交わる言葉
私は正直、ここ数週間ずっと不機嫌だった。
文化祭の練習は私がみんなを指導して、内装の指示も出した。
多分、これ以上ないくらいの完璧な仕上がりだったと思うのに、全部博人さんに持って行かれた。
それ自体は別によかった。準備自体は楽しめたし、それに博人さんがやってくれたおかげで、羽田先生も、お父さん達も随分と私に対する態度が柔らかくなった。
それだけで、博人さんが素敵な時間を過ごせたって分かったから、私も嬉しくなったくらいだ。
ただ、どうしても許せないことがあって……。
「博人さんの鈍感……」
私は積み重なったラブレターの束を見て、ため息をついた。
有佳に何があったのかを聞いたら、コンクールが終わるまで返事は出せないと告白してくれたみんなに言ったらしく、忘れられないようにと誰かが送ったラブレターを受け取ると、他の人も書きだして全部受け取ったらしい。
「断ってよ……。私は博人さんが好きなんだから……」
何度目かのため息をついた私は、ラヴレターの前に置かれた一通の置き手紙に目を落とす。
《全部断ったよ。もう好きな人いるから》
私の書いた博人さんへのラヴレターだ。これなら博人さんでも気付く――。
気付かないだろうなぁ……。この鈍感っぷりだもんなぁ……。
というモヤモヤが何週間も続いた。
何で入れ替わりがほとんど起きなくなったんだろう。
「はぁー……」
何度目か分からない長いため息をつく。
カレンダーを見れば今日はピアノコンクールの日、これから新幹線に乗って東京に行かないといけない。
あんなに憧れていたプロへの挑戦なのに、心にぽっかり穴が空いたみたいにむなしくて。
「あー! ダメダメ! こんなんじゃ博人さんに笑われちゃう!」
もう出ないと間に合わない時間になって、私は無理矢理頭を切り換えた。
そして、私は気合いを入れ直すために置き手紙に一文を書き加えてから、家を飛び出した。
○
東京に連れて行ってくれる羽田先生はいつも通りで、特に気負っている様子はなかった。
いつものあれこれ細かい指摘が来ないことに、思わず私は首を傾げる。
「香織、どうかしたの?」
「えっと、てっきり曲の最終確認でもするのかなって思って」
「そうね。あなたが本当に心から楽しんで弾けば、きっと最優秀賞だって夢じゃない。いまさら細かいことを言う必要は無いわ」
「えへへ」
「ただし――」
そう言って先生は短く息を吐いた。
あ、駄目だコレ。お説教が来そう。
「その恋する乙女オーラは隠しておきなさい」
「ごめんなさい。……え?」
「イライラが表に出過ぎよ。よっぽど好きなのね? ここ数週間会ってないとか?」
「あはは……私の片思いですし……」
両思いだったら、あんなラブレター受け取らないはずだし。きっと、私の書いた恋がしたいっていうのを見て、好きになれそうな人を選んでっていう気遣いの結果が、あのラブレターの束だと思う。
それにむかついて、今朝付け加えたあの一文を博人さんが見たらどうなるだろうと考えただけで、頭が熱くなってクラクラしそうになった。
「今日のコンクールに招待してあげれば良かったのに」
「遠い所に住んでいますから」
「あら? てっきり同じ学校の子かと思ったけど違うのね」
「はい……」
「そう。それは残念だったわね。撮影したビデオを後で彼に送ったらどうかしら?」
あ、それなら私の弾いた曲を聴いて貰えるし、見て貰える。
そう思っただけで胸がどきどきして、格好悪い所は見せられないって心が頑張りだす。
「……お願いします」
けれど、私はごにょごにょと小声でそうお願いするのが精一杯だった。
○
新幹線を降りて、東京についた私は反射的に上を向いてしまった。
空は博人さんの中にいた時と同じように低く感じる。
その空の重さに、思わず私はジャジーダイニングまでの道のりを考えながら券売機の前に立った。
「ちょっと香織どこいくの!?」
「あ、ごめんなさい」
「会場まではタクシーって言ったでしょ?」
そうだった。
自覚はないけれど、思った以上に緊張しているのかもしれないなぁ。
私は落ち着こうと一度深呼吸してから、先生の呼んだタクシーに乗る。
流れていく街並を目で追い続けてみる。二年後の世界だけど、私は確かにここにいたんだと思えるお店や看板が何個もあった。
「私本当に事故で死んじゃうのかな」
たまらず目を背けていたことを口走る。
「何言ってるの? 緊張しているのは分かるけど、前向きになりなさい」
羽田先生は呆れているように苦笑いしているけど悪くない。
こんな想いをするのなら、怖がらずに未来の羽田先生からいつ死んじゃうのか聞けば良かったな。
そんなことを思いながら会場についた。
そして、名簿で名前をチェックしていると、不意に受付の人に声をかけられた。
「あの柊香織様ですよね?」
「はい、そうですけど」
「柊様にお電話がありまして、紬博人様という方から」
「っ!? 博人さんからっ!?」
博人さんの名前に驚いて、私は多分人生で一番大きな声を更新した。
そのあまりに大きな声に、受付にいた人たちの視線が一気に私に集まったくらいだ。
その中で一人、羽田先生だけは事情を察してくれたみたいで、行ってきなさいと言ってくれた。
「人違いでは無かったのですね。あ、すみません。電話番号を控えた紙は事務室に置いてきてしまいました。取りに行くのでちょっと待って貰って良いですか?」
「いえ! 一緒に取りに行きます!」
私は今にも走り出しそうになる足を必死に抑えて、係員の後をついていく。
頭の中はもう大混乱だ。
博人さんからの電話? でも、私たちは入れ替わっていないよ? この時代の博人さんが私を知っている? でも、この時代で会ったことないよ? 一体どういうこと?
係員が事務室から紙を持ってきてくれる。私はその博人さんの電話番号を見て、ドキドキしながらダイヤルをする。
「もしもし、博人さんですか!?」
「こちら早応大学病院ですが、患者様のご親族の方ですか?」
「えっと、あの、えっと……」
博人さんだと思ったら相手が病院の受付で訳が分からなくなる。
「紬博人さんの……友達です……。病院から電話してくれたって聞いて」
「確認のためにお名前をちょうだいしても?」
「柊香織です」
「すぐに確認して参ります」
電話からは保留の音楽が流れる。
それがとてももどかしくて、いつもの何倍も遅いテンポで聞こえるようだった。
本当に博人さんなら、なんて伝えよう? 何から話そう?
会いに行って顔が見たいとか、今から私プロになるためのコンクールがあるんだよとか、色々なことを言いたい。
そして、ついに――。
「香織……。俺だ。博人だ。……今日コンクールなんだよな?」
「博人だ……。博人の声がする……」
私は腰が抜けてその場にぺたんと座り込んだ。
ひんやりとした床の冷たさが、じわりじわりと身体に伝わる。
「なんで? どうして博人がこの時代にいるの?」
「多分色々理由はあるんだろうけど、それは後、大事な話がある」
「え?」
「今日、お前はこの後、死ぬ」
その言葉を聞いて、私の心臓が止まったかと思った。身体全身に氷水をかけられたような冷たさが走り、視界の焦点が合わなくなって世界が歪む。
「未来の羽田先生から聞いたんだ」
「そんな……」
「でも、大丈夫。俺は文化祭の入れ替わりで、過去を変えて未来を変えることが出来るって確かめてきた。だから、香織はコンクールが終わった後、絶対に羽田先生と離れ離れになるな」
「どういうこと?」
「俺のいた現代ではコンクールに失敗した香織がフラっと姿を消して、交通事故に遭ったらしい。だから、羽田先生と一緒にいて、事故に遭わないように気を付ければ、香織は死なずに生きられる」
「……本当に?」
「あぁ、俺を信じて欲しい。かなり苦労して過去が変えられるって調べたんだからさ」
「分かった……」
止まりかかった心臓が元気を取り戻して、身体に力が戻ってくる。
そっか。博人さん私のために色々がんばってくれたんだ。
「ありがとう」
でも、私はそういうのが精一杯だった。
「どういたしまして」
博人さんも短く優しい声で返してくれる。
色んなことを話したいのに、全然言葉が出てこない。
何を言って良いのか分からなくて、頭が色々な感情でグルグル回っている。
「香織、コンクールがんばって」
「博人さんに聴いて欲しいんだ。会場には入れてくれるよう係員さんに言うから、今から来れないかな……?」
ようやく口から飛び出した私のお願いに、博人さんは沈黙を返す。
「ダメ?」
「ごめん……めちゃくちゃ行きたいんだけど……身体がベッドに繋がれてて動けないから」
「あ……ごめん……入院してるんだもんね……」
「気にするなって。だからさ、香織が今回でプロになったら、元気になった俺に曲を弾いて欲しい。そうだなぁ、場所はジャジーダイニングが良いなぁ……」
「任せて。絶対に弾きにいく。今日のコンクールは絶対に最優秀賞取るから、だから、待ってて」
「あぁ、待ってる」
羽田先生が私を探しに来て、腕時計をつんつんしてそろそろ来てと教えてくれる。
でも、この電話を切りたくなくて、手に力が入ってしまう。
あと少しだけ、後一言何か欲しくて。ううん、何かじゃない。あの時の言葉を伝えて欲しい。
きっと、その言葉があれば、私は一番良い演奏が出来るから。
「博人さんは私の演奏好き?」
「あぁ、大好きだ。思い出すだけで心がウキウキする。今だって身体中痛くて重くて辛いのに、香織の演奏を思い出すだけで、前向きになれるから」
「博人さん、私、行ってくるね」
「うん、君の演奏をみんなに見せつけてやれ」
「はい!」
私は勇気を出して電話を切る。不思議だよ。君の声を聞けただけで、私はすごく変わってしまう。
死ぬのが怖かった自分はもういない。
イライラしていた自分もどこかへ消えた。
身体も心も軽くて、手を羽ばたかせたら飛べそうで、今なら何でも出来そうな気がする。
「香織、嬉しいのは分かるけど、お化粧は直しておきなさいよ?」
「え?」
「目元が涙でぐちゃぐちゃよ?」
「うわっ!? パンダみたいになってる!?」
先生の手鏡をのぞいてみると、気付かないうちに泣いていたみたいで、お化粧が酷いことになっていた。
でも、先生は怒らずに優しく頭をなでてくれる。
「この恋する乙女オーラなら、全開にして良いわよ」
「はいっ!」
私はこの日、誰にも負ける気がしなかった。
博人さんにあんなお願いされたら、絶対に負ける訳にもいかないしね。




