演じるのよ
安心しきっていたところに不意打ちを食らわされたものだから、美香の頭の中に混乱の渦が巻きはじめる。
「ごっ、御冗談でしょう?」
「いや、本気だ」
美香の父親はきっぱりと言い切った。
「実は、前から国分さんに相談していたんだ。美香はどうも好き嫌いが激しくいくら良い男を紹介しても見向きもせんからどうしたら良いかとな。そしたら気心の知れているうちの子をどうですか、と言ってくださったんだ」
「お、おほほほほほ」
美香はつい笑ってしまった。こんな状況でも手の甲を当ててのお上品な笑い方をするのは良家の令嬢の本能である。
「勇吾ちゃんはまだ8歳、わたくしの半分の年でしてよ。その子をわたくしの夫にする、と?」
「もちろん今ではない。10年経てば勇吾くんは結婚できる年齢になるし、その頃はお前も充実している時期だ。タイミングとしては一番良かろう」
「勇吾ちゃんは一人っ子でしょう。御神本の家に入れてしまったら国分家はどうなるのです……?」
「僕の家は所詮分家の分家だから、どうってことはないよ」
つまり自分の息子をより格の高い家に婿入りさせようという意図があるのではないか、と美香は邪推した。
「勇吾ちゃんはこのことを知っているのですか?」
「いや。まだ結婚の話をしてもわからないだろうからね」
「本人の知らないところで物事を決めてしまうなんて、横暴にも程がありますわ。この話は聞かなかったことにいたします」
美香は席を立とうとしたが、父親がなだめた。
「まあまあ、何も今すぐこの場で決めろとは言っておらん。だが勇吾くんは賢くて素直で良い子で、将来性はじゅうぶんだ。そのことはお前もよくわかっているだろう」
確かにまだ幼いが、人となりは父親の言う通りである。それでも今の所は子どもだから普通に接していけるのであって、成長して一人の男となったときに同じように接することができる保証などどこにもないのだ。
「少し頭を冷やしてきますわ……」
美香は改めて、居間を出ていった。
姉妹の自室である和室に入ると、沙羅と勇吾は一緒にブロック玩具で遊んでいた。ブロックを組み合わせることでいろんなものを作れる、世界中で人気の玩具である。
「お姉さま、どうされましたか? ものすごい声がしていましたが」
「実はね……」
沙羅をいったん外に出して、さらに勇吾に聞こえないよう沙羅に耳打ちすると、やはり「ええっ」と驚かれた。
「それで、どう断るおつもりですか? 今までと同じく粗探しをして難癖つけるのですか?」
「勇吾ちゃん相手だと気が引けてできないわよ。下手な断り方をすると国分家と仲が悪化するのは目に見えてるし、他の親戚にまで波及しかねないもの……」
仮に父親がそのことを見越して紹介したのだとしたら、悪辣にも程がある。
「はあ、お兄さまがいればこんなことにならなかったかもしれないのに……」
御神本家には本来、跡継ぎとなるはずであった長兄がいる。しかし家を継ぐよりも動物学の研究を選んで出ていってしまった兄は、祖父の法要には弔電をよこしたが顔は見せなかった。家に戻ってくるのは絶望的であろう。
ため息を漏らした途端、自室の中からブブブッ、ブブブッというスマートフォン独特の振動音が聞こえてきた。
「おねーちゃんたち、電話だよ」
中に戻ると、勇吾が指を差して教えてくれた。鳴っていたのは美香の机の上にあるスマートフォンであった。
発信元は玲奈である。すぐさま通話ボタンを押した。
「もしもし、玲奈?」
近くに沙羅がいるので、呼び捨てにする。
『うふふ、お元気してるかしら?』
「ええ。元気してるわ。どうしたの?」
『ちょっと声が聞きたかったの』
帰省前夜におかしなことがあったから、直接会話をしてお互いの不安を払拭しようとしているのかもしれない。そう考えた美香は先程受けたストレスを発散させる狙いも兼ねて、話をすることにした。
「沙羅は勇吾ちゃんと遊んでおあげ」
美香は小声でそう告げて、庭の方に出て会話を再開した。庭は父の手入れが隅々まで行き届いていた。
「ちょっと聞いてくださる? お父さまったらやっぱり結婚の話を持ち出してきましたの。相手は誰だと思う?」
『本当にアラブの石油王だったの?』
「違うわ。わたくしのはとこよ。まだ8歳の」
『まあ!』
玲奈も予想外だったようだ。
『年端もゆかぬ子どもを自分好みに育て上げさせようという意図かしらね。光源氏みたいに。これは危ない、危ないわ。うふふふ』
「そう言う割には何だか楽しそうね」
『いいえ、気のせいよ。んっ、んんっ』
「どうしたの?」
『ちょっと風邪をひいちゃったみたいなの』
「まあ、お大事になさって。健康な体で新年を迎えましょう」
『そうね』
よく耳を済ませると、ふーふーというしんどそうな息遣いが聞こえてくる。当然、思った程症状は軽くないのではないかと疑った。
「玲奈さん、無理してない?」
『大丈夫よ。それよりもお返事はどうするの?』
「断りたいけど、相手が親戚だけに角が立ったら厄介ですわ。どうしたものかしらね……」
『逆に考えてみては? 敢えて、話を受けておくの』
「えっ、どういうこと?」
所詮は他人事だと思って適当にモノを言っているのではないか。美香は顔をしかめた。
『お相手はまだ8歳なのでしょう? 法律で結婚が認められるのは18歳から、それまで10年も歳月があるのよ。お相手は美香さんのことをどう思っているのか知らないけれど、成長したら心変わりする可能性は十分あるわ。私の弟だって小さい頃は「おねえちゃんと結婚する」なんて言っていたけれど、今は全くそんなこと言わないもの』
「時間が解決してくれる、と?」
『それでも万が一結婚すると言い出しても、別に受けたらいいじゃない。そして今の私たちのように演じるのよ。仲睦まじい夫婦を……んんっ』
「玲奈さん? もしもし? 玲奈さん?」
呼びかけに応答しない。まさか倒れでもしたのだろうか。より一層大きな声で名前を呼んだら、『ちゃんと聞こえてるわよ』と返ってきた。だが息遣いが先程よりも荒くなっている。
「あなた、本当は相当体調が悪いんじゃなくて?」
『そうかもしれないわね……もっと美香さんの声を聞きたかったのだけれどこの辺で切り上げるわ。ごめんなさいね、こっちから電話をかけておいて』
「いいえ、とんでもないわ。お電話ありがとう。お大事に」
『美香さんも体調には気をつけてね』
玲奈の方から電話を切った。彼女の体調が心配だが、それでも暗くて見通しがきかない道に街灯が灯されたかのように、気持ちがすっと軽くなった。
「演じる……そういう手もあるのね」
それならば聞き分けの良い娘を演じてみせよう、と決意した。無碍に断ったところでまたあれやこれやとうるさく言われ、また次のどこの馬の骨ともわからぬ男を紹介され嫌な思いをし続けるだけだ。だから一旦勇吾を選んで、それから改めて結婚回避の策を練る時間を作れば良い、と美香は考えた。
自室に戻ると、勇吾はまだ沙羅とともに一所懸命にブロックを組み立てているところであった。
「あら、何を作っているのかしら」
「僕の小学校!」
「小学校?」
言われてみると、大きい二つのブロック塊を細いブロックで連結させているものは渡り廊下と校舎に見える。その近くには小さなブロック塊が二つ置かれていて、そのうち一つは平べったい長方形だがもう一つはかまぼこのような形に組み立てられていた。
「こっちが僕が勉強してるとこ。こっちは四年生から六年生が勉強してるとこ。この青いのはプールでー、これが体育館!」
「勇吾ちゃんったらお上手ねえ」
この感想はお世辞ではなかった。
「沙羅が作っているのはもしかして星花女子?」
「ええ。どうです? ちゃんと四つの寮と離れ、弓道場にアーチェリー場、旧校舎も再現してますよ」
沙羅も子どものように目を輝かせている。美香も小さい頃はこのブロック玩具で遊んでいたものだが、久しぶりに遊んでみようという気持ちになった。だがその前に、話をつけておかねばならない。
「ちょっと勇吾ちゃんのパパとママとお話があるから、後でわたくしも混ぜてね」
「うん!」
美香は腹をくくり、居間に向かった。沙羅に無言で「大丈夫」と目配せして。




