エピローグ
京子は、最後の段ボール箱にガムテープを貼り終えた。
部屋の隅に積んであった段ボール箱の上にそれを乗せ、額の汗をぬぐう。
「たった半年しかいなくても、結構荷物ってたまるもんなんだね」
荷造りを手伝ってくれていた有紀に話しかけた。
有紀は「お茶でも買ってきますね」と腰を上げた。京子も「お手洗いに行って来る」と部屋を出た。
衆議院の第二議員会館の一室。京子の部屋は5階の廊下のつきあたりにあった。
はじめて京子がこの部屋を訪れた時は、その広さに興奮した。
自分の執務室のほか、秘書たちの部屋や応接室もあり、ちっぽけな存在の自分が急に偉くなったような気になったものだ。
この部屋で、数えきれないぐらいマスコミの取材を受け、仕事の打ち合わせや支援者と話をした。休日に事務所に出て来て、勉強をしたこともあった。
その生活も、今日でおしまいである。
――あっという間だった。
京子は洗面所で手を洗いながら、鏡に映る自分を見つめた。荷物の整理をしていたので、髪がボサボサになっている。さっと手ぐしで整えた。
そのとき、隣の男性用トイレから話し声が聞こえてきた。
――このダミ声は、蒲生さんか。
静まり返った廊下に、野太い声はよく響く。
「いやあ、野々村君のおかげで、うちの派閥はようやく返り咲いたよ」
誰かと電話で話しているらしいが、相手の声までは聞こえない。
「もちろんだよ。君にはこれから、政策秘書として働いてもらう。君を捨て駒として使うほど、俺は悪党じゃないよ。なにせ、厚労省に攻め込んでくれたんだから。これで官僚もおとなしくなったし、田部井を総理から降ろせたし、一挙両得って話だよ」
京子は息を止めた。
――厚労省に攻め込んだ。
確か、厚労省の襲撃事件の主犯の一人が、まだ行方不明になっているはずだ。
実行犯の一人がダイナマイトを体にくくりつけて騒いでいる間に、姿をくらましたらしい。鉄拳5と名乗る人物は動画で顔を出すこともなく、立てこもったメンバーの供述から似顔絵をつくったが、有効な情報は得られていない。
犯人を取り逃がしたのは自衛隊と警察の失態だと、しばらくはマスコミでも騒がれていた。
――まさか、その犯人と蒲生さんは話してる……?
鼓動が速くなる。
京子は自分が聞いてはいけない話を聞いてしまったのだと悟った。とっさに口に手を当てて、息を殺し、足音を忍ばせて自分の部屋に戻った。
――聞かなかったことにしよう。もう、政治の世界に関わるのはまっぴら。
厚労省の立てこもり事件の際に、田部井総理大臣が戦車を出動させたことで、野党だけではなく国民からも非難が集中した。
与党は火消しに躍起になっていたが、田部井は体調不良を理由に辞任することになったのだ。
先月、総裁選が行われて蒲生派の石田博史が総理大臣に選ばれた。だが、自由連合の支持率はどんどん落ちて行っている。
今度こそ望みの党に政権交代の兆しが生まれたかと思っていた矢先に、京子のスキャンダルが報じられた。事務局長の舟崎との不倫疑惑だった。
実際には不倫していたが、「そういう事実はありません」で押し通した。
それで何とか乗り切れると思っていたところ、美園ホームの放火事件で、京子は一人の老人を見殺しにしたというスクープ記事が週刊誌に掲載されたのである。
その記事を書いたのは、邦雄だった。
京子は邦雄との仲をフェイドアウトさせたつもりだったのだが、邦雄は海外でも変わらず京子に執心していたらしい。
舟崎に紹介してもらった仕事でトラブルを起こし、日本に戻ってから京子とまったく連絡が取れなくなっていることを知り、自分はうまく丸めこまれたのだと気づいたようである。
さらに舟崎との関係を知り、怒りに火がついた。
三郎とみつを探し出し、京子がとよとの最期の会話について話してたことを知り、疑問を持ったらしい。
北海道にいる好美や、当日現場にいた介護士を探して話を聞き、京子がとよを見捨てて逃げたのではないかと仮説を立てた。そして、執念で、火事のさなか京子がとよの部屋から一人で出てきたのを見た入居者を探し当てたのだ。
週刊誌の記事は、「放火事件のヒロインが高齢者を見殺しにしていた?」と推測の域を出ていなかったが、政治家としての京子に打撃を与えるには十分だった。
最初は傍観する構えだった小谷桜子代表も、報道が大きくなるにつれ、さすがに無視しているわけにはいかなくなった。
桜子に呼ばれてすべての事情を打ち明けると、「それは一歩間違うと自殺ほう助罪になるかもしれない。うちの党では庇いきれないから、進退は自分で決めてほしい」と言い渡された。京子はすぐに辞表を提出した。
部屋に入ると、有紀はペットボトルの紅茶とケーキの箱をセッティングしている最中だった。
「これ、京子さんもお気に入りのモロヅカのケーキです。友達に頼んで、買ってきてもらったんですよ」
「ホントに? ありがとう」
京子は手を叩いて喜んだ。
京子はチョコレート系のケーキを選び、有紀はフルーツタルトを選んだ。
「本当は、私が買ってこなきゃいけなかったのに。今までお疲れ様でしたって、ねぎらうのは私のほうなのにね」
京子が言うと、有紀は頭を振った。
「そんなことないですよ。私、ホント、秘書なんてするの初めてで、京子さんにはお世話になりっぱなしで」
「私こそ、てんぱってばかりいたから、有紀さんには本当に助けられたし」
2人はしばし思い出話に花を咲かせた。
ふいに有紀は真顔になり、
「私、京子さんは何も悪くないと思いますよ」
と言った。
「佐藤とよさんって人は、助けないでほしいって、ここで死ぬって言ったんでしょう? 私が京子さんの立場だったとしても、そこで無理やりつれだそうとするのは難しかったんじゃないかって思います。助けたら、後でとよさんから恨まれるかもしれないし」
「うん、どうなんだろうね。今となってはどうすればよかったのかなんて、分かんなくて」
京子はため息をついた。
「少なくとも、とよさんは恨んでないと思いますよ、きっと」
そのとき、引っ越し業者が荷物を引き取りにきたので、有紀は応対するために席を立った。
――あっという間だったな。まるで夢を見ていたみたい。
議員会館を出て、京子は振り返って会館を見上げた。
窓がびっしりと並んだシルバーグレーの建物。その重厚さに、最初の頃は圧倒された。
――美園ホームが放火にあってから、まだ1年と3カ月しか経ってないのに。その間に私は本を出して、マスコミにコメンテーターとして引っ張りだこになって、政治家になった。大吾と別れて邦雄と一緒に暮らして、舟崎さんともつきあった。議員になって高額の給料に舞い上がったけど、これから起きる裁判で、すべて失っちゃうんだろうな。もう、何も残らない。
とよの息子が、訴訟に向けて準備をしているという話を聞いた。
葬式の時に会った、あの非情そうな目。
――とよさんを見捨てていたくせに。でも、お葬式の時から、あの人は何かを探っていた。訴訟を起こせるような材料を探してたのかもしれない。それなら、飛びつくよね。
京子は歩き出した。頬をくすぐる風はやわらかい。季節はすっかり春になっていた。
――いい夢だったのか、悪い夢だったのか。どっちだったんだろう。
最後に、望みの党の本部に顔を出して挨拶をすることにした。
きまり悪いが、仕方がない。自分のせいで多くの人に迷惑をかけてしまったのは事実なので、何も言わずに去るわけにはいかないだろう。
――なんで、不倫なんてしちゃったんだろ。今はバカなことをしたなって思えるけど、あの時は、自分のことを分かってくれるのはこの人だけって思っちゃったんだよね。運命の人だって思ってたけど、不倫がバレるって分かった瞬間から、LINEはブロックされちゃうし、廊下で会っても逃げちゃうし。あんな弱い人だって思わなかった。
京子はスマホを取り出した。
何度も迷いながら、ある番号に電話をかける――相手は大吾だ。
だが、「この番号は現在は使われておりません」というアナウンスが流れてきた。大吾の実家の連絡先は知らない。
京子は震える指で電話を切った。
――大切なものを、すべてなくしちゃった。全部、全部。私はこれから、どうやって生きてけばいいんだろう……。
掌の中で電話が鳴り、表示を見ると自分の実家からだった。
「もしもし。ああ、お母さん? うん、元気。今日で仕事は終わり……うん。ごめんね、心配かけて……ねえ、私、家に帰っていいかな?」
最後は涙声になってしまった。
「うん、ありがとう。それじゃ、帰るね」
鼻をすすりながら電話を切る。指先で涙を拭う。
空を見上げると、陰鬱な空の色だった。
京子はおそらく二度と吸うことのない永田町の空気を思いきり吸い込んだ。
厚く垂れこめた雲も、いつか風で流されていく。
いつか、光が地上を照らすだろう。
いつか、晴れ渡った空に希望を見出すだろう。
今は自分の罪を背負って、歩いていくしかないのだ。
赦される日がいつか来ることを祈りながら――。
京子は前を向いて、一歩踏み出した。
完