12月 狂炎 ㉗
どれぐらい走っただろうか。
高架線で右に折れ、しばらく走るとSLが見えた。それを見て、新橋駅に着いたのだと気づく。ここも通行規制が行われていて、あちこちで警官が車や通行人を誘導している。
順二はフラフラになりながら近くの駅ビルに入った。
喉がカラカラである。ジーパンのポケットに財布を入れていたことを思い出し、自販機を探してミネラルウォーターを買う。
ゴクゴクと音を鳴らしながら飲んでいると、スマホが震えた。取り出すと、表示は南になっている。
順二は急いで耳に押し当てる。
「南っ」
だが、予想に反して、低い男の声で「やあ、こんにちは」と挨拶された。
「誰?」
男はフフフと低く笑う。
「私の声を忘れてしまいましたか?」
「あっ、あんたは」
それは榊原の声だった。順二は絶句する。
「テレビを見ていましたよ。どうやら、うまく逃げだしたようですね」
「……」
「今、厚労省はパニックになってますよ。ダイナマイトを体にくくりつけた男が、玄関前で騒いでますからね。その騒ぎに紛れて、うまく逃げだしましたね」
「なんでそれを」
「私は何でも知ってるんですよ。あなたのことなら」
榊原の言葉に、順二は全身に鳥肌が立った。
「そそそれより、なんで南の番号からかけてるんですか」
「私の番号からかけても、あなたは出ないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「南はここにいますよ。声を聞きますか?」
「ホントに?」
ややあって「順君?」と懐かしい声が聞こえた。
「南ぃ」
順二は胸がいっぱいになり、それ以上は何も言えなかった。
「順君、すごいことしたんだね。テレビで見てたよ。動画も見た。カッコよかったあ」
「南、俺、南にずっと、会いたくて」
「私も。早く会いたい。私、東京に帰ってきたんだよ」
「ホントに? じゃあ、じゃあ、会おうよ。すぐに会おうっ」
「うん。ちょっと待ってね」
そこで、榊原が電話に出た。
「順二君、今どこにいるんですか。迎えに行きますから。今は電車にも乗れないでしょ」
「えっ、迎えって……」
榊原から逃げようとしているのに、榊原につかまるわけにはいかない。
「いや、自分で何とかしますから」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょ」
「順君?」
南の声が聞こえた。
「とにかく、そこから離れないと。私も一緒に行くから」
榊原が隣にいるのに、榊原から離れるように説得するのは難しい。
「……わかった。南も来るんだね?」
「うん、行くよ」
順二は覚悟を決めた。
「えーと、ここは……」
順二は周りを見渡し、目印になりそうなものを列挙した。
「順君、待っててね。すぐに行くから。それまで、どこかに隠れてたほうがいいよ」
「わかった」
電話を切り、順二は自分が涙を流していることに気づいた。久しぶりに聞いた南の声が、深く胸に染みわたっていく。
――やっと。やっと南に会える。
そう思うと、後から後から涙が湧き出てきた。順二は人に見られないよう自販機の陰に隠れ、しばらく静かに泣いた。
30分ほどして、スマホが震えた。南達が迎えにきたのだ。
外に出て車を探すと、少し離れた路地にグレーの車が止まっているのを見つけた。人混みを抜け、車に向かうと助手席のドアが開いた。
車に体を滑り込ませ、大きく息をついた。
「久しぶりですね」
順二は何か言おうと榊原を見て、ギョッとした。見知らぬ顔だったのである。
「ああ、言い忘れてました。整形手術を受けたんですよ。ちょっと気分転換したくてね。でも、声だけは変えられないから、私だと分かるでしょ」
榊原は、目と鼻をいじり、髪を染めたのだと説明した。
「ちょっといじるだけで、ずいぶん印象が変わるでしょ。別人になった気分ですよ」
なぜ顔をいじったのか、理由を聞かなくてもわかる。海外移住詐欺の犯人として指名手配されているからだ。
テレビで似顔絵が公開されたとき、順二はそれが榊原だとすぐに気づいた。何度も警察に話そうかと思ったが、榊原の部下に見張られているのであきらめたのだ。
後ろの座席を見ると、誰も乗っていない。
「ああ、南は別行動にしました。もし、順二君が見つかってしまったら、南も巻き込まれるかもしれないでしょ? 都内を出るまで、一緒に行動しないほうがいいだろうって、私が判断したんです」
――確かに、そうかもしれない。
順二はその考えには素直に従った。
車は静かに走り出した。道路のあちこちで警官が警備をしている。順二は顔を伏せた。榊原はダッシュボードから黒縁のだてメガネを取り出し、順二に渡した。
「これをかけるだけで、カムフラージュになるでしょう」
順二はお礼を言い、眼鏡をかけた。
「それにしても、ずいぶん思いきったことをしましたねえ、爆弾を使うなんて。まるで映画のようでしたよ。あそこまでするとは、思いませんでした」
榊原はのんびりした口調で話しかける。
順二は、前から疑問に思っていたことを尋ねた。
「あの、ホームレスにお金をばらまいたのは、榊原さんですか」
「ええ」
「なんでそんなことしたんですか。何のために」
「昔から、金持ちから金を盗んで、それを貧しい人に恵んであげるっていうパターンは喜ばれるじゃないですか。貧しい人のヒーローになる。それを狙ったんですよ」
「でも、榊原さんがヒーローになったわけじゃないでしょ」
「そう、私じゃなく、あなたがヒーローになった。それでいいんですよ。私は表に出るのは好きじゃないんですから。人には向き不向きっていうものがある。あなたは、みんなの前に出てもっと脚光を浴びてもいい人物ですよ」
「いや、俺、何もしてないし」
「いえいえ、世の中はあなたのようなヒーローを求めてるんです。悲劇的な状況から立ち上がったヒーローをね。実際に、あなたがいなければ厚労省の襲撃なんて誰もしなかったでしょ」
「別に、俺が考えたわけじゃないし。別のやつが言いだして、その話にみんな乗っかって、ダーッと突っ走っちゃった感じで」
「それも、あなたが年金機構の宿舎を襲ったからでしょう。みんな、あなたの行動に影響を受けてるんですよ。あなたに心酔している」
「いや、それも俺がやったわけじゃないし。俺はあそこが年金機構の宿舎ってことを知らなかったんだから」
「まあ、流されながらもヒーローになっていくってこともあるんですよ」
通行を規制されているので、車はノロノロとしか進まない。
「これは時間がかかりそうだな」
榊原はため息をついた。
「南は、千葉に向かってるんです」
「千葉……」
順二は肩を落とした。
「俺、これからどうすればいいんだろう」
つぶやくと、
「まあ、どこか遠くに逃げるしかないでしょうね。名前を変えて、別人となって暮らすしかない。大丈夫です、その辺は南が慣れてますから。案外、何とかなるもんですよ。顔も変えればいいし」
と、榊原は言った。
「えっ、じゃあ」
順二は榊原の顔を見た。
「俺、これで自由ってことですか?」
榊原は唇の端に笑みを浮かべた。
「そういうことになりますね。今まで部下に見張らせていて、窮屈な思いをしたでしょう。でも、私もこれから日本を離れるんです。だから、ここからはお互いに自分の人生を歩んでいくってことにしましょう。今まで迷惑をかけたお詫びに、後ろのバッグに当面の生活費を入れておきました。それで南と一緒にどこかに行ってください」
「ホ・ホントですか?」
順二は疲れがいっぺんに吹き飛んだ。
「ありがとうございますっ」
順二は勢いでお礼を言ってしまった。
「その代わり、私のことは誰にも何も言わないでくださいね。まあ、もっとも、あなたもこれで完全に追われる立場になりますから、今後、事件のことは一切封印するしかないでしょうけど」
榊原は微笑んだ。人工的な顔に浮かぶ微笑みは、どこか気味が悪かった。