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年明け

 年は明けて立成19年。


「ええい、先頭集団はいい。関東学生連合を映せ」


 美香の父親がテレビに向かって愚痴る。映っているのは正月の名物、箱根駅伝の中継である。現在花の二区を走っていて、強豪校が団子状態で先頭集団を形成しており、テレビカメラはもっぱらそこだけを映している。


 だが美香の父親の興味は後方にいる関東学生連合チームにあった。二区担当は東京大学のランナーだが、このランナーが御神本学園の出身なのである。そういう理由があって熱を入れて応援しようとしているのだが、先頭争いが白熱しているためか撮影クルーは後方集団にまで気が回らないようだ。


「今年のみかんは絶品ですわねー」


 一方の美香は駅伝にさほど興味を示さず、県の名産品の一つである温州みかんを味わっている。こたつに入って頂くみかんの味はまた格別である。


「お姉さま、あまり食べすぎると太りますよ」

「おだまり。えいっ」

「いたっ!」


 美香はみかんの皮をつまみ、沙羅の目に向むて汁を飛ばした。


「もうっ、子どもみたいないたずらはやめてくださいよ」

「おほほほ」


 美香の甲高い笑い声が居間に響く。新年を迎えて、例年よりも清々しい気分になっているが、それは大きな懸案事項が消えたおかげでもある。


 玲奈のアドバイスを受けてはとこの勇吾と形だけ婚約する意思を示したところ、父親は大いに喜んだ。勇吾はまだこのことを知らされていないが、もう少し成長したら話をするという。例えそのときに勇吾が結婚する、と言い出してもまだまだ未来のこと。さらに成長して思春期を迎えた折には心境の変化が現れて、他に好きな人ができるかもしれない。そして向こうから自分のことをフッてきて、「残念だけど仕方ない。あなたの恋を応援するわ」とニッコリ笑って手を握ってやるのが、こちら側から親戚に角を立てることがなく別れられる一番理想的な展開である。


 仮にずっと美香一途だったとしても結婚だけはしてあげて、仮面夫婦になれば良い。男は苦手でも、親戚の勇吾ならまだ耐えられるかもしれない。もっとも、何かしら御神本家に入るのにふさわしくない振る舞いをすればその時点で婚約解消を言い渡す。これが次善策である。


 要は一時的であれ親を安心させておき、どこの馬の骨ともわからない男をしつこく紹介されるのをひとまず止めておくのが狙いであった。


 父親はずっと上機嫌で、それはお年玉の金額にも現れていた。なんと去年の倍以上の額が袋に入っていたのだ。当然、妹の沙羅もその恩恵を受けた。その沙羅だが、玲奈のアドバイスに関して「普通なら恋人を引き止めるんじゃないですか」と疑念を抱いたのは性格上当然のことであった。美香が「玲奈の作戦だから」と説明すると一応は納得してくれて、二人の仲を疑うところまでは行かなかった。


 ともあれ、一段落つけることができた。美香はひとまず、新年を楽しむことにした。


 二区のゴールである戸塚中継所。先頭集団がたすきを繋いでから大幅に遅れて、東京大学のランナーがようやくテレビに映った。無事次走者にたすきを繋ぐと、仲間の部員に抱えられるようにしてタオルをかけられた。


「よーし、よくやったぞ」


 父親は手を叩いて画面向こうの教え子を労うと、それで満足したのか「庭をいじってくる」と、こたつから抜け出た。


「さて、わたくしもちょっとお散歩しようかしら。いい天気だから中にいるのはもったいないわ」

「お供します」


 美香は両親に昼ご飯までには帰ってくる旨を告げて、家を出た。


 *


 街中はさほど人が多いわけではないが、雰囲気はどこか浮ついていてやはり新年という感じが漂っている。寒さもそれ程厳しくなく、風も吹いていない。むしろ先月の方が寒いぐらいであった。


「沙羅はお年玉を何に使うのかしら?」

「里美と一緒に美味しいものを食べに行くぐらいしか決めてないです」

「わたくしも玲奈にごちそうするわ。旅行でお世話になったのだし、それなりに格式の高いお店でね」

「『ソレイユ』ですか?」


 沙羅は空の宮市中心部にある高級フレンチの店の名前を出したが、美香は首を横に振った。


「御神本家よりお金持ちのご令嬢に地方都市の店を紹介するのは失礼よ。覚えてるかしら? 星花女子学園への入学祝いにお父さまに連れて行ってもらった『新九郎』を」

「ああ、あの東京銀座にある高級寿司店ですか」


 新九郎は、アメリカの大統領が来日した際に接待に使われた程の老舗高級寿司店である。美香も名家の娘故に、いわゆる回らない寿司屋でしか寿司を食べたことがない。だが新九郎の寿司は「一度食べたら他の寿司が食べられなくなる」と言われる程のレベルを誇っており、日本で一、二を争う寿司店と言っても言い過ぎではない。


 玲奈とは偽装交際をしているとはいえ、ごちそうは本当にするつもりでいた。お金を出してもらった分のお返しはきちんとしなければならないと考えていたからである。値は張るが、一般庶民の女子高生が貰う金額よりも遥かに多いお年玉でじゅうぶんに賄うことができる。


「沙羅も里美さんを連れて行くなら、それなりの店にしておくのよ」

「はい、心得ています」


 などと会話をしているうちに、向かい側の歩道に女性の集団を見かけた。全員、サングラスとマスクを着用している。それを見た沙羅が、


「後ろにいるの、西先輩じゃないですか?」

「ええ?」


 美香たちの三学年上の先輩にあたり、今は星花女子大学に通う西恵玲奈(にしえれな)。学園在籍時には新聞部と放送部を兼任しており、美香や沙羅も部活の絡みで取材を受けたことが何度かあった。だが素顔が隠れているために、美香の知っている視覚的情報が西恵玲奈とどうも一致しない。


「別人ではなくて?」

「いえ、髪型や背丈が似てますし」


 しかしそれだけでは何とも言えない。集団はこちら側を一瞥もせず、まっすぐ歩いていたが、やがて曲がり角を左折してすぐそこにある小さな建物に入っていった。


「ほあっ!? こっ、ここは……」


 美香は目玉が飛び出そうになった。その建物は「桃源郷書店」という、一見して本屋のように見えるがその実態はアダルトショップである。掲げられている幟はアダルトビデオメーカーの名前だらけで、窓には「新春セール実施中!」「女性大歓迎!」という文字がポップな書体で書かれている。その横にはAV女優のポスターが堂々と貼られている。正視に耐えなくなった美香は顔をそむけて、沙羅の手を引いてそそくさとその場を離れた。


「いっ、いつの間にあんな破廉恥な店ができたの……!」

「でも、女性大歓迎らしいですよ」


 沙羅は桃源郷書店をじっと見つめている。


「まさか沙羅、入るつもりじゃ……」


 沙羅はにこやかに言った。


「お姉さまも社会勉強のために覗いてみませんか?」

「なっ、何を言い出すのよお前は!!」


 硬派な妹らしからぬ発言に、美香はつい泣きそうな顔になった。


「お姉さまは興味ないのですか?」

「ありません!!」

「玲奈とはそういうこともしていない?」


 帰省前夜のことが急に思い出されたが、頭の中の映像をかき消そうとするかのように首を激しく横に振った。


「わたくし達はお上品でプラトニックな恋愛をしているの!」

「じゃあ、交際宣言で私に見せつけた熱烈なキスは何だったのですか」

「おっ、おだまり!」


 みかんの皮が手元にあったら、汁をかけてやりたいところである。美香は大きく咳払いをした。


「それはそうと、やはりあの人は西先輩ではないと思うわ……あんな怪しい格好で破廉恥な店に入るなんて」

「だから、それを確かめるためにも中に入りましょうよ」

「……何でそこまで入りたがるのよ」


 沙羅は答える。


「私も最初は性的なことを考えるのは良くない、と考えていました。だけど里美と心と体を通わせてから、食わず嫌いは良くないなと思い知らされたんです。それからはお互いにもっと気持ちよくなれるにはどうしたらいいかとか考え出して、周りの経験者から聞いたりもしましたよ。そうしているうちにソッチの知識欲がどんどん溢れてきてですね」

「……」


 少し前の沙羅とは大違いである。ひとたび恋人と体を重ねるだけでここまで人は変わってしまえるものなのか。


 美香にも正直、その類の欲求が無いわけではない。ただ、心を通わせていない偽装の恋人相手と行うのは彼女の倫理に背くことになる。一方で、自分より先に進んでしまった沙羅に対して羨む気持ちも持っていた。劣等感と言い換えることもできよう。


 美香は悩んだ末に、沙羅の気持ちを一緒に体験する方を選んだ。これは玲奈との偽装交際を疑われないようにするため、と言い聞かせて。


「す、少しだけよ……」

「では、参りましょう」


 二人は一緒に店内に入った。

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