君はそこにいた
授業が終わった後、俺は泰平によってそのままバイト先のジャズバーに連れて行かれた。
店の名前は《ジャジーダイニング》、昼間はコーヒーや紅茶が出るジャズ喫茶で、夜はお酒も飲めるジャズバーになる。
暗い塗料で塗られた樹の椅子や机といった内装は、かなり落ち着いた様子でオシャレだ。それに加えて、灯りは少し暗くて大人の雰囲気が出ている。
何というか大人の人が良く似合う場所といった感じの場所だ。やる勇気はないけれど、隣のお客さんからです、と言ってマスターからスーっとカクテルが渡される。そんなノリが許されそう。
とはいえ、ここはジャズ喫茶、やっぱり内装で一際目立っていたのは、店の隅に置かれたピアノだった。
さすが生演奏を謳うジャズ喫茶と思った――その時だった。
心臓がトクンと音を立てる。しかも、何故か妙に懐かしくて、嬉しい気持ちが胸をいっぱいにしていた。
「おぉ! 博人君! 今日も本当に良く来てくれたね!」
「え、あ、はい」
俺達が店に入ったことに気がついたのか、店の奥から店長らしき人がやってきた。
白髪混じりのグレイヘア、優しげだけれどカッコイイ、ジャズバーに似合う初老紳士と言った感じのナイスミドルなおじさまだと思っていると、店長が突然俺の手を掴んできた。
「いやー、演奏者が事故にあったと連絡された時はどうしようかと思ったけど、君がいてくれれば何の問題も無く店が開けるよ」
俺にとっては初めて会った人なのに、いきなり信頼度マックス状態の店長に俺は苦笑いするしかなかった。
これじゃあ、実は全くピアノなんて弾いたこと無いんです、なんて言える状況じゃない。
というか、俺が演奏するところを店長は自分の目で見ただろうし、弾いたこと無いなんて言ったら逆に嘘つき扱いされそうだ。
マジで困ったな……。
「さぁ、今日は君達学生でほぼ貸し切りだ。料理の下ごしらえは済んでいるから、泰平君手伝いを頼むよ」
「ラジャーっす!」
泰平が元気良く返事をして、店長の後に続き厨房へ消えていく。
「あ、あの俺は!?」
呆気にとられていて、俺が何をするのか聞きそびれた。
「ピアノ、自由に使ってて良いよ。楽譜も用意したから今日弾く曲を決めてね。あ、CDもあるから視聴も出来るよ」
でも、返ってきた言葉はそれだけだった。
自由に使えって言われても……一体どうすりゃ良いってんだよ!?
譜面なんてほとんど読めないんだぞ!?
とりあえず、CDを聞いて、良さそうな曲を選ぼう……。んで、エアピアノにするようお願いしよう。
そう思って、適当にCDを入れたら流れてきたのは、ちょうど昨日俺が弾いたらしい曲だった。
「君はここにいるって曲名なのか」
とても陽気な曲で、聞いていたら思わず身体が動いてしまいそうな元気さを感じる。
すると、心臓がトクントクンと高鳴り、全身にいっぱいの熱い血を送り出した。
そうとしか思えないほど、身体が内側から段々と熱くなってくる。
その熱に促されるように、俺はピアノの前に座る。
すると、腕と足が自然に動き出していた。
「あれ!? 弾ける!?」
というよりも、弾かされていると言った方が正しいかもしれない。
操り人形の糸で身体が動かされているような感じで、俺の意思とは無関係に指が動くんだ。
けれど、すごく楽しい。
音が奏でられる度、メロディーが繋がり、俺の心臓の高鳴りがさらに増して、重なっていく。
気付けば鍵盤以外は何も見えず、白と黒の世界で音だけが響いていた。
その中で俺は近くに誰かの気配があるような気がした。
ふっと、気になって顔をあげると、鏡あわせのようにもう一台のピアノが置いてあり、一人の女の子がピアノを弾いている。
頭の後ろで縛った長い黒髪は踊り、愛嬌のある目を嬉しそうに細め、血色の良いピンク色の唇をゆるませながら楽しそうにピアノを弾いている女の子。
その全てが愛おしく感じるほど笑顔が輝いていて、かわいく見える。
そんな女の子とふと目があう。
その瞬間、心臓がトクンと跳ねた。血が沸き立った。
俺は、この子を知っている? この子の名前はもしかして――。
「君は誰?」
「あなたは誰?」
俺たちの声が重なると、ジャーンと二人のピアノが不協和音を鳴らし、世界は真っ暗になった。