第十話 いつか、踏み出せる日が
連続投稿2/2。
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ずくん、と重い痛みが私の心を支配する。
それは、私が封じ込めていた、痛み。
(っ……!)
身体が固まる。息が出来ない。
それと共に脳裏に浮かぶのは──思い出したくもない、かつての記憶。
「……フィーリア、さん?」
様子が変だと思ったのだろう。
先ほどまで浮かべていた笑みを消し、心配そうに声をかけてくれたカミルさん。
その表情にハッとして、それと同時に、しまった、と焦る。
そうして、泥のようにつきまとってくる過去を必死に振り払い、どう言ったらいいものかと考えながら、私は口を開いた。
「ああ、ええと……。……今まで、言ってなかったんですけど……私、実は……孤児なんです」
そう告げると、カミルさんは、え、と固まって、それからすぐに頭を下げた。
「ごめん! そうとは知らずに……」
「あ、いえいえ! そんな、大丈夫ですから、頭を上げてください」
慌てて駆け寄ると、カミルさんはゆっくりと顔を上げる。
「でも……本当に、ごめんね」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
申し訳なさそうなカミルさんに──私も心の中で謝りながら、言葉を続ける。
「……私、ほんの小さい頃から孤児院にいたので、両親の顔も知らないんです。それに、孤児院の先生たちが親切にしてくださって、寂しくもなかったので。だから、本当に大丈夫ですよ」
そう言って寂しげに微笑むと、カミルさんは、一瞬言葉に詰まったように動きを止め、そして考え込むような表情をした後──おそるおそるといった様子で、口を開いた。
「そう……。……フィーリアさん。一つだけ……聞いても、いい?」
「はい。なんですか?」
その問いかけに、どきりとしたけれど、それは決して表に出さず、微笑んだまま頷く。
「その……フィーリアさんの、その名前は……誰が、つけてくれたの?」
思いもよらなかった質問に、私はぱちりと瞬いた。
あぁ、なんだ。難しい顔で考えていたから、何かと思ったけど……それなら、言えることだ。
(……良かった。なんとか誤魔化せたみたい)
……私は、孤児であるという事実を、悲しんではいない。
孤児院の先生たちがよくしてくれたというのも、本当のことだ。
私には、帰る家は無いけれど、帰る場所ならある。
だけど──私は、孤児院には帰れない。
顔を見せにも、行けない。
だから、それを誤魔化すために演技をした。
孤児であることを寂しがっているような、孤児院にいたことを悲しんでいるような、そんな演技を。
そうしたらきっと、「孤児であることを悲しんでいる私」に、そのことを思い出させる「孤児院」に帰らないのか、とは言わないだろうと思ったからだ。
カミルさんを騙すのは辛かったけれど……それでも、その理由を聞かれる訳には、いかなかったから。
私は、安堵と痛む心を奥深くにしまい込んで、口を開く。
「いえ、 私の名前だけは、孤児院に来た時に着ていた服に、刺繍されていたんです。『フィーリア』って。家名は無かったから、それしか分からないんですけどね。……まあでも、服に名前があったくらいだから……両親にはきっと何か事情があったんだろうと、そう思っています」
この言葉と、両親に対して思うことがあるというのは、本当のこと。
両親に何か事情があったのは確かだ。
なんとなく、そういうことだろうな、と想像はついているから。
(そして──)
──そのせいで、私は捨てられたのだろうから。
すると、私の答えを聞いたカミルさんは、一瞬だけ──驚いたような、納得したような、そんな表情になって。
それから、そうなんだね、と呟いたきり、黙り込んでしまった。
「…………」
「…………」
ふっ、と部屋に影が落ちる。
窓の外で明るく照っていた太陽は、雲間に隠れてしまった。
それと同時に満ちるのは──果てしない静寂と、重い、沈黙。
どちらも、何も、言葉を発しない。
ただそのまま、時間だけが流れていく。
(……何? ……何を、考えているの?)
いきなり訪れたその沈黙に、私は動揺してしまった。
それを悟られないように、カップを手に取り、ゆっくりと時間をかけてお茶を飲む。
けれど、美味しかったはずのその味が分からなくなるほどに、私が抱いた不安と疑問は、大きかった。
カミルさんは、一体何を考え込んでいるの?
何を、そんなに難しい顔で考えているの?
…………まさ、か。
(カミルさんは──何かを、知っている……?)
そう思った瞬間、咄嗟に、問いかける言葉が口をつきかけた。
けれど、それが発せられる前に、慌ててそれを呑み込む。
(待って)
早まりかけた自分に、そう言い聞かせた。
まだ、問うてみるには、早すぎる。
よく考えて聞かなければ、大変なことになるかもしれない。
だって──だって。もし、何かを知っているとして。
カミルさんは、何を知っているの?
(…………)
──聞いてみる? 聞いてみようよ。
もう一人の自分が、そう問いかけてきた。
聞いてみたい気持ちも……確かに、ある。
だけど──
(──またああなるのは、もう嫌だ……っ! ……。……でも、でもっ……!)
そうして、ぐるぐると、まとまらない考えだけが、頭の中を巡っていった。
けれど、しばらくそうしていると、カミルさんの方が、先に口を開いた。
時計を見て苦笑したカミルさんは、さっと立ち上がる。
「ごめん、依頼がまだ残ってるのに、なんだかぼうっとしちゃって。さて、急いで始めよう」
「あ、はい」
(話す気は、無いみたい……)
はたしてそのことが、私にとって良かったのか、それとも、悪かったのか──
それは結局、分からなかった。
そうして、その後は、まるで先ほどのことが無かったかのように仕事をこなしていき、あっという間に、夕方になった。
そして、それからも、至って普通に──いつも通りに夕食を食べて、たわいもない雑談をして。
「じゃあ、明日もよろしくね。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
普通の挨拶を交わして、自分の部屋に戻った。
パタン、と扉が閉まる。
後ろ手に扉を閉めた私は、そのままずるずると床に座り込んでしまった。
何をするでもなく、ただしばらく、ぼうっとそこに座る。
そうしていると、忘れようにも忘れられなかった昼間のことが、脳裏によみがえった。
(……あれは……なんだったの?)
本当に──カミルさんは、何かを知っているの?
そこで、ハッと思い出した。
それは、カミルさんと初めて出会った、あの日のこと。
(そうだ。今思えば、カミルさんはあの時も──)
『フィー、リア? 君の名前、フィーリアっていうの?』
(……私の名前を聞いて、驚いてたっけ……)
でも──私の名前に、一体何があるというのか。
そこまで驚く理由は、何?
あの質問の理由は──何?
「……。……私の、名前……」
ぽつり、呟いた。
私の名前。「フィーリア」という名前。
私に分かるのは、それがきっと、私と本当の家族との繋がりを表している、唯一のものだろうということ。
ただ、それだけだ。
「…………」
ふと思い立った私は、ゆっくりと立ち上がり、クローゼットへと向かった。
その奥を、がさごそと探る。
「あった……」
出てきたのは、小さな木箱。
鍵がかかっているそれを開けると、袋が入っていて、その中には、小さな服が入っている。
──かつて、幼い日の私が着ていた、産着だ。
久しぶりに見たそれを取り出して、広げてみる。
白かったのだろうその服は、年月の影響を受けて、だいぶ黄ばんでしまっていた。
けれど、くるりと裏返すと、そこにはいつ見ても変わらない文字が縫い付けられている。
ところどころ解れたりはしているけれど、その文字の意味は、どんなに年月が経とうとも、変わらない。
その文字が投げかけてくる疑問も、変わらない。
私は、丁寧に刺されたその刺繍に、その文字をなぞるように、そっと触れた。
「……『フィーリア』」
花も、鳥も、他のどんな意匠も施されず、ただ真っ白な服に、ただその名だけを刻んだ、刺繍。
その文字の一つ一つを眺めながら、考える。
これを刺したのは、私の母なのだろうか。
もしそうだとしたら──どんな思いで、これを刺したのだろうか。
込められたそれは、手放さなくてはならない我が子への惜別の念なのか。
(それとも──)
かつてあった愛情の、最後のひとかけらなのか。
そう考えると、まるで、心臓を鎖で締め付けられるような感覚がして。
その感情を追い出すように、ふう、と息を吐いた。
そうして、天を仰ぐ。
(分からない。考えても考えても──……いや、違う。そもそも……私に、分かるはずがないんだ)
私に与えられた手がかりは、この、小さな糸の文字だけ。
それ以外は、何も無い。
たったそれだけでは、私には、推測することしか出来ないのだ。
だから、その推測が正しいのかどうかも、分からない。
いくら考えても、考えても。
その結果として現れるのは、深まる疑問と、心が締め付けられるような感情だけ。
それは募るばかりで、いくら時が経っても、解決はしない。
(…………。あぁ、もう!)
そう、考えていても仕方がないのだ。
どうせ、私が考えたところで、答えは出ないのだから。
そう割り切った私は、手にしていた産着を素早く片付け、勢いよくベッドに飛び込んだ。
気持ちを落ち着けようと、灯りを消して、暗闇に身を委ねる。
「…………」
だけど──考えるのを止めようとしても、どうやっても、それは私の意思と関係なく、続いてしまって。
月灯りに照らされて、闇と光が揺らめく天井を見つめながら、考える。
(……。……もし、私が誰なのか、分かったのなら──)
あの気持ちの正体も、分かるのだろうか?
私が紡歌を聞く度に起こる、あの気持ちのことも……
──私の心の中の、一番、深いところ。
普段は意識すらしていないような、ずっとずっと、奥深く。
私が紡歌の世界に触れる度に、その深い場所で、それは、ふと沸き起こる。
その感情は、決して、強くは主張しない。
けれど、ここにいるよと、確かにそれは、私にささやきかけている。
(あの感情を、言葉に表すなら)
あれはきっと、何か大切なものに巡り会えた時のような、嬉しさと、喜びと。
哀しみと寂しさをはらんだ、涙が溢れそうなほどに愛おしい、懐かしさ。
それら全てが複雑に入り交じった──そんな、気持ちだ。
(でも……)
私は、カミルさんと出会うまで、一度も、紡歌を聞いたことがなかったのに。
知っているとしても、本からの知識でしかなかった──そのはず、なのに。
それなのに、それを超えた、何かが動く。
紡歌に、その世界に──私が、触れる度に。
(これは……何?)
自分でも、こんな気持ち、矛盾していると思う。
だけど──それと同時に、この気持ちが、何かとても大切なもののような気がしてならなくて。
胸に当てていた手を、ぎゅっと握りしめた。
(……あぁ)
あぁ、分からない。
私一人では、どうやっても分からない。
この気持ちも、私自身のことさえも、何もかも。
だけど……
「いつか……分かる日が、来るのかな……」
この気持ちの意味も──そして、私という存在の意味も。
分かる日が、来るのだろうか。
その一歩を踏み出せる日が、来るのだろうか。
でも……それを知ろうとする勇気は、今の私には、まだ無くて。
零れ落ちた言葉は、夜の闇に、静かに消えていった。