2月 燠(おき)⑦
その日、雄太は道子が客を物件に案内するのに同行することになった。
「うちでどんな物件を扱っているのか、知っておいたほうがいいでしょ」
勇蔵はもっともらしい理由を述べたが、勇蔵の愛人らしい女が訪ねてきたから提案したのは見え見えである。
近くの商店街でブティックを経営しているというその女は、厚化粧で黒いワンピースを着て、香水の臭いをプンプンさせている。初対面の雄太に対してもやけに馴れ馴れしい態度をとるので、辟易していた。
――いるんだよな。若者と同じレベルで会話できるってアピールして、自分は若いんだと思い込んでるようなおばさん。
「あの女の人、社長の愛人ですか?」
道子にこっそり尋ねると、
「まあね。すっごく図々しくて、コーヒーを入れろとか、お菓子はないのとか、うるさいの」
とうんざりした様子で答えた。
「社長も趣味悪いなあ」
雄太の言葉に、道子は「ハハ」と声だけで軽く笑った。
数秒後、勇蔵は昔、道子に手を出しかけたという話を思い出した。
――やべ。この人のことも趣味悪いって言ってるようなもんだな。
雄太はそっと道子の表情を伺ったが、怒っているようには見えない。
「ねえ、みっちゃん、何か飲むものなあい?」
愛人に聞かれると、
「これから外に出るんで。何か飲みたかったら、台所で好きに入れてください」
と、道子はキッパリと言った。
「私、車持ってくるから、お客様と一緒に外に出て待っていてくれるかな」
と雄太に声をかけ、道子は車のキーを持って出て行った。
「行ってらっしゃあい」
雄太が事務所を出る時、社長の愛人は甘ったるい声を投げかけた。雄太は聞こえないフリをした。
客は、40代後半の男だった。
「ガリガリ」という表現がふさわしいほど痩せていて、顔色は悪い。白髪が目立ち、60代ぐらいに見える。眼鏡の奥の目は暗く淀み、何かに脅えているようにキョトキョトと目を動かす。
ふと手を見ると、指先が真っ黒だった。何日も風呂に入ってないのだとすぐにわかる。
――この人、ネカフェ難民どころか、ホームレスすれすれの生活だったんだろうな。俺のほうが、ネカフェに毎日泊まれるだけ、まだマシだったのかも。
雄太は話しかける言葉を何も思い浮かばず、二人で寒さに震えながら、黙って車を待っていた。
数分後、道子は「村野不動産」と車体に書かれた、白い軽自動車を二人の前に止めた。助手席に客が乗り込み、雄太は後部座席に乗り込む。
「井上さんは、埼玉に住んでたことはあるんですか?」
道子が運転しながら、男に尋ねた。
「いえ」
「そうですか。川口は便利ですよ。一駅で都内だし。京浜東北線で上野や横浜まで一本で出られるし、赤羽で乗り換えれば池袋や新宿にも出れるし。環境もいいから、穴場なんですよ」
「はあ」
「これから案内する物件は、駅からは遠いんですけど、静かで環境はいいんですよ。近くに安売りのスーパーもあるし。コインシャワーやコインランドリーもありますから」
「はあ。まあ、住めればそれだけで十分です」
消え入るような声で男は答えた。
「そうですよね、住めば都って言うし。川口の格安物件の中では、私はここが一番お勧めなんですよ」
道子は男の様子に気づかないのか、気づかないふりをしているのか、明るく話し続ける。男はたまに「はい」「ええ」「まあ」と短く相槌を打つだけだった。
15分ほどで物件に着いた。
駅から歩いて20分ほどの住宅街にあるそのアパートは、見るからにボロボロで赤い屋根の色はすっかり剥げ落ちてしまっている。外階段はなく、玄関に入ると、正面に2階に上がる階段があった。
「トイレはここですから」
道子はほかの住民の迷惑にならないよう、声を落として説明した。
家賃1万5000円というそのアパートは、風呂なし共同トイレの四畳半の物件だった。雄太は二人の後をついて、珍しいものを見るような気分で内覧につきあった。
アパートを見た後、道子は周辺を車で回り、スーパーやコインシャワーの場所などを教えた。
「帰りは、川口駅まで出てみましょうか」
道子がやけに親切なので、内心雄太は驚いていた。
――俺に色目を使ってるんだと思ってたけど、男なら誰にでも優しくするタイプなのかな。
男も徐々に打ち解けてきたのか、ポツリポツリと話すようになった。
話をつなぎ合わせると、男はホームレスの支援をしているボランティア団体の力を借りて、ようやく仕事を見つけたらしい。
ここ2年ほど、日雇いの仕事でしのいでいたので、定職を見つけられただけでも奇跡のようだ、というような内容だった。
「よかったですね。まさに新天地で、新しい生活のスタートですね」
道子の言葉に、男は無言で頷いた。肩がかすかに震えている。鼻を頻繁にすすっているので、どうやら男が泣いているらしいことに雄太は気づいた。
「小峰君、そこにあるティッシュを取ってもらえるかな?」
道子に言われ、後部座席に転がっていたティッシュケースを男に手渡す。
「すみません」
小さく言い、男は鼻をかんだ。
道子はラジオをかけた。女性ボーカルのアップテンポな曲が車内に流れる。90年代に大ヒットした曲だった。重い雰囲気に不似合いな曲に、雄太は救われたような気がした。
――バラードや演歌だったら、余計にしんみりしちゃうよな。俺もネカフェ難民のときは、バラードをまともに聞けなかったし。
男は、ぼんやりと窓の外を見つめている。
懐かしい曲を聴き、過去を思い出しているのかもしれない。もう戻れない、幸せな頃のことを――。
**************
「あの人、かなり悲惨ですね」
事務所に戻ると、入れ替わりに勇蔵と愛人の女は出かけた。客の男が手続きを済ませて帰った後、道子と二人きりになり、雄太は感想を漏らした。
道子は、「誰のこと?」と首をかしげた。
「さっきの井上さんとかいう人。48歳で独身みたいだし、今までホームレスだったみたいだし。あんな四畳半のアパートに、あんないい歳した人が住むなんて、悲惨じゃないっすか。学生ん時は、地方から出てきた友達が、ああいうアパートに住んでたけど。社会人でも住むものなんだなあって」
「まあ、今は非正規労働の人が多いから。いつどうなるか、わからないからね」
道子はさらりと答えて書類に目を落とした。
「でも、20代ならともかく、40代であれじゃあ、やばくないですか? 問題に対処する能力がないっていうか。あそこまで堕ちる前に、普通は何とかするじゃないですか。何も考えずに生きてきたっていうか」
「ずいぶん、きついこと言うんだね」
道子は表情を変えずに言った。
「うちは格安物件を主に扱っているから、昔からああいうようなお客さんばっかりだよ。60代や70代の人だっているし。みんな、それぞれ事情があって、安いアパートに住むんだから。何にも知らないのにそういうこと言うのは、どうかと思う」
道子のやや厳しい言い方に、雄太は気圧されて黙った。
しばらく沈黙が続いた。
「お茶でも入れようか」
やがて、道子は笑顔で声をかけ、台所に消えた。
――ちょっと待て。何で俺が、あんなブスに説教されなくちゃなんねえんだよ。
雄太の心に、じわじわと不快感が広がっていった。
――俺はお前とは違うレベルの人間なんだってば。あー、早く痩せないと、あんなブスにコケにされっぱなしなんて、耐えらんないよ。それこそ、生きてる価値ないって。
雄太は足元にあったゴミ箱を軽く蹴った。
***************
一人の老婆が、電車に乗り込むなり、優先席に突進した。向かい合って8人は座れるスペースは、20代ぐらいの若者が既に席を埋めていた。
スマフォを見ながら笑っている男二人――この二人は友人だろう。
その隣には腕を組んで眠っている男、さらにその隣には本を読んでいる女。
向かいの席には、スマフォで黙々とメールを打ち込んでいる男、ゲームをしている男、手鏡を見ながら化粧を直している女、イヤホンで何かを聞いている女が座っている。
老婆はざっと見回し、軽く舌うちをして、一番おとなしそうに見える本を読んでいる女の前に立った。女は気づかないのか、本から顔を上げようとしない。
老婆はよろけたフリをして女の足を踏んだ。女は驚いて顔を上げた。
「あら、ごめんなさい。でも、ここは高齢者専用の席でしょ。私は足が悪くて通院してるの。そこ、譲ってくださる?」
早口でまくしたてる。
足を踏まれた女は本を閉じて、
「今、この人、私の足を踏んだ」
と指差した。
すると、優先席に座っていた7人が一斉に立ち上がり、
「それは立派な傷害罪だなあ」
「そもそも、ここは老人の専用席じゃねえよ。優先して座らせてあげてもいい席だから。座らせてあげるかどうかは、俺らが決めるから」
「お前今、早足で入って来たろ? 足、悪くないんじゃね?」
「踏まれた足の指が折れてたら、どうすんの? 責任取るんだよね」
と口々に老婆に向かって意見した。
老婆はさっと青ざめ、顔がひきつった。きびすを返すと、閉まるドアに挟まれそうになりながら電車から転がり下りた。
その様子を見て、8人は手を叩きながら大笑いした。
「おもしろーい、本当にいるんだね、人を攻撃するロージン」
「そうそう。ああいうのを害虫って言うの」
「やっぱ、優先席はなくさないとダメだね。ああいうわがままなロージンを増殖させちゃうから」
「マナーの悪い若者には教えればいいけど、ロージンになったら教えても直せないからなあ。ロージンが一番マナーが悪いよ」
「ホント、ホント」
すがすがしい表情で笑いあっている8人を、ほかの乗客は複雑そうな顔で見ていた。
一人の男が、笑いながらメッセージを打っている。
クジョピンク
優先席撲滅運動のために、迷惑な害虫を一匹追い出しました。
優先席を、みんなのために取り戻そう!