君の心臓を捨てよう
俺は香織との電話を切った途端、電話の子機を落っことした。
全身から力が抜け、鉛のように重い手足がベッドにはり付けられる。
「はぁー……これで終わったんだ……。ハハ、死にそうなくらい疲れた……体力なさ過ぎだってのこの時代の俺……」
心臓が弱々しい音を立てる。
君が中にいた時みたいに跳ねるような力強さはない。
まるで、消えかけたロウソクの火が揺らめくような弱々しい脈を打つ。
「香織が最後まで気付かなければ良いな……」
俺は祈るようにそう呟くと、そっと目を閉じた。
多分、このまま眠りにつけば、俺は消えるだろう。
香織が生き残るということは、俺の身体に香織の骨髄と心臓は移植されない。
そうなれば、俺のこの身体が抱えている病気も治らずに、近い内に死ぬんだろう。
そして、過去の俺が死ねば、未来の俺も存在しなくなる。
もちろん、未来の俺とは香織と入れ替わったこの俺、柊博人だ。
この俺が消えれば、香織も入れ替わり先が消えて、入れ替わったことが無かった事になる。それこそ、朝目覚めて忘れてしまう夢のように、俺との入れ替わり生活の思い出は簡単に消えるんだと思う。
だから、君が最後までこのカラクリに気がつかなければ、君は幸せにプロのピアニストとして生き続けることが出来る。
君は何も申し訳ないと思うこともなければ、後悔もする必要もない。
だって、これは俺が勝手にやったことなのだから。
君の心臓を捨てることで、君が生き続けてくれるのなら、俺は喜んで君の心臓を捨てる。
そうしても良いって思えるくらい、俺は君を好きになった。
だから、長い眠りに落ちるのも怖くない。
俺はまどろみの中、大好きな君との思い出を思い出していた。
唯一、思い残すことがあるとすれば、俺は一度で良いから君のピアノを直接聞きたかった。
そう願ったら、突然目の前が明るくなった。
「え?」
真っ白な光の正体は舞台を照らすライトで、その向こうには多くの人が座っている。
何処かの劇場か? そう思って後ろを振り返ると君がいた。
肩が露出した黒いドレスを着て、大人のようなお化粧を施した香織に、俺は言葉も出ずに固まってしまう。
ただ、心に浮かぶのは一つだけ。
俺が見てきた何よりも君の姿は――綺麗だった。
「博人……さん?」
君も俺に気付いたのか、目を丸くしてフラフラとこちらに近づいてくる。
そして、君はおもむろに手を伸ばしてきた。俺もその手を掴もうと手を伸ばす。
「「あ……」」
二人の声が重なり、手が幻を掴んだかのようにすれ違う。
「これは夢かなんかか?」
俺は死ぬ直前に見る夢なのかと疑ったが、会場のアナウンスが香織に席に戻るように注意するのは、夢にしてはリアル過ぎる。
「ううん、夢じゃない。ちゃんと私は私だよ。でも、見えているのは私だけみたい」
俺はふとさっきの願いを思い出した。最後に一度、彼女の曲を聴きたいと願ったけど、もしかして、神様か何かが叶えてくれたのか?
それか、もう未来が変わって、行き場を失った俺の魂みたいなものが、よく入れ替わっていた身体を求めてここに来たとか?
そんな風に理由を考えて見るけど良く分からなかった。
でも、そんなことはどうでもよかった。誰も見えていないのなら、最後に一つだけワガママを言おう。
「香織の隣にいていいか? 一番近くで聴きたい」
「うん……うん!」
香織があらためて俺に手を伸ばし、俺も香織に手を伸ばす。
例えすれ違っても、俺たちは呼吸をあわせて手を重ねた振りをしたまま、ピアノに向かった。
不思議と重ねた香織の手から暖かさを感じて、心臓もないはずなのに妙にドキドキして、身体が震えそうになった。
「博人さん、私はあなたが大好きです」
香織はそう言ってピアノを弾き始めた。
その言葉が何度も俺の中で響いて、ピアノの音が聞こえなくなりそうになる。
震えていた魂が、さらに大きく震えて、喜びで爆発しそうになる。
目の前で幸せそうにピアノを弾いている香織の顔が愛おしくて仕方無くて、手を伸ばしても触れられないのに、触れたくなる。
その唇に自分の唇を重ねたくて、君から目が離せない。
「えへへ、博人さんがここにいる」
「あぁ、俺はここにいる」
同時に楽しそうにピアノを弾く君が羨ましくて仕方無かった。
君の中にいた時に刻まれた記憶のせいか、俺の指と腕がピアノを弾きたくてうずうずしているんだ。
「博人さん、一緒に弾こうよ」
「良いのか?」
「こんな経験二度とないからさ。プロにはいつでもなれるけど、博人さんと一緒に弾けるなんて多分これだけだよ?」
「ありがとう。手加減するなよ?」
「当たり前だよ? 全力でついてきて?」
香織の可愛らしい挑発に俺は笑顔で応え、彼女の身体にピッタリと身体を重ねる。
未来の俺の中には君の心臓と血が入っていたけど、今は君の全部が俺の中にいる。
魂だけになって身体なんてないはずの俺に、失った君の心臓が戻ってきて、血液が全身に熱を運ぶような感覚が生まれた気がした。
まるで何かが欠けてしまった俺に、君が必要な物を移植してくれているように。
「ねぇ、博人さん、私のドキドキ聞こえてる?」
「あぁ、ちゃんと伝わってる」
「これが終わったら返事貰うからね? 女の子を待たせちゃ駄目なんだよ?」
「分かってるよ」
「えへへ」
君と俺の完全に重なった指から鍵盤を押した感触が伝わる。
君の暖かさと一緒に楽しいという気持ちが伝わってくる。
その気持ちで俺の手は君を求めて、楽譜を追いかけていく。
もう後一分もしないうちに曲は終わる。
これが俺に許された最後の時間だろう。
だから、言わないといけない。この奇跡みたいな魔法が解ける前に。
「香織、俺に命をくれてありがとう」
「え?」
「君に会えて本当に俺は幸せだった」
「え? なにそれ?」
香織の声は震えている。
あぁ、気付いちゃったか。ごめんな。でも、言わないといけない気がしたんだ。
「そんなの聞きたくないよ。お別れの挨拶みたい……」
楽譜はもう最後の段だ。
謝るべきか、それとも別のことを伝えるか。
答えはとっくに決まっていた。
「俺は君のピアノを弾いている姿を初めて見た時から、多分君にひかれていたんだ。相手は女子高生で俺は大学生だから、そう思わないようにしていたけど」
「待って。待ってよ……そんな言い方じゃ……」
「俺も香織が大好きだった」
だから、ここでお別れだ。その言葉だけは内緒にして最後の一音を押す。
「博人さん!」
最後に真っ暗になった世界で君の声だけが響いた気がした。
○
夜空のような世界を俺は漂っていた。
真っ暗な世界に、君との思い出が星のように瞬いては消えていく。
それを見た時に、俺はそれが俺の記憶が消えているってすぐに分かった。
短い間だったけど、君と過ごした大事な時間が無かった事にされていくけど、俺の中にあったのは悲しみでも恐怖でも無い。
「これで良いんだよ」
俺はその光景を見て、ホッとしていたんだ。
俺との間に起こる出来事が消える代わりに、香織が新しい未来を作ってくれるはずだ。
そう思えたら、この悲しい光景がとても綺麗に思えたんだ。
それに、葬式も香織の黒いドレスは俺にとってこれ以上無い喪服になったし。
「さようなら」
俺がそう呟くと、一際大きな光が目の前に現れた。




