3月 埋み火①
美園ホームの園長の元から連絡があり、京子は青梅駅の近くの喫茶店で待っていた。
放火事件が起きてから、二か月が過ぎようとしていた。その後、捜査は何の進展もないという話を聞いている。
葬式が終わった後、生き残った入居者をほかの施設に預けるために、元たちは奔走していた。系列のホームも既に入居者でいっぱいで、家族に引き取られた入居者以外は、自治体が手配したスポーツ施設やコミュニティセンターで寝泊まりしていた。
京子も、初めは手伝いに行っていたが、職員すべてに給料を払える状態ではないので、当面は好美など古参の介護士だけで世話をすることになった。京子は自宅待機となった。
系列の他のホームで働くのは、場所が遠すぎて難しい。京子は次の仕事を見つけようと求人誌を見たり、ハローワークに通っている最中だった。
現場検証の後、久しぶりに会う元は、一回り小さくなったように感じた。
ところどころ黒髪が残っていたのが総白髪となり、髪の量はかなり減っている。顔には皺がやけに目立ち、頬はすっかりこけている。
ほんのしばらく会わない間に人はここまで変わるのかと、京子は愕然として見つめた。
「ケガの具合はどう?」
「一月の終わりに抜糸したんです」
京子は右腕をさすった。そこには、まだ傷跡がくっきりと残っている。
その傷跡を見るたびに、とよを思い出す。
とよに突き飛ばされたこと、涙を流してここで死ぬと訴えていたこと、置き去りにしてしまったこと……「ああするしかなかった」「つれて逃げるべきだったのでは?」と今でも、自問自答する日々が続く。
――これは、私が一生背負っていく十字架なのかな。
最近はそう思うようになった。
「傷跡、残っちゃったの?」
「お医者さんは、いずれ薄くなるだろうって言ってました」
「そう、ならよかった」
それきり、元は頼んだコーヒーが運ばれて来るまで口をつぐんでしまった。目の焦点は合っておらず、心ここにあらずという様子である。京子は話しかけるのをためらい、黙って窓の外を見ていた。
コーヒーが来ると、元は機械的に砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜた。京子はブラックのまま一口飲んだ。
「うちの会社は倒産する」
元はつぶやくように言った。
「明日、民事再生を申請することになったんだ。遺族に賠償金を払うとなると、他のホームの利益でも賄えないってことになってね。元々、他のホームもカツカツだったし。破産手続きをとるしかないってことになった」
「それじゃ、他のホームの入居者はどうするんですか?」
「今、他の老人ホームを経営している会社に話を持ちかけてるんだ。一括で引き受けてもらうのは難しいかもしれないから、個別に売却するかもしれない。売却先さえ決まれば、入居者はそのままいられることになる」
「そうですか……」
ある程度予想はしていたので、ショックは受けなかった。
元は、掠れた声で淡々と続ける。
「それで、もしかしたら、先月と先々月分の給料を払えないかもしれないんだ。自宅待機にしておいて、申し訳ないんだけど。退職金も払えないと思う。入居者の遺族へ支払うお金を最優先しようっていう話になっていてね。せめて、京子ちゃんには、直接会ってそれを伝えておこうと思って。火事のとき、体を張ってみんなを守ってくれたからね」
「いえ、そんな……」
「ただ、会社都合で失業保険をもらえるよう、手続きはちゃんととるから。まあ、うちは給料安いから、もらえるのはわずかな額だろうけど。次の仕事が見つかるまで、生活が厳しくて申し訳ないんだけど」
「大丈夫です、何とかなります。貯金が少しあるし」
京子は元に心配かけないよう、努めて明るい声を出した。
しばらく、二人は無言でコーヒーを飲んでいた。
やがて、元が「これ、少ないんだけど」と、スラックスのポケットから封筒を取り出した。
「せめてお見舞金でも渡したくて」
「そんな、いいですよ。これから大変なのに」
京子は封筒を押し返した。
「これは理事長からなんだ。京子ちゃんはあの夜、大変な思いをしたんだから、せめてこれぐらいは渡してほしいと預かっていて。退職金にもならないわずかな額で、申し訳ないんだけど」
元の目は潤んでいた。京子はそれ以上断るわけにもいかず、
「……そういうことなら、分かりました」
と受け取った。
「ほんっとうに、申し訳ない」
元はテーブルに両手をついて、京子に向かって頭を下げた。
「そんな、元さんが悪いわけじゃないし、やめてください」
京子はあわてて顔を上げるよう促した。
「いや、事件の後、今までほったらかしてたし」
「それは、後の処理とかで忙しかったからで」
「いやいや、経営者として、働いてもらっていた社員に何も連絡を入れないなんて、やってはいけないことなんだよ。本当に、情けなくてねえ。みんなには迷惑ばっかかけちゃってねえ」
元は大きなため息をついた。
自分を責めている元に何か慰めの言葉でもかけたかったが、適当な言葉を思いつかない。京子は無意味にコーヒーをスプーンでかきまぜていた。
「あの、好美さん達はどうなるんですか」
京子の問いかけに、元はつらそうな表情になる。
「好美ちゃん達には、これから会って話をしなきゃいけないんだ。彼女達はずっとうちで働いてくれていたからね、ショックも大きいと思う」
「そうですよね」
京子が自宅で待機している間、好美から何度か電話があった。
好美は、「系列のホームで働くことになるかも。同じ系列なら、そんなに環境は変わらないだろうし」と話していたのだ。
美園ホームで自分の居場所をつくりあげてきた好美は、居場所を失うことになる。あの年齢だったら、なおさらショックが大きいのではないかと、京子は思った。
「ああ、そうだ、忘れるところだった」
元はジャケットのポケットから、一枚のメモを取り出した。
「京子ちゃんに会って話がしたいって、出版社から本社に連絡があったんだ」
「出版社?」
「今回のことで取材をしたいのかな。まあ、気が向いたら、連絡をしてみればいいんじゃないかな」
元はメモを京子に渡すと、
「それじゃ、短い間だったけど、京子ちゃんにうちで働いてもらって、助かったよ。本当にありがとう」
と、深々と頭を下げた。
京子も、あわてて頭を下げて
「こちらこそ、色々と教えていただいて、ありがとうございます。お世話になりました」
と返した。
「それじゃ、元気でね」
元は最後に少しだけ微笑むと、伝票をつかんで立ち上がった。
店から出て、その後ろ姿が見えなくなるまで、京子は見送った。
――もう会うことはないのかな。
そう思うと寂しくなり、思わず涙がこみあげてくる。
目元に浮かんだ涙を指で拭いながら受け取ったメモを見ると、連絡先が走り書きしてあった。
『平和堂出版 編集部 田口さん
03―××××―××××』