第十八話 過去よりも大事なもの
──カミルさんは結局、帰ってはこなかった。
四日目、あらかじめ聞いていた予定の時間を過ぎた辺りから、私の中で、本当に何かあったのではないかという不安と心配が、どんどん強くなっていった。
でも、カミルさんのことだから……きっと、採集に夢中になって、時間を忘れてしまっているのだろう。
そう考えて、弱気になってしまう自分を鼓舞しながら、カミルさんの帰りを待った。
けれど、夜になっても、彼は帰ってこなくて。
さすがにおかしい、と思った私は、沼のようにまとわりつく不安を必死に抑え込みながら、なんとか商業ギルドに行き、冒険者の二人から聞いた話と共に、ヨハンさんに事の次第を伝えた。
ヨハンさんの方にもそういう話は入っていなかったらしく、彼は私の話を聞いた途端、驚きと困惑が入り交じった表情で言葉を失っていたけれど……。
それでもすぐに冷静さを取り戻し、色々な対処をしてくれた。
まずは、表向き「急病」ということで、アトリエの休業を延長してくれた。
そして、内密に、アリーレ・アルダ方面の情報を集めてくれることにもなった。
そのことに感謝しつつ、私はすぐアトリエに帰り──入ってくるかもしれない情報とカミルさんの帰りを待ちながら、既にもう、日付は変わってしまった。
(大丈夫。大丈夫よ、あのカミルさんなんだから)
それに、あんなに準備もして行ったんだから、きっと──いや、絶対に、大丈夫。
けれど、何度そう言い聞かせても、心のざわめきが止まらない。心を落ち着かせる効果のあるお茶を飲んでも、何をしても、怖くて、不安で、たまらない。
膝頭に顔をうずめて、祈るように彼の名を呟いた。
「カミルさん……」
早く無事な姿を見たくて、ずっと、眠らずにカミルさんを待っている。
帰ってきたことがいち早く分かるように、一階の、一番玄関に近い部屋で。
だけど、待っている人は、まだ来ない。
静かな森の家で、時計の音だけが無情に響いていく。
……あと、どれだけ待っていればいいのだろう。
あとどのくらい経ったら、帰ってきてくれるのだろう。
この不安は……いつになったら、取れるのだろう。
(っ……)
恐怖と不安と心配と、全てがぐちゃぐちゃになって、頬に涙が伝う。
「ダメ、泣くな。大丈夫だから……っ」
震える声で、そう呟くと──
──リィン。
突然、鈴のような音が響いた。それに、ハッと顔を上げる。これは、この音は。
(帰還の鈴!)
事前に実演してもらっていたから、はっきりと分かった。この音が、聞こえたということは。
(帰ってきた……!)
帰ってきた。カミルさんが、帰ってきた。
やっぱり、何も悪いことなんて無かったんだ。
すぐに立ち上がり、部屋を駆け出す。つい、笑みが浮かんだ。この時の私は、彼が帰ってきたということしか頭になかった。
そうして、廊下の角を曲がった私は、
「カミルさん! おかえりなさ──」
その続きを、口に出来なかった。
代わりに、ヒュッ、と、掠れた音が喉から響いた。
頭が、真っ白になった。
時が止まったかのように、身体が動かない。
理解したくないと停止した思考の中で、ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
──そんなはずはない。いや、そんなはずがない。そんなこと、あってはならない。
けれど、いくら頭で否定しようとも、目の前のそれを、無いことには出来なかった。
(……うそ、だ。こんなの、嘘だ)
そう思いたかった。
それでも、広がる鮮烈な赤が、鉄錆のような匂いが、これこそが現実なのだと告げていた。
(いや、嫌だ、こんなこと……!)
ガタガタと身体が震えて、言うことを聞かない。
それが、動かないのか認めたくないからなのかは分からなかったけど、このままではいけないと、必死の思いで重たい足を上げ、自分を叱咤して。
なんとか前へ、踏み出した。
「……っ、カミルさんっ!」
その一歩と共に、彼の名が零れ出た。
それを皮切りに、ようやく身体が動き始める。
──嫌だ、嫌だ。どうか、嘘だと言って。
ほんの少しの距離が、やけに遠く感じた。
「カミルさん、しっかりしてください!」
駆け寄ると、カミルさんがゆっくりと目を開いた。
そのことに安堵したけれど、翠の瞳に、いつものような輝きは無い。
「フィー、リア……さん?」
「一体どうしたんですか! こんなに酷い怪我……っ」
「ごめん、ね……ちょっと、失敗…………」
そう言ってカミルさんは薄く笑ったけれど、すぐに顔をしかめ、苦痛の声を漏らす。
「ぐ、ぅっ……!」
「カミルさん! カミルさんっ……!」
涙と混乱で、視界も、頭も、ぐちゃぐちゃで。もう自分でも、どうしたらいいのか、分からなかった。
それでも、思考の片隅で、肩から腕にかけて大きな裂傷があること、他にも無数の傷があることに気づいた。
床には既に血溜まりが出来始めていて──
「くす……り、を」
途切れ途切れに紡がれた言葉は、怪我の重さを物語るように、小さくて。
けれど、その言葉にハッとした。
(くすり、薬……ポーション!)
しかし、それと同時に気づく。
おびただしい量の血──その中に、独特の草の匂いがあることを。
(これは、ポーションの匂い……?)
しかも、おそらく……
──大量の。
そのことに、愕然とした。
それでも、すぐに気を取り戻し、カミルさんのウエストポーチを探して、中を見た。
けれど、中から出てくるのは、最近使われたのだろう空の瓶ばかり。
その事実に、血の気が引く思いがした。
カラン、と蓋が手から落ちる。
(これを……この量を、全部、使って)
私が言ったから、ポーションは、たくさん持って行っていたはずなのに。
大抵の怪我は、一本使えば完治するはずなのに。
そこまでしたのに、この状態だというのか。
(……もし、そうなら……)
今ここから、さらにポーションを使ったとしても。
(完全に治せるか、分からない……)
ポーションでは、間に合わない。
アトリエにある全てを使ったとしても、完全に治る保証が無い。
例え見た目が回復したとしても、後遺症が残る可能性だって──
目の前で倒れている、カミルさんを見た。
(……っ)
きつく、きつく、拳を握りしめた。
助けたい。カミルさんを失いたくない。
そして私なら、それが出来る。
けれどそう思った途端、過去の記憶が、楔のように私の身体を縫い止めた。
何よりも強い呪縛が、私を動かすまいと縛り付ける。
想いを告げると決めてから、覚悟はしていたはずなのに。
それなのに、実際にそれをすると思った瞬間、私の意志関係なく、身体が震え出す。
(今は、震えてる場合じゃない……っ!)
動きたい、助けたい。
それなのに、身体が、言うことを聞いてくれないっ……!
(動け、動かないと……!)
早く、早く。
ここで、止まっている場合じゃないのに──!
焦りと、失ってしまうかもしれないという恐怖と、こんな時なのに動かない自分への怒りが混ざって、ボロボロと涙が溢れてきた。
ギリギリと血が滲むほど拳を握っても、それでも身体は、動き出してはくれない。
(っ、泣く暇が、あるならっ……!)
その時──ふと、焦る私の手に何かが触れた。
目を向けると、それはカミルさんの手で。
顔を上げると、カミルさんがまっすぐに私を見ていた。
その唇が、小さく、言葉を紡ぐ。
「なか、ない……で……」
──僕は、大丈夫だから。
最後、声にもならなかったその言葉に。
ざわめく全てが────止まった。
その目にも、言葉にも。
私を責めるようなものは、何一つ無くて。
ただ私を心配する瞳に、私を支配していた全てが、塗り変わっていく。
満身創痍で、血だらけで、ボロボロで。
自分の方が大変な状態だというのに、それでもカミルさんは、私のことを心配してくれているのだ。
──強く、唇を噛んだ。
(……痛い)
痛い。血の味がする。でも、これよりもっと強い痛みを、今、彼は負っているのに。
私は、一体何をしているの?
──カミルさんに、両手をかざした。
それでもまだ、怖いと叫ぶ自分がいて。目を閉じ、ぐっと奥歯を噛みしめた。
(前を向け、前だけを見ろ)
後ろを見るな。過去を見るな。
ただ、今すべきことだけに集中しろ。
それでも過去のこだまは聞こえ続ける。
前へ進ませるものかと、私の足を引く。
(失せろ……っ! そんなもの、今は関係がない!)
苦しい。辛い。分かっている。でも、そんなものよりも、何よりも。
──失いたくない、奪われたくない!
(それに、約束したんだ……っ)
私に出来ることなら。
(必ず!)
カミルさんを、助けると!
ぱちり、目を開いた。もう、振り返らない。
手をかざしたまま、集中し、身体の中から力を汲み出していく。
そうしてそれを、素早く、的確に、術として編み上げていった。
純粋な力が、明確な目的を持つ術として、形を成していく。
(一つ……)
二つ……三つ。
今必要なもの、全てを同時に組み上げた。
傷口と身体を綺麗にする術、体力を回復させる術、そして、どんな怪我をも癒す術。
どれも、すぐに完成した。ああやっぱり、練習していた甲斐があった。
(構築は完璧。理論上は、これで助けられるはず……)
けれど、今まで実際に使ったことが無いので、本当にそうなるかは分からない。
でも、きっと治る──いや、絶対に、治してみせる。
強い意志を込めて、その名を口にする。
全ての願いを、ここに込める。
「【清浄】【生命力回復】【完全治癒】──!!」
その瞬間、眩い光がカミルさんを覆った。
私の手から溢れ出る光が、次々にカミルさんの怪我を癒していく。
それに応じて私の輝力も、ずるずると、まるで吸い出されるように減っていく。
(くっ……)
かざす手が、燃えるように熱い。
急速な輝力の消費。その激しさに、少しでも気を逸らせば意識が飛びそうになる。
しかしこの消費量は、それだけカミルさんの怪我が重く、広範囲であることを示している。
だから、私はここで引き下がる訳にはいかないんだ。
(絶対に、助ける……!)
歯を食いしばって、必死に術を行使する。
後遺症も、少しの傷痕も許さない。
全てが、完全に治るまで。
何があろうとも────私は、この手を止めない。




