帰省前夜
美香はため息をつきながら荷造りをしていたが、先日の城崎旅行のときと打って変わって陰鬱な気持ちに陥っていた。翌日に実家に帰るためである。
父親は実家に帰るたびにお見合いの話を持ってきてくる。何度も何度も、それこそ難癖レベルの理由をつけては断るのだが、今回は誰を紹介してくるのか、それにどう対抗しようかと頭を悩ませていた。
他にも少々気になる点があった。今までは帰省前にどこそこのご子息がお前に興味を持っているぞ、といった類の手紙を父親がよこしてくるのに、今回は手紙が届けられていないのである。だがあの父親のことなので簡単に諦めるはずがない。
「はあ……」
「お姉さま、ため息をついたら幸せが逃げますよ」
「もう幸せじゃなくてよ」
「そんな顔をしないでください。私だって本当は帰りたくないんですから」
「そうよね」
沙羅には里美という特別な人ができた。結ばれて間もないのに帰省で離れ離れになってしまうのは何ともタイミングがよろしくないが、今年は亡き祖父の七回忌があるので帰りませんと言うわけにはいかない。祖父は奇しくも沙羅の誕生日である12月28日に亡くなっている。
コンコン、とドアがノックされる音がした。
「ミカミカ、入っていいかしら?」
玲奈の声である。
「どうぞ」
ドアが開けられると、そこには里美も一緒にいた。二人ともすでにパジャマに着替えていた。
「あら、もう帰る準備万端じゃない」
「朝ご飯を食べたらすぐに出るわ」
「そう。ほんの少しの間だけど、寂しくなるわね」
そう言う割にはあまり寂しそうに見えない。
「ところで、何の御用?」
「お別れする前にミカミカとあつーい一夜を過ごしたいと思って」
「な、何を言っているのかしら」
「今夜だけ沙羅さんと入れ替わりたいの。沙羅さんも里美さんと一緒に過ごしたいでしょ?」
その言葉を聞いた沙羅の顔は急に赤くなり、里美も顔を真っ赤にしていた。しばらく恋人と会えない妹を思うと、イヤとは言えない。
「わたくしは構わないけど、沙羅は?」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
予想通りの答えが返ってきた。そういうわけで沙羅が里美の部屋に行き、玲奈が美香の部屋に入ることになった。
「うふふふ、あの二人、ちゃんと朝起きられるかしら。恋人どうし、密室、二人きり。何も起きないはずがなく。なんてね」
「玲奈さん、あなた何を考えていらっしゃるの……」
自分の妹を妄想のダシにされるのは不愉快だが、旅先で実際にそういう現場を目の当たりにしてしまった以上、そういう流れにはなるだろうなと考えてしまう自分自身にも少し嫌気が差した。
実際、寮ではクリスマス前後ともなるとあちこちの部屋で愛を深め合う光景が繰り広げられる。恋人がルームメイトの場合はもちろん、ルームメイトが先に帰省したのを良いことに恋人を連れ込んで泊めるとか、中には二人とも帰省して空き室になった部屋を自宅通学生のカップルに貸し出して、ラブホテル代わりに使わせるケースもあるという。
美香は自分のベッドの上に座っていたが、玲奈は沙羅のベッドの下で体育座りをしている。彼女に対する遠慮からだろうか。
「浮かない顔をしているわね。妹さんと離れ離れになるのは辛い?」
「隣の部屋に移っただけで離れ離れだなんて大げさですわ」
「物理的にはね。心理的にはどうかしら? 沙羅さんは里美さんと一緒に今夜、また一歩大人の階段を登っていくわけだけど、あなたはまだでしょ」
言葉は直接的な表現ではないとはいえ、その意味は前後の文脈からわかる。沙羅は顔を熱くした。
「と、当然ですわ! 本物の恋人とつきあったこともないのに……」
「恋愛らしい恋愛をしなくてもしてる子なんて結構いるわよ」
「そう言う玲奈さんこそ、経験はおありなのかしらね?」
「ないわよ」
玲奈はそう言いつつ立ち上がり、美香のベッドに移ってきて隣に座った。
「だから、ここでお互い初めてを経験するのはどうかしら?」
「…………なっ、なななななななななななななななな!?」
美香の顔面はゆでダコのごとく紅潮した。
「何をおっしゃいますの!? 冗談にしても気軽に美味しいスイーツでも食べに行かない? みたいな軽い感覚で言うことではありませんわ!」
「私は本気よ、と言ったらどうする?」
「ひぃん!?」
玲の腕奈が絡みついてきた。二人以外誰もいない状況、演技をする必要がない場面にも関わらず、頬を擦り寄せてくる。彼女からは愛用のミントシャンプーの香りが漂っていた。
「私たちの偽装交際はあの二人が恋人どうしになってそれで終わりじゃないのよ。これからも卒業するまで、いいえ、もしかしたら卒業した後もずっと続くかもしれない。だからより本物の恋人どうしに見せかけるために、ね」
「おやめなさいよ。そんな屁理屈で簡単に体を捧げるものではありませんわ」
「そう言う割には抵抗する素振りすらしないのね」
玲奈の腕に力がこもるのを、体全体で感じ取った。
「本当は、あなたも望んでいるんじゃないの?」
「……」
唐突に、城崎で見た夢が想起される。夢は記憶の再構築というが、玲奈にファーストキスを奪われたことと、御神本学園生徒会室での忌まわしい記憶がごっちゃになってあんな夢を見たのかもしれない。だが果たしてそれだけが原因だろうか。
ある意味、怖い夢ではあった。玲奈に押し倒されても抵抗せず自然と受け入れていく自分がいたから。そして今この場においても、玲奈に迫られて拒まない自分がいる。
葛藤が容赦なく体を締め付けてくる。もしこのまま流されてしまったら、それは元婚約者と同じところまで墜ちることを意味するのではないか。それなのに心で思っていることと実際の行動が一致していない。
やがて隣の部屋から物音が聞こえてきた。桜花寮の壁は防音に優れておらず、隣室の物音がよく聞こえてしまう。旅館の共同トイレで聞いたものと同じ声に、ベッドが軋むが重なる。公共の場所と違って周りにはその道に理解がある子たちばかりとはいえ、声の大きさには遠慮がなかった。例え隣に義姉、友人がいようと。愉悦の色に満ちた声を。沙羅が。里美が。
「ねえ」
玲奈がさらに体を寄せてきて、吐息混じりにささやいた。
「沙羅さんにこれ以上置いていかれてたくないでしょ? 私だって里美さんに置いていかれるのはイヤなのよ」
「置いていかれる……」
沙羅と里美の睦み合う様子を見て感じた一抹の寂しさの正体が、今ようやくわかった気がした。沙羅に特別な人が見つかったことは嬉しかったが、自分より先に特別な人に心も身も捧げたことに対して、羨む気持ちがあったのかもしれない。
しかし今まさに、沙羅に追いつける状況にある。糸がプツンと切れてしまえば沙羅たちと同じ世界に行くことができる。だがそれは同時に、玲奈との関係を変化させてしまうことを意味していた。
「さあ、ミカミカ。楽しみましょうよ。何も余計なことを考えずに……」
玲奈がついに、美香のパジャマのボタンに手をかけてきた。
「だめえっ!」
美香はフェンシングのパラードのように、手を払い除けた。その拒絶は反射的なものではなく、理性でどうにかして欲求を抑えつけることでできたものであった。
「ごめんなさい、玲奈さん。やっぱりいけませんわこんなこと……」
玲奈はしばらくきょとんとしていたが、大きくため息をついて立ち上がった。
「いいえ、こちらこそごめんなさい。今の私、どうかしているわ」
沙羅のベッドに潜り込み、掛け布団を頭まで被った。
「さっきのは無かったことにして」
「……とにかく、寝て頭を冷やしましょう」
美香は部屋の電気を消した。暖房は一括管理で20℃設定になっているが、二つのベッドの間にはごく冷たい隙間風が吹いているような気がした。そこに隣室からの嬌声が加わったものだから、美香の部屋の空気は劣悪なものとなってしまった。
*
「それじゃ、気をつけてね」
「三学期にまた会いましょう」
里美と玲奈に見送られて、美香たちは寮を後にしていった。だが心地よい別れとはいかなかった。沙羅と里美は起床直後に寮長に呼び出され昨夜の声がうるさかったと苦情が来たと叱責され、美香と玲奈も剣呑なやりとりがあったせいで溝ができていた。いつもの仲良しグループの雰囲気と違って重苦しく、朝の食堂では普段どおり一緒のテーブルについたものの、周りから「何だかお通夜みたい」と言われる始末であった。
美香と沙羅がようやく会話らしい会話を交わせたのは電車の中である。
「お姉さま、昨日は本当に申し訳ありませんでした。つい……」
「謝らなくて結構よ」
申し訳ないと思うなら最初からやらないで欲しい。そう言いたかったがきっとみじめな気持ちになるだけなので、言わないでおいた。
しかしストイックな沙羅が乱れる様は全く想像がつかない。それ程までに良いものなのだろうか、心と身を捧げるというのは。
もしもあのとき、玲奈の誘いに乗っていれば……。
「いいえっ、やっぱりダメ! ダメですわ!」
「ああっ、申し訳ありませんお姉さま、申し訳ありません……」
うっかり漏らした言葉を誤解されてしまったのに気づいた美香は、
「今度からは気をつけてちょうだい」
と、どうにかごまかしたのであった。