7時から来てる人たちなんです。毎日、こんな感じなんですよ」と教えてくれた。
「近くに、すぐ診てくれそうな病院はありませんか?」
香織が尋ねると、
「どこ行っても同じですよ」
と、気の毒そうな顔をして女の子は答えた。
「診察まで、どれぐらい、かかります?」
「そうですねえ、1時間半ぐらいかかるかもしれません」
「そんなに……」
香織はめまいがした。問診表を書き、熱を測ると、39度を超えていた。
「先生に相談して、なるべく早く診てもらえるようにしますね」
女の子は席がすべて埋まっているので、パイプ椅子を出して香織を座らせ、さらに自分のひざかけを貸してくれた。香織は何度もお礼を言う。
香織は会社に電話し、「午前中には行けないかもしれない」と事情を説明しなければならなかった。
――点滴でも打ってもらって、午後には会社に行かないと。3時からのプレゼンには絶対出なくちゃ。その後は倒れてもいいから、プレゼンだけは乗り切らないと。もー、なんでこんな大事なときに熱が出ちゃうんだろ。
香織は朦朧とした頭で、熱が出た原因をあれこれ考えていた。
老人たちは、みな思い思いに、おしゃべりに興じている。ふと、老人たちの会話が耳に入った。
「今日は、後藤さんは来てないの?」
「具合悪いから行けないって、さっきメールが来てた」
――ちょっとちょっと。どういうことですか? 具合が悪いから病院に行けないって……すごいなあ、コントの世界だわあ。
香織は力なく笑った。
9時を回って診察が始まると、さらに患者は増え、壁にかけられたテレビの音がまったく聞こえないぐらいに賑やかになった。香織はガンガン痛み出した頭を抱え、必死でこらえていた。
9時半を過ぎたころ、待合室に入ってきた老婆が香織を見て、目を吊り上げて突進してきた。
「あなた、なんでここに座ってんの?」
「はい?」
「なんで座ってるのって、聞いてんのっ」
「なんでって……受付の方から、ここで待つように言われていて」
「よく見なさいよ、立って待ってる年寄りが多いのに、なんで若いあなたが堂々と座ってるわけ? 私はね、7時過ぎにはここに来て、診察券を出したんだからっ。私のほうが先なのよっ」
「吉田さん、この方は40度近い熱があるんです、だから椅子を出したんですよ」
見かねて受付の女の子が事情を話すと、
「私だって膝が痛いんだから、立って待ってらんないわよっ」
と老婆は一喝する。
「いえ、この方は40度もの熱が」
「床に座ればいいでしょ?」
「そんなわけには」
「牧野さーん、お入りくださーいっ」
そのとき、年配の看護士が診察室のドアを開けて香織を呼んだ。香織は
――助かった。
と、腰を浮かしかけた。
「ちょっと待って。私のほうが先に診察券を出したのに、なんでこの人が先に呼ばれるわけ?」
吉田と呼ばれた老婆は、すかさず看護士に食ってかかった。
「牧野さんは高熱を出してるんだから、早く診ないとって先生が」
「そんなの関係ないわよ、こっちは7時に来てるんだからっ。今日の順番は7番目だってちゃんと数えて、時間を合わせて戻って来たんだから。後から来た人が先に診てもらえるなら、順番は関係ないってことじゃない」
「吉田さんは点滴を打つだけですよね? 牧野さんの後にちゃんと診ますから」
「私も忙しいんだから、待ってらんないのっ。今日は午後から出かけなくちゃいけないんだからっ」
――うわあ、これがモンスターペイシェントってやつか。初めて見た。
香織はさぞほかの患者も呆れているだろうと待合室を見渡して、驚愕した。
老人たちはみな香織を睨みつけているのだ。老人以外の患者だけ、気の毒そうに香織を見ている。
「吉田さん、先に来てたんでしょ。入っちゃえば?」
「そうよ、入っちゃえ、入っちゃえ」
ソファに座っていた仲間らしき老婆たちが、吉田という老婆を煽る。
「静かにしてくださいっ」
看護士が一喝する。その隙に、老婆は診察室に入ってしまった。
「あー、ちょっと」
看護士は慌てて連れ戻そうとする。
「よくやった」
仲間の老婆が拍手をしているのを見て、香織は頭がクラクラした。
――どうしよ、この調子じゃ、プレゼンに間に合わないかもしれない……。
数秒後、香織は椅子から床に崩れ落ちた。受付の女の子が悲鳴を上げる。
倒れた香織が診察室に担ぎこまれている最中、床に座っていた男はすばやくメッセージを打っていた。
クジョイエロー
今、近所の病院に来てる。クジョすべき害虫を発見。
ってか、ここにいるロージン、みんなクジョしたい。
数秒後、メッセージが届く。
クジョレッド
了解。朝から任務、ご苦労様です。
クジョ、ゴー!
****************
吉田稲子は、太った体を揺らしながら、歩道橋を上っていた。一段上るたびに、右膝に響く。
上から降りてくる人が、迷惑そうに体をそらせて稲子の横を通り過ぎる。稲子は脇によけようともしなかった。
「やれやれ。この歩道橋、エレベーターでもつけてくんないかしらねえ」
ブツブツ独り言を言いながら上りきり、一休みをする。
――今日は、余計なことで時間をくっちゃった。
「あの子、病院で倒れるなんて、バカよねえ。あれで時間くっちゃって、こっちは1時間も待たされたんだから。最近の若者は弱っちいんだから、ホントに。私が若いころは、熱が出ても家事をきちんとやってたんだから。寝込んでる暇もなかったんだから」
大きな声で独り言を言っていると、赤ん坊を抱いた若い母親が、怪訝そうな顔で稲子を見て追いこしていく。稲子は睨み返してやった。
「こんな風が冷たい日に、あんなにちっちゃい赤ちゃんをつれて外をウロウロ歩き回るなんて、赤ちゃんがかわいそうだね。風邪をひかないといいけど。私が若いころは、もっと気を遣ったのにねえ」
若い母親に稲子の声は届いたろうが、振り向かなかった。いつものことだ。若い人に稲子が話しかけても、たいてい嫌な顔をされるか、無視される。稲子は随分前から、「若者」という存在を激しく憎んでいた。
稲子は太った体を揺らして歩き出した。
「正輝の嫁も、まったく気遣いがないんだから。それでいて、私がアドバイスしてあげたら、嫌そうな顔をするんだからねえ。人の話を聞くっていう、謙虚な心がないんだから、あの嫁には。だから孫も生意気だしねえ。あれは教育が悪いよ。親の教育が悪い」
聞く相手は誰もいないのに、壊れた機械のように稲子はしゃべり続けた。
若い男が足音をしのばせながら階段を上り、少し距離をとって背後を歩いていることに、稲子は気づかなかった。
「よっこいせ」と掛け声をかけながら、階段を一歩ずつ降りていたとき。
背中に衝撃を受けて、稲子の上体は前のめりになった。足が体を支えきれず、「わっ、わっ、わっ」と声をあげながら、稲子の体は宙に舞った。大きな体は、まるでボールのように一度大きくバウンドし、階段を勢いよく転げ落ちた。
コンクリートの道路に叩きつけられ、稲子はしばらくうめいていた。
誰かが顔をのぞきこむ。きっと助けに来てくれた人だろう、と稲子は意識が薄れていくなかでぼんやりと考えた。
「クソババア、さっさと死ね。害虫め」
その男はそう吐き捨てて、早足で立ち去った。
稲子の頭から流れ出た血が、路上を染めていく。
稲子が発見されたのは、それから30分後である。完全に体は冷たくなっていた。
クジョイエロー
西武線の井荻周辺で、害虫駆除完了。
病院に点滴を打つためだけに毎日通う、アブラムシ系の害虫。
体格はお相撲さん級。
その存在だけでCO2の排出量が人より多い、環境破壊系の害虫。
病院で40度の熱がある女の子にからんでいた。
井荻方面の人、これで一人害虫が減って、住みやすくなりますた。
胸焼け
夕方のニュース見ました。
どうやら、事故で片付けられそうですね。
お相撲さん級、環境破壊系という表現に爆笑しました。
相変わらず、クジョレンジャーの皆さんの鮮やかな仕事ぶりと、ブラックジョークは秀逸ですね。
1ネンキン、ご用意します。
代表
オレも近くの病院で害虫を見つけたら退治します。
社会貢献、乙です。