2月 燠(おき)④
古川源一郎は、その日もいつものように卵を軽トラックに積み、近所に配達して回っていた。
源一郎は養鶏場を営んでいた。
源一郎の売る卵は近所では「源さんの卵」と呼ばれ、ほかの卵にはないコクがあると、評判だった。赤い殻の卵は割ると黄身がこんもりと盛り上がり、新鮮さを物語っている。
なじみのケーキ屋は、「うちのケーキは、源さんの卵がないと作れないよ」といつも感謝の言葉をかけてくれる。
そして、ロールケーキやスポンジケーキの切れ端を、「こんなもんで悪いけど、お孫さんのおやつにでも」と包んでくれるのだった。
「鶏も人間と同じで、安全なもんを食わせんといけん。工場で大量生産されるようなエサを食っとったら、不自然に太るだけじゃ。うちゃー昔からトウモロコシとか海草とか、自然なものしか食わせとらん。じゃけぇ、その鶏が産む卵も安全っちゅうわけじゃ」
源一郎は、自分がいかに手をかけて鶏を育てているのかを話すのが好きだ。鶏の話をしだすと、30分は止まらなかった。
その日も、いつも通り一軒の農家に卵を配達した。
「老人ホームの事件、まだ犯人は見つからんのじゃろ」
農家の主人が卵を受け取りながら言った。
「そうらしいのう。人間の仕業じゃあないで、ありゃあ。玄関に火ぃつけて、非常階段のとこにも火ぃつけて、どっからも逃げられないようにするんじゃけぇ、生きたまま焼かれていくなんて、むごいのう」
源一郎も応じる。
農家の主人がタバコを源一郎に勧める。源一郎は軽く右手を挙げて受け取り、ライターで火をつけた。
「むごいのう、誰が何の目的でそんなことしたんじゃろか」
農家の主人もタバコに火をつけ、煙を吐きながらつぶやいた。
「都会にゃあ、おかしなやつが多いでなあ」
「わしらぁ、まだ幸せじゃが。元気に働いてるし、家に住んでるし」
「まあなあ。うちの康太も、じっちゃんの卵以外は食べられんっていうんじゃ。康太んために死ぬるまで卵を作らんと」
しばらく立ち話をした後農家を出ると、源一郎は次の配達場所に向かって軽トラックを走らせた。
車2台がやっとすれちがえるような細い道路の脇には、田んぼが広がる。今は枯れた切り株に覆われ、荒涼とした風景になっているが、春になれば苗が植えられ、それが育ちだすと辺り一面緑に包まれる。
――こげなのどかな町はぁ、恐ろしいニュースも無縁じゃ。
源一郎がゆったりとトラックを走らせていると、ふと道端に銀色の車が止まっているのが見えた。運転手らしき男が、こちらに向かって手を振っている。
――パンクじゃろか。
源一郎は近くまで来ると、トラックを端に寄せて止め、車から降りた。
黒いニットの帽子を深くかぶった若い男が、口の端に笑みを浮かべて、ペコリと頭を下げた。
――こげな田舎に若者が来よるなんて、珍しいのう。ドライブじゃろか。
「タイヤがパンクしたんかいの」
源一郎は声をかけながらタイヤを覗きこんだ。
「ええ、先ほど、パーンという音がして。僕、一人でタイヤを交換したことないんで」
「スペアのタイヤはあるんかいの」
源一郎は車の後ろに回り、しゃがみこんだ。
「どのタイヤぁ、パンクしとるのは」
「あっち側のタイヤです」
源一郎は立ち上がり、前に移動しようとした。
そのとき、背中に鈍い衝撃を受けた。
振り向いて背中をみると、何かが刺さっている……それが包丁だと気づくまで、数秒かかった。
「なんじゃあ、こりゃあ」
甲高い声をあげて男を見ると、男は無表情のまますばやく車に乗り込んだ。
「オイ、あんたぁ、なにしょーるん」
車の窓に手をついて呼びかけても、男はこちらを見ようともしない。
エンジンをかけると、源一郎をふりきるように車を急発進させた。源一郎はその勢いで道端に倒れ、猛スピードで走り去っていく車のエンジン音を聞いた。
「誰かぁ」
助けを呼ぼうにも、かすれた声しか出ない。
――松本さんに卵ぉ、届けんと。康太もケーキ楽しみにしちょるし。
源一郎はトラックまで這って行こうとしたが、途中で力尽きた。
源一郎が吐くかすかな息は、冷たい空気に触れると白く煙る。やがて、かすかな呼吸の音も途絶え、冬の小道に静寂が訪れた。
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「こちら、広島県の山間にある大里村です。大里村には450人の住人がいて、平均年齢は72歳という、まさに高齢化が進んでいる村です。そんな村に異変が起こりました。一週間前、80歳の古川源一郎さんが何者かによって殺害されるという痛ましい事件が起きたんです。古川さんは養鶏場を営んでいて、卵の配達に行く途中に襲われました。その2日後には73歳の柳沼スミさんが買い物に出かけたときに、やはり何者かに襲われて死亡。そして昨日、3人目の犠牲者が出ました。襲われたのは堀場照子さん78歳。白昼堂々、農作業に出かけたところを犯人は襲ったと見られています」
女性レポーターが農道をゆっくりと歩きながら解説している。
次に、映像は村長のインタビューに切り替わった。
「恐ろしいですよ、本当に。こんなのどかな村で、一週間で3人も殺されるなんて。何が起きているのか、さっぱり分かりません。みんな恐ろしがって、外に出られないって言ってます。これからみんなで対策を話し合うところなんです」
「おっそろしい世の中だなあ、本当に」
テレビを見ながら、村野勇蔵は呟いた。
「うちは代々赤羽で暮らしていて、親父もお袋も一緒に住んでいるからいいけど。もし田舎に両親がいたら、気が気じゃないよなあ。小峰君のところは、どうなの」
急に話をふられて、雄太はパソコンに向けていた顔をゆっくりと勇蔵のほうに向けた。
「はあ」
「小峰君は、両親はどこにいるの? 東京?」
「いえ、群馬です」
「それならまだ近いからいいよな。帰ろうと思えば、いつでも帰れるし。そんなに田舎に住んでるわけじゃないんでしょ?」
「実家は宇都宮なんで、それほど田舎ってわけじゃないですね」
「それなら安心だ」
そのとき、入り口のガラス戸が開いた。
「おっと、お客さんだ」
勇蔵は禿げかけている頭をなでると、突き出たお腹をゆらしながら、客を出迎えた。
赤羽駅から歩いて5分ほどのところにある、昔からあるような、街の小さな不動産屋。雄太は一週間前からそこに勤めていた。
雄太はアパートを探していた時、たまたまこの不動産屋を見つけた。ショーウィンドウに物件の見取り図が数枚貼ってあるのを見つけなければ、気付かずに通り過ぎてしまいそうだった。
ガラス戸を開けると、片隅に古びたソファセットが置いてあり、事務用の机が4つ置いてあるだけの狭い事務所だった。雄太は安いアパートを探していたので、「こういうところのほうがありそうだな」と迷わず中に入り、部屋を借りることにした。
5年前に父親から会社を任されたという勇蔵は、「もう少し会社を大きくしたい」と考えているようだった。
勇蔵と話をしているうちに、「パソコンが得意なら、うちのホームページをつくってくれないか。顧客の管理も、本当はパソコンでしたいんだけど、俺にはわかんなくて」と勧誘されたのである。
時給は安いが、次の仕事が見つかるまで引き受けることにしたのだ。