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曇天。  作者: 凪
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2月 燠(おき)⑧

「こちらがパンフレットとスケジュールになります」

 

 雄太は受付嬢から封筒を受け取った。

 赤羽駅の近くにあるスポーツクラブに雄太は来ていた。その場で入会するつもりだったが、写真や身分証明書などが必要であると知り、出直すことにしたのである。

 

 ――手っ取り早く痩せるには、ジムに通うしかないよな。

 

 会社帰りらしいビジネスマンやOLが次々と奥に消えていくのを見ているうちに、雄太は痩せたいという思いがより強くなった。


 ――俺だって、ちょっと前までは引き締まったいい体してたんだから。ジムにも通ってたし。


 スポーツクラブを出た後、近くのファミレスで夕飯を食べることにした。

 途中のコンビニで暇つぶしにと買った週刊誌をパラパラとめくっていると、『IT長者の転落した人生 かつてのカリスマ経営者のみじめな末路』という見出しが目にとまった。

 そこに載っている顔写真を見て、思わず「あっ」と声をあげてしまった。


 小早川龍――雄太の勤めていたIT企業の社長だった人物である。写真は、経営がうまくいっていたときのものだった。

 雄太は食い入るように記事を読み、途中で料理が運ばれてきても気づかなかった。

 

 その記事によると、龍は覚醒剤を所持していたところを捕まったらしい。

 会社が倒産して夜逃げした後、家族はバラバラになり、龍は日雇いのバイトをしながら生活していた。

 やがて振り込み詐欺の首謀者と知り合い、犯罪に手を染めるようになってしまった。罪悪感から、薬に手を出すようになった――そんな経緯が記事には書いてある。

 逮捕されて既に2週間ほど経っているらしい。


 ――昔は、カリスマ経営者って言われて、雑誌やテレビで引っ張りだこだったのに。今じゃあ、罪を犯しても2分の1ページで書かれる程度かよ。もう、そんな転落したやつの話なんて、珍しくもないんだな。どん底の生活でもがき苦しんでも、世間から見ればたったこんだけのボリュームにしかならないってことか。


 さば味噌煮込み定食が冷めてしまうことに気づき、雄太はようやく箸をとった。


 ――堕ちるところまで堕ちた人生。それは俺も同じだよな。薬に手を出さなかったのが、奇跡に思えるよ。俺の場合、ブログがあるから、それで何とか踏みとどまってるんだろうけど。


 黙々とさばの味噌煮込みを食べているとき、隣の席で「あー」と叫び声が上がった。見ると、子供がコップを倒してしまい、ジュースがテーブル一面にこぼれてしまっている。


 店員が飛んできて、テーブルを拭いた。

 若い父親は「すみません」と店員に何度も謝り、母親は洋服を濡らした子供に「あーあ、お洋服濡れちゃったね」と話しかけ、おしぼりで拭いてあげている。


 雄太は、離婚する前にひかると綺羅羅と一緒にファミレスに行った時のことを思い出した。

 ひかるは「なんでこんな店に来なくちゃいけないの」とブツブツ文句を言っていた。

「今はカネがないんだから、仕方ないじゃないか」と雄太がなだめても、ひかるはずっと不機嫌だった。


 そのとき、綺羅羅も同じようにジュースをこぼしてしまった。

 ひかるは「もう、何やってんのよ」と綺羅羅を怒鳴りつけ、綺羅羅が泣き出し、雄太はなだめるのに必死だった。


 その帰り道、「外食が嫌なら、お前が作ればいいだろ」と雄太もキレてしまい、大ゲンカになった。それが発端となって、ひかるは家を出て行ったのだ。


 ――俺たちは、あんな幸せそうな親子にはなれなかったな。


 そう思うと、心がずしんと重くなった。


 ――ファミレスで満足している人間は、一生ファミレス程度の人生しか送れない。


 そう言ったのは、龍だった。

 無理してでも高級レストランに行くべきだ、自分は学生時代から背伸びして高い店ばかりに通っていた、だから成功できたんだ、セレブな人生は目標の設定値さえ高くしておけば手に入れられるものなんだ……そんなことを、龍は会議やマスコミの取材のときに意気揚々と語っていた。


 ――成功なんか、しなきゃよかった。ファミレス程度の喜びしか知らない人間は、堕ちる時もそれほどダメージは受けないよな。てっぺんに上ってからどん底に堕ちると、落差が大きすぎて立ち直れなくなる。失敗するなら、成功なんてしないほうがマシだよ。


 雄太は昼間に会った井上という男を思い出した。

 常に不幸のどん底にいるような人生を送っている男。

 いつもどん底にいるのなら、求めるもののレベルは低くてすむ。四畳半に住めるだけで、風呂がなくても共同トイレでも、幸せを感じる人生。


 ――でも、そんな人生、クソみたいな人生だ。生まれてきた意味がないじゃないか。しょせん、人間なんて、みんなクソみたいな人生を送っているんだ。そうだよ。


 雄太は箸を置いた。

 店内を見回すと、テーブルごとにさまざまな客がいる。


 小さい子供づれの親子、友達とはしゃいでいる女子高校生のグループ、ママ友らしい集まり、孫と来ているらしい高齢者、一人で食べているOLやサラリーマン……。


 ――結論。人間は生まれながらにしてのクソだ。どれ一つ、マシな人生なんてない。オレの人生だって、そうだ。オレの人生だって、クソみたいなものなんだ。それに気づいているか、気づいてないかの違いだけなんだ。


 孫に話しかけている祖父母は、顔をほころばせ、至福の時を味わっているようである。

 その光景を見ているうちに、苛立ちが強まってきた。


 ――どうせ普段は、世の中からやっかいもの扱いされてるんだろ? 残り時間がわずかで付け足しみたいな人生なんだろ? 明日、オレは老人ホームに行って、放火する。それはクソみたいな人生を終わらせてあげるためなんだ。生きることに絶望する前に。いいや、もう絶望している人のために。オレが人生を終わらせてあげるんだよ。


***************


 奥山ふみえは、ベッドに座り、せっせと編み棒を走らせていた。


「ふみえさん、そろそろ就寝の時間ですよお」


 部屋に入ってきた介護士に声をかけられて時計を見ると、既に9時を回っている。


「頑張ってますねえ。今日、ずっと編み物してましたよねえ」

「もうすぐ、娘の子供が生まれるの。赤ちゃん用のおくるみを作ってあげようと思って」

「赤ちゃん、男の子なんですかあ? 女の子?」


「産まれるまでの楽しみに取っておきたいからって、聞いてないんですって。だから、どっちでもいいように、ピンクと青の両方を使ってるの」

「すごいですよねー、ストライプになっていて。こんな手が込んだの、私には無理だなあ」

「あなたも、子供ができたら、作りたくなるわよ」

「その前に、まず彼氏を見つけなきゃあ」


 介護士は朗らかに笑い、「あんまり根つめないでくださいねえ」と言い残して、部屋を出ていった。


 ――私は幸せね。家族とは離れて暮らしているけど、ちょくちょく遊びに来てくれるし、ここのスタッフの人たちとは気が合うし。これ以上のことを望んだら、バチがあたるわね、きっと。


「さてと。ここまで編んだら、今日は寝ましょ」


 独り言を言って、再びふみえは編みはじめた。

 ふと、焦げ臭い匂いがするのに気づいた。


 ――こんな時間に、誰かが何かを燃やしているのかしら。


 その数秒後、火災報知機がけたたましく鳴り響いた。


「大変」


 ふみえはベッドから車椅子に移り、廊下に出た。すでに、廊下には煙が立ち込めている。


「火事だー!」

「みんな、起きろ、火事だああっ」


 大声をあげて走り抜けていく人や、部屋から出てきて呆然としている人もいる。


「大変、逃げないと」


 ふみえは車椅子を走らせようとして、ふと編みかけのおくるみをベッドに置き忘れたことに気づいた。慌てて車椅子を方向転換させようとするが、うまくいかない。


「ふみえさん、早くこっちに!」


 介護士がほかの人の車椅子を押しながら叫んだ。


「ちょっと待ってて。忘れ物」


 ようやく車椅子を方向転換させ、部屋に戻る。

 ベッドの上のおくるみをつかみ、再び廊下に出た時は、目を開けていられないほど煙が充満していた。咳きこみながら、車椅子を走らせる。

 どこに向かえばいいのか、見当がつかなくなっていた。



 神奈川の大山にある老人ホーム「ハッピーライフ大山」で起きた火災は、死者25人、重傷者57人を出し、戦後最悪の老人ホームでの事件だと、メディアで騒がれた。

 奥多摩の老人ホームの放火事件を教訓に、そのホームでは数日前に防災訓練を行ったばかりだった。


 だが、訓練も実際の火事の前には役に立たなかった。

 寝たきりの老人や車椅子の老人を職員や元気な老人達で運び出そうとするうちに、却って多くの人が煙を吸い、動けなくなってしまったのである。


 ふみえが動かない状態で見つかった時は、その手にはしっかりと編みかけのおくるみが握られていた。

 のちに、美談としてこの話はメディアで繰り返し報じられることになる。


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