六日目
自然と打ち解けてきた。
ベッドから起きると、直樹君はもう居なかった。
窓から下を見ると捕球ネットの前でバッティングの練習をしていた。
私は昨日の蟷螂の卵が気になり外に行った。
ふと思ったんだ。
もし蟻が箱の下に居たら私が此処に移した意味がないと。
結局、私は何が遣りたかったのか?
解らずに、ただ箱を見ていた。
(家の中で飼えたらいいな)
そんな突拍子もないことが脳裏に浮かぶ。
でも出来ることなどないと思った。
「あれっ、これ蟷螂の卵?」
ピロティの箱を見て、直樹君が言った。
「そう言えばママも育てていたな」
でも直樹君はそう言った後で顔色を変えた。
明らかに挙動不審。
私が捕まえて来た蟷螂の卵が怖い訳ではないらしい。
でもそれを見てから、態度が変わったのは確かだった。
「蟷螂って益虫なんだってさ。害虫を食べてくれるからね」
それでも、慌ててそう言った。
(あれっ、私が考えたことと一緒だ。直樹君のお母様とは気が合いそうだな)
私はそれを不思議がることもなく、自然に受け入れていた。
(きっと直樹君が言ったからね)
そう思うと、少しだけ気が休まった。
昨日、社会人野球チームの練習から帰って来た時、直樹君は明るい顔をしていた。
でも私はそれが妙に気になっていた。
何故か無理しているように思えた。
蟷螂の卵を懐かしそうに見つめる目が、寂し気に揺れていた。
私の視線に気付いた直樹君は無理に笑っていた。
「ごめんね」
直樹君は何故か誤った。
「私には無理しなくていいよ」
私がそう言うと、直樹君の顔が強張った。
「実は……悩みがある」
直樹君は辛そうにため息を吐いた。
「この前コーチに会えたことが嬉しくて、二人の会話をこっそり聞いていたんだ。出てくる話は秀樹のことばかりだった。その時俺は、秀樹が目立たせるための存在なのかも知れないと思ったんだ」
何時になく直樹君は弱気だった。
私は何も言うことが出来ずに、ただ直樹君を見つめていた。
でも勝手に私は両手を広げて直樹君を包み込んでいた。
直樹君はハッとしたように、一瞬私を払い退けようとした。
でもその後で、身を屈めて私の胸に甘えるように顔を埋めた。
私は突然の事態に恐れおののいた。
それでも私の手は、直樹君を癒すように背中を優しく撫でていた。
私は直樹君のお母さんになったような心持ちだった。
「直樹君……、直樹君はどうしたいの? 自分を目立たさせたいの?」
その質問に頭を振った。
「俺にはない。目立ちたいとか、そう言うのは」
「だったら良いじゃない。秀樹君の引き立て役でも良いじゃない。私は知ってるもの。直樹君が今までどんな苦労していたかを知っているもの」
自分で言っておきながらその発言に驚いた。
(何言ってるんだろ私。確かに直樹君を見つめてきた。だからといって……)
だからといって何なんだろう。
私は自分が判らなくなっていた。
「ありがとう。そうだよ俺はプロになるために野球を続けてきた訳じゃない」
「全て家族のためだったのでしょう? 直樹君らしいわ」
「俺らしい?」
「うん。私知ってるよ。本当は生徒会長なんてなりたくなかったのでしょう?」
直樹君は顔を上げハッとしたように私を見つめた。
「何故知ってるの? 誰にも言わなかったのに……、あっそうか一人だけ知っていたんだな……」
直樹君は泣いてそのまま俯いた。
私はそんな直樹君を又そっと包み込んだ。
でも私は、直樹君の言った本当の意味が解らなかった。
一人だけ知ってるって、私のことを言ったじゃないよね?
ねえ、その人誰なの?
「ありがとう中村さん。俺は俺らしく生きて行かなくちゃならないんだね。秀樹のためでも、大のためでもなく」
「そう、直樹君は直樹君らしくね」
「ところで、何処まで知ってるの? 俺が生徒会長に立候補する羽目になった経緯?」
直樹君は私を見つめていた。
私は嘘はつけないと察したのだが、本当のとこは何も解ってもいなかったのだ。
「秀樹君が、直樹君に強引に押し付けたのでしょう? 野球部のために一肌脱げとか言って」
仕方なく、そう逃げた。
何故それを言ったのか判らない。
でもそれはどうやら的を射たようだった。
「ああ、その通りだよ。彼奴は面倒くさいことは全部俺に……、キャプテンだってそうだ。俺が遣れば、自分の思い通りなると思ったんだろうな『俺は野球に集中したい。だからキャプテンは任せた』
そう言ったんだ」
「でも、生徒会長に立候補した時の直樹君格好良かった。私ハート毎持っていかれた」
私はそれとは気が付かずに、直樹君に愛を告白していた。
夜。
社会人野球チームの練習から帰って来た時、直樹君は明るい顔をしていた。
(吹っ切れたのかな?)
私はそう思っていた。
鉄板焼の終わったプレートを一旦拭いてから焼きおにぎりを作る。
母は味噌派だった。
「へー、初めて食べたけど、これ美味しいね」
「でしょ? 母の実家の方じゃ定番らしいです。普通お好み焼きって言うじゃないですか。あれもタラシ焼きって言うんです」
「えっフライのこと? タラシ焼きって言うの?」
「フライ? 大、お前の母ちゃん行田か?」
「ああ、そうだよ。忍城ってあるだろう? あの傍だ」
「あ、あそこなら自転車で行ったな」
直樹君は急に元気になった。
「忍城にこっそり行ったんだ。ホラ、日本一長い水菅橋ってあるだろう? あの道真っ直ぐ行くとカラクリ時計台があって、その近くを曲がって暫く行くとSLが展示されていた」
「おいおい、あそこまでかなりあるぞ」
「此処へ来る前に一度見ておきたかったんだ。星川に森林公園と農林公園、百穴に蒲桜。それとさきたま古墳群と忍城。あ、荒川花街道も行ったよ。何もすることがなかったからね。鈍った体と相談しながら、数日かけて埼玉の名所巡りだ」
「そう言やお前ら親子、暇さえありゃ鍛えてるな」
「そうなんだ。でも流石に行田までは疲れて、忍城でぼんやりしていたんだ。そしたら侍みたいな人に会ってさ、でも頭は長いけど普通で……」
「今そんなことしてるんだ? 俺も最後に行きたかったな」
大君はしんみりとしていた。
「今度帰ったら行けばいいよ。大も一旦帰るんだろう?」
「そりゃそうだ。もしかしたら一人で置いて行くつもりだった?」
大君が皮肉たっぷりに言う。
「そうだ大君。私と一緒に残らない?」
大君は驚いたように私を見た。
「駄目だよ。中村さんは連れて行くよ。それとも帰りたくない事情でもあるの?」
直樹君は私の顔を覗き込んだ。
「熱いねー、もう美紀ちゃんとのこと忘れたか?」
大君が意味ありげに言った。
「馬鹿、大。中村さんの前でフラれた話することないだろう!」
「そうだった。俺達全員フラれたんだ。まさかお前達の親父と結婚するなんて」
大君が泣き出した。
美紀ちゃんのことは友達の中野直美ちゃんより聞いて知っていた。
直美ちゃんは松宮高校野球部のマネージャー見習いだったのだ。
三つ子の末娘が、ある日突然血の繋がりのない他人だと知った。
その時、本当は双子だった直樹君と秀樹君がライバルになったのぁ。
事実に直面して愛したことも知っていた。
大君秀樹君直樹君、それぞれが美紀ちゃんと結ばれる夢見ていたって言うことも。
バレンタインデーの時にクラス全員の前でフラれたと聞いてホッとしたことを覚えている。
でもその後のことは何も解らなかった。
私は大君の一言にショックを受けていた。
そうなんだ。
幾ら私が直樹君のことを好きでも、敵わないのだ。
直樹君の心の中には、まだ美紀ちゃんがいるはずだから。
たとえ直樹君のお父さんと結婚したとしても……
思わず、目頭に手が行く。
そっと、隠した指先が濡れていた。
私は泣いていたのだ。
でも誰も気付いていないようだった。
私は何事もなかったかのように、振る舞うしかなかったのだ。
(何で泣いたの?)
自問自答する。
それでも答えは出ない。
出るはずがない。
私は本当に泣く理由なんて無いのだから……
そう……
大君の口から美紀ちゃんに全員がフラれたことが発覚したから、もう悩まなくて良くなったのだ。
それなのに、私は何故泣いたのだろうか?
それはまだ、美紀ちゃんに占められている直樹君の心の闇のせいなのだろうか?
(直樹君の悩みって、本当は何処にあるの?)
「あっ、さっきのタラシ焼きって何処のなの?」
急に大君にフラれた。
「えっ、あー秩父です。私が小さい時に亡くなた父の故郷なんです」
「へー、そりゃ大変だったね。母子家庭ってことだろ。家は父子家庭かな?」
「もしかして、親同士が結婚してくれてたら……」
そう言いながら大君が急に泣き出した。
「美紀ちゃんは俺のものだったのに」
「ブー!!」
今度は秀樹君がブーイングした。
(親同士が結婚!?)
でも私は秀樹君より大君の発言の方が気になった。
(私の母が直樹君のパパさんの追っ掛けだったってこと知っているのかな?)
ふとそう思った。
後片付けは全員でやると決めたのに、秀樹君は疲れているらしくて風呂に直行した。
昨日最後にお風呂に入ったのは私だった。
その時バスタブを磨いておいたのだ。
だから誰でもスイッチオンだけで入れるのだ。
(やはり俺様なんだな)
私はそう思った。全てがそう言い切れるはずもないのに、手伝ってもくれない秀樹君を何処かで特別視していたのだ。
松宮高校野球部のエースとして大活躍した秀樹君。
豪速球を武器に、甲子園まで部員を導いてくれた。
でも、真のエースとは言えないと私は思っていた。
全ては直樹君の活躍だったからだ。
地区予選の最終日、自慢のツーシームを固め打ちされてコテンパンに遣られたのを救ったのは直樹君だった。
だから感謝しても足りないはずなのに、そんな素振りを微塵とも感じさせない。
私は秀樹君を直樹をこき使う我が儘だけの人だと思っていたのだ。
ベッドでは相変わらずバタンキューの直樹君。
それとも私と話をすることが怖いのか?
一緒に部屋までは来たけど、眠る前に目も合わせてくれなかった。
(ねえ、直樹君。私怖いの)
本当は何が怖いのか解らない。でも私は心の中に別の何かを抱えているような気がしていた。
社会人野球チームの練習から帰って来た時、直樹君は明るかった。
本当はそれが本来の姿だと言うことを知っている。
だって私は松宮高校の生徒会長の直樹君に憧れて、ずっと見つめてきたのだから……
だから直樹君の情報を直美ちゃんから聞いていたのだ。
少しでも直樹君の存在を感じていたかったのだ。
私のタラシ焼きに食いついて、フライの話題に飛んだ大君。
ついでにそのフライを焼いてくれた。
小麦粉にネギを入れたシンプルな味だったけど美味しかった。
確かにタラシ焼きに似ている。
父の自家は農業も営んでいた。
昔お祖母ちゃんが達磨ストーブの上で作ってくれたのは味噌味だった。
私は懐かしい祖母の顔を思い出していた。
でもそのお陰で、思いがけない直樹君の故郷を思う心に驚ろかされた。
きっと無理に大君の話題に乗ったのだと思うけど。
美紀ちゃんを巡る三人のラブバトルを私に聞かせなくする配慮だったのかも知れないけど。
(ねえ直樹君。そんなに美紀ちゃんのことが好きだったの? 後輩の憧れナンバーワンだから判るけどね)
私は又寝付かれない夜を迎えそうだった。
大君は美紀ちゃんを好きだった。




