城崎にて その4 合気道部の二人
沙羅と里美は「まんだら湯」の露天風呂でくつろいでいた。ここの露天風呂は桶風呂になっていて、一人がやっと入れるほどの陶器製の桶が二つ並んでいる。その二つを沙羅と里美が利用していた。
完全に二人きりになった途端、それまで雑談を交わしていたのにぴったりと会話が途切れた。沙羅が里美のことを意識し過ぎているためだが、このとき実は里美の方も沙羅を意識し過ぎていた。そのせいで変に重苦しい空気を作り出してしまっていたのだ。
本当は手を伸ばせばすぐ届く距離にいるにも関わらず、そのことをお互いにわかっていなかった。
里美があー、そのー、と歯切れ悪く間投詞をつぶやいてから、ようやく言葉をひり出した。
「沙羅もさ、将来はミカガクの経営に関わるの?」
「いや、そこまで大それたことは考えてないよ」
沙羅はすぐに答えた。するとそれが呼び水になって、するっと次の言葉が出てきた。
「でも教師になって学校を支えていきたいとは思ってる。体育の教師になりたいんだ」
「体育教師ね。沙羅は運動神経抜群だし似合ってるかも。でもミカガクの生徒って勉強ばっかで運動が得意じゃなさそうなのが一杯いそうだけど、大丈夫かな」
「それは偏見だよ。ミカガクは武道系の部活の強豪なんだ。銃剣道部なんてユニークな部活もあるしね」
「銃剣道……ブスッと刺すアレ?」
里美が小銃を構えて突く格好をすると、軽く湯しぶきが上がる。
「そう。銃剣道部は全国大会で何度も優勝している。と言っても県内で銃剣道部があるのミカガクだけだから即全国大会なんだけどね」
「ふーん、それでも凄いや」
全国大会優勝というタイトルは、合気道部では絶対に手にすることはない。なぜなら合気道には試合が無いからである。演武大会で稽古の成果を見せることはあるが、主な活動は自己の体と心を鍛え上げることだ。
里美は合気道部に移って八ヶ月経つが、四月に比べてたくましくなったな、と沙羅の目には映る。気が弱いのを直したかったと本人は言っているが、根性はあったから厳しくも楽しい稽古を通じて心身ともにみるみる強くなっていった。
そのひたむきさに、沙羅はいつしか惹かれていた。
「沙羅。あんまり長居したら迷惑だし、出よう?」
「そうだな。次行くか」
二人は露天風呂から上がって、更衣室に向かった。タオルで体を拭いていたら、不意に里美が背中に触れてきた。ツーッ、と背骨に沿って上から下へとなぞられて、軽く電流を流されたような感覚にとらわれた。
「くすぐったいよ」
「いつも思うけどさ、沙羅ってきれいな背筋してるよねー。お尻も引き締まって……」
里美の手が急に尻の方まで下がってきたものだから、びっくりして飛び退いた。
「こらっ、ここは桜花寮の風呂じゃないんだぞ」
桜花寮浴場ではスキンシップは日常茶飯事の光景だ。しかし里美とは合気道の稽古以外で体を触れ合ったことがほとんどない。だから里美にいやらしい手つきで触られて、温もった体が余計に熱くなってきたように感じた。
「ごめん」
里美は手を引っ込めたが、顔がより赤くなっているように見えた。
「えーと、次に行くのはこの『御所の湯』だな」
まんだら湯を出て、沙羅は旅館で渡された案内地図を確認すると、里美と並んでゆっくりと歩き出した。夕食までの時間はまだたっぷりとあるから急ぐ必要はない。
古い建物が並ぶ大通りには浴衣姿の観光客が歩いているが、カップルと思われる二人連れも何組かいる。手を繋いで幸せそうに笑っている様子は見ていて微笑ましい。
「あっ!」
里美が前につんのめった。沙羅の体は俊敏に反応して、里美の腕を掴んで地面に倒れるのを防いだ。
「大丈夫?」
「う、うん。ちょっと油断した。下駄ってやっぱ歩きにくいね……」
沙羅は手を離さない。
「手、繋ごうか? こけないように」
「え?」
こういう状況を利用して、我ながら卑怯だなと沙羅は思う。だけどカップルたちを見ているうちに、恋人どうしの気分を味わいたい欲望に駆られてしまい、つい口から衝いて出てしまったのだ。
それでも里美は、提案をすんなり受け入れてくれた。
「いいよ」
里美の差し出した左手を、沙羅は右手でそっと繋いだ。
合気道の技に「小手返し」というものがある。相手の手を掴んで外側にねじって投げるもので基本技のひとつで、沙羅は稽古で里美に何度もこの技をかけ、逆にかけられもしてお互いに鍛えあってきた。だから里美の手の感触は覚えきっているし、里美も沙羅の手の感触は覚えきっているはずである。
しかし、今の里美の手の感触はいつもと違う。柔らかくてなめらかで温かみがあって、心地がよい。沙羅の胸の鼓動が次第に高まっていく。
「ねえ、沙羅」
「うん?」
意識が里美の言葉に向けられた。
「美香さんともこうやって手を繋いだりするの?」
姉妹関係に踏み込んでくる質問。どういう意図なのかわからないが、とりあえずは聞かれたことだけに答えた。
「今はしないけど、昔は二人一緒で歩くときはいつもお姉さまと手を繋いでいたよ」
「そっかー、良いよね。仲良し姉妹って。私一人っ子だからそういうの憧れる」
「私も最初は一人っ子だったよ」
「そうなんだ。姉ができてどうだった?」
「御神本家に入ったのは五歳のときだったし、それより昔のことはもう覚えていないからよくわからない」
「そっかー。結構小さいときがだったんだね」
「うん。でも御神本家の人は血がつながっていない私によくしてくれたよ。特にお姉さまは良く私の面倒を見てくれた。今は私が見てあげることが多いけどね」
「あはは。美香さんってちょっと抜けてるところがあるもんねー。沙羅の方がお姉ちゃんっぽいよ」
「ま、生まれた日付が四日しか違わないからどっちが年上とか年下とか無いんだけど」
美香の誕生日は12月24日で沙羅は28日。たった四日の差だが沙羅は美香を姉として慕っている。だが仮に美香より先に生まれて姉になっていたとしても、やはり慕っていたことであろう。
「でも、そんな美香さんもお相手ができたんだよね」
「うん。喜ばしいことだ」
「じゃあ、次は沙羅の番だね」
里美は、頭一つ分高いところにある沙羅の顔を見つめてきた。ドキン、と心臓が一瞬はねる。
「うん、そうだな。良い人が見つかればいいな」
心中を悟られまいと、ありきたりな返事をした。
沙羅は幼いときから合気道で体を鍛えている。あの橘桜芽相手と互角に渡り合えるぐらいの力量もある。それでも自分から好きな女の子を口説く勇気は持ち合わせていなかった。過去に告白されたことは数あったものの、姉に遠慮して全て断ってきた。
自分に告白してきた子たちは相当な勇気と覚悟を持っていたのだな、と沙羅は悟るとともに、彼女たちの思いを無碍にしてしまったことに今になって申し訳なさを感じた。