知ってしまったこと
ピアノを弾き終えた途端、私の中で何かが砕けて消えたような気がした。
「ダメ! 博人さん!」
私は審査員にお辞儀もせずに、舞台を降りてしまう。
その瞬間会場がどよめいたけど、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
私の中から博人さんの思い出が消え始めていたんだ。
置き手紙に何が書いてあったのか、博人さんが私のために何をしてくれたのか、未来で出来た友達の顔が、消しゴムで消されていくみたいに消えていく。
代わりに誰かが私の心に、ありもしない記憶を書き込んでくるような気持ち悪さが襲ってくる。
「博人さん……なんで!?」
私は博人さんの病院に行くためにバッグから財布を取り出して、廊下を全力でひた走る。
「きゃっ!?」
履き慣れない靴で足を捻って私は頭から廊下に転んだ。
財布の中身が飛び散り、ちりんちりんと小銭が跳ねる音がする。
その中身を慌てて拾おうとすると、一枚の見慣れないカードが出てきた。
「ドナーカード?」
そこには脳死後臓器移植をする意思があるかどうかが書いてあったが、既に提供しないに丸が打ってある。
「博人さん? ……あああああ!」
私はここにきてようやく自分の間違いに気がついた。
何で気がつかなかったんだろう!? 私の心臓が博人さんの中にあったのなら、この時代の私が死ななかったら、未来の博人さんの身体は病気のままだってことに!
「ダメだよ……! ダメだよ博人さん!」
捻って痛い足を引きずるように私は前に向かって歩いた。
早く病院に行って、博人さんに会って、伝えないと……。
消えちゃ嫌だって、私の心臓で生きてって言わないと……。
それなのに、それなのに! 何でこんなにも前に進むのが遅いの!?
「博人さんっ…!」
「香織!」
「羽田先生! お願いします! 病院につれていってください!」
「どこか傷めたの!?」
「違います! 私の好きな人が死にそうなんです! 病院から連絡があって!」
「っ!? 分かったわ。すぐタクシーを用意するから!」
タクシーが来るまでの間、私は消えかける思い出を必死につなぎ止めた。
君の名前を何度も口にして、記憶が消えちゃわないように何度も何度も――。
そして、病院に着いた私は、まだ君の名前を覚えていたことを確認するように叫んで、タクシーを降りた。
「博人さんっ!」
その瞬間、私の視界がくるっと回転し、空が足下に地面が頭の上にひっくり返る。
その先には赤い車がすごいエンジン音を立てて加速していく。
ごめん……、博人さん、私やっぱりダメだったみたい。
でも、これで良かったって思うよ。私は君に生きていて欲しいから、そうしたら私はまた――君の中にいられる。
「香織さん!?」
その後、私の意識は途切れ、遠くの方で私の名前を呼ぶ羽田先生の声が聞こえた。