城崎にて その6 結縁
トイレについてきて欲しい、という申し出を受けて、美香はつい笑いがこみ上げてきた。
「なあんだ、あなたも心霊番組が怖かったのねえ。一人ですぐそこにあるおトイレに行けなくなってしまうぐらいに」
「違うわ。階段横のトイレの方よ」
トイレは部屋に備え付けてあるが、実は各階ごとに共同のトイレもある。部屋に通された折、階段を上がったところでちらっと見たが、良い表現をするならば「歴史を感じさせる」ものであった。部屋のトイレの方がはるかに綺麗なのでわざわざ利用する宿泊客は少ないと考えられる。同部屋の人間が使用していない限りは。
「沙羅か里美さんが中に入っているの? 出てくるまで我慢できないの?」
「我慢できていないのはむしろ二人ともなのだけれど」
「?」
また変なことを言っているなと思いつつふと振り返ると、もう片隣の布団で寝ていた沙羅と、その隣の布団で寝ていた里美の姿がない。二つの布団は見事にセミの抜け殻となっていた。
美香は飛び起きて部屋のトイレに向かったが、二人とも中にいなかった。
「どこに行ったのかしら……?」
「だから、階段横のトイレよ」
「え?」
玲奈は美香の手を取った。とにかくついてこい、ということに他ならなかった。
共同トイレに掲げられた「便所」の表示に使われている書体は今どき使用されていないような古いものであり、この旅館の歴史の一端が垣間見える。トイレのドアの小窓は真っ黒に染まっている。つまり、中は照明がつけられていないことを意味していた。
「静かにね」
玲奈はそーっとドアを開けた。人感センサーはついていないらしく照明はつかない。廊下の常夜灯のほのかな明かりを受けて入り口が少しだけ見えたが、そこにはスノコが敷かれていて、スリッパが二組、たしかにあった。
「よーく聞いてみて」
玲奈は耳を手に当てた。美香は呼吸するのも気を使うほどに音を立てないようにして、耳に意識を集中させた。すると、
「……っ……あ……」
すすり泣くような声がする。美香は少しトイレ側に身を乗り出した。
「うあっ、んっ……」
沙羅の声だ。泣いているのかと思ったがどうも違う。それどころかこの類の声は聞いたことがあった。そう、かつて御神本学園生徒会室で聞いたあの声。
「ま、まままっ、まさかっ……」
「静かに」
玲奈に口を手で塞がれ、耳元でささやかれた。
「そのまさかよ」
さらに追い打ちをかけるように、里美の声がする。
「沙羅ぁ、私の想い、受け取ってよ……」
「んぐぐっ!?」
美香の驚きの声は口の中で留められた。もはやトイレで何が起こっているのかは明白だ。
先ほど見たばかりの淫らな夢の光景がにわかに甦ってきた。
「里美、私もずっと好きだった……」
長年一緒に連れ添ってきたが、甘ったるい声を出すところなんか聞いたことがない。質実剛健、恋道より武道を選んできた義妹が。優しいが厳しいところもある沙羅が。
二人の荒い息遣いと喘ぎ声がハーモニーを奏でだした。
「おめでとう。美香さん。ついにやったわね」
旅の本当の目的は達成された。しかし仲の進み具合の早さは予想外にも程があり、喜ばしいことではあるはずなのに頭の中はすっかり混乱してしまっていた。
「も、もう部屋に戻りますわ……」
「そうね。出歯亀したなんてバレたら大ごとですもの」
二人は忍び足で部屋に戻った。美香は布団にくるまって目を閉じたが、流石に寝入りが良い彼女でも交感神経の昂りを抑えることができなかった。やがて物音がして沙羅と里美が戻ってきたが、二人は布団に入ろうとせず、広縁の窓辺にお互いが寄り添うようにしてたたずんだ。その様子を美香は薄目を開けて見ていた。
沙羅が里美の髪を優しく撫でながら何か囁いている。恋人を見つけてくれたのは嬉しい。それと同時に、どこか遠いところに行ってしまったような一抹の寂しさを覚えた美香であった。
*
「あらあらみなさん、寝不足のようね」
「まあちょっと、ね」
沙羅は手で口を見せないようあくびをしているが、里美は露骨に大口を開けてあくびをした。
「枕が合わなかったのかなあ、ふああ~……」
「里美さん、はしたないですわよ」
「うわ、美香さん。目が真っ赤っ赤になってる」
「本当だ。ウサギみたいになっていますよお姉さま」
あなた達のせいよ、と言えるはずもなく。
玲奈が広縁の方に出て「見て!」と叫んだ。
美香は寝ぼけ眼のままで、窓の外の風景を見やった。そこは地元では滅多に見られない、白銀の世界となっていた。道路は雪で埋まって、建物の屋根にも雪がびっしりと積もっている。昨日の予報通り、寒波の影響で晩から朝にかけてたくさん降ったようだ。空は曇っていてまだちらほらと雪が振り続けていた。
「雪! 雪が積もってるわ!」
美香の眠気が一気に収まっていく。ただちにスマホを持ち出してきて、地元ではまず見られない雪景色をこれでもかと撮影した。美香はメッセージアプリを使って、クラスで仲の良い塩瀬晶に「ごきげんよう」と挨拶を添えて送信したら、何かのキャラクターがムンクの叫びのような格好で『すごーい!』と叫んでいるスタンプがすぐに返ってきた。それから『日色と弥斗にも見せていい?』と。もちろんOKを出した。
雪鑑賞もそこそこに、朝食の時間となった。こちらも部屋食で、白米は兵庫県産のコシヒカリ、主な料理としてカレイの塩焼きとカニ汁が出てきた。当然、日本海で捕れたものだ。食べているうちに一日の活力が湧いてきた。この後はお土産を買って長い時間をかけて帰るだけだが、旅疲れに備えて栄養をしっかりと摂っておく必要があった。
最後にホットコーヒーと果物が出てきたが、手をつける前に沙羅が切り出した。
「あの、お姉さまと玲奈に報告があるのですが」
「何かしら」
もうわかりきっていることだが、二人とも何も知らない風を装う。
「実は、里美とつきあうことになりました」
「ん? んん? 里美さん、本当かしら?」
「うん。沙羅の特別な人になったよ」
「おほぉ~」
いつもよりトーンが小さめの喜びの奇声が出た。
「玲奈、ついに妹に春が来たわよ」
「本当におめでたいわ」
沙羅と里美は照れ笑いを浮かべた。
「ところでいつ、どっちから告白したの? 昨晩までそんな素振りはなかったのに」
玲奈が聞く。トイレでの出来事を知っているだけに、浮かべている笑みは何か意味ありげに見えた。
「二人が寝ているときに里美に起こされて、そこで降りしきる雪を見ながら、里美の方から」
沙羅は広縁を指差した。美香が知っていることはトイレでの情交の後に夜の雪景色を鑑賞したという順番だが、トイレの前にそのような一幕があったのかもしれない。
「あら、一足先に雪を見ていたのね。しかし里美さんったらロマンチックねえ。私なんか部活で離れに向かうついでで告白したのに」
「え、ええ。あのときはいきなりだったからびっくりしたわ」
部活に行く途中で玲奈が偽装交際を申し出たのは事実だ。ウソの中に事実を混ぜるのはウソをつく基本技である。
里美は玲奈をしっかりと見据えた。
「玲奈が旅を企画してくれたおかげで、気持ちを伝えることができた。本当にありがとう」
「私からもありがとう」
沙羅も頭を下げると、玲奈はただ「どういたしまして」とだけ答えて、うふふと笑ったのであった。
朝食が終わると旅館の内湯で朝風呂に浸かって体を温めて、身支度をしてチェックアウトをした。それからお土産のまんじゅうをしこたま買い込んで帰路に着き、高等部桜花寮に戻ってきたときにはすでに夕飯の時間帯に差し掛かっていた。美香たちは急いで、まんじゅうを携えて食堂に向かい寮母に手渡した。
「あら、城崎に行ってたの!? 遠いところまで行ってたのねえ」
「ええ。寮生全員分を買ってきましたから、食堂に来たら一個ずつ配ってくださいまし。あ、もちろん寮母さんたちの分も別にありますわ」
「あら~、ありがとうね~」
およそ二百人の寮生、寮母たち含む寮職員、仲の良い友人や家族の分を買ったので相当な金を使いこんだ。しかしこれも全て玲奈が負担した。全く玲奈さまさまであった。
「ようやく一段落ついたわね」
「疲れた。もう夕食はまんじゅう一個でじゅうぶんよ」
「だーめ。ちゃんと食べないと疲れが取れないわ」
美香と玲奈の偽装カップルがやり取りしている後ろで、沙羅、里美の本物のカップルは手を繋いで歩いている。すれ違った寮生はそれを見るや、みんな足を止めるのであった。




