あがくことを決める
そんな俺の不安は予想よりも早く実際の問題として、目の前に現れた。
「香織……お前……」
俺の中に入っていた彼女が書き置きした手紙が、胸をしめつけてくる。
《私は死にたくない》
君の心臓が止まりかけた。
まさか羽田先生に連絡をとったのか? それとも高校時代の友達に連絡を取ったのか?
咄嗟にそう思ってスマホの履歴を確認する。でも、知らない電話番号と通話した記録はない。
それなのに、一体どうやって自分が死んだって知ったんだろう?
「でも……気付いちゃったんだな。君も……」
君の心臓に手をあて、俺はそう問いかけた。
心臓は答える代わりに弱々しく脈を打っている。
「俺も君に消えて欲しくない」
君に言われたからじゃ無い。
俺がそう望んでいる。
でも、俺には救う手立てがない。
神様の気まぐれで、君の過ごした高校二年生の思い出にしかいけないのだから。
自分の非力さが悔しくて、奥歯を噛んだ。
そのまま俺はベッドにもう一度身体を投げ出すと、全く力が入らない身体に元気を与えようとあの曲を検索する。
香織が俺の中で弾いてくれた最初の曲で、聞いていると元気になれそうな曲を流して、この陰鬱とした気分を吹き飛ばしたい。
そう思いながら、君はここにいるという曲を検索する。
けれど、そこで俺の手は止まった。
「あれ?」
検索結果は俺の思っているものとまるで違っていたせいだ。
歌ってみたとか、演奏してみたが、とあるミュージシャンの公式ミュージックPVに混ざっている。
もともと歌だったのをジャズっぽくアレンジした楽譜とCDがジャジーダイニングに置いてあったという話しなら、特に引っかかることは無かったと思う。
でも、俺の眼にはハッキリ映っていた。
――PVの公開日が2014年5月であることを。
「え?」
恐る恐るそのPVページへ行くと、CDの発売日も書いてあった。
それもやはり2014年6月。
「俺が……移植を受けたのは2013年……。香織が死んだのも2013年……」
俺はまだ朝だというのにも関わらず、大慌てで羽田先生に電話をかけた。
呼び出し音が長く感じる。
プツッと言う音がして女の人の声がする。
その瞬間に声が出かかるが、電話に出られないという機械音声に俺はため息をつく。
けど、諦めずにもう一度電話をかける。
迷惑なのは分かっているけど、ここで手を離したら、二度と香織に手が届かない気がしたんだ。
五度目の呼び出し音で羽田先生の声が返ってくる。
「羽田先生! 俺です! 紬博人です!」
「紬さん? どうされました? こんなに朝早くに」
「この前俺が弾いたあの曲! 昔、香織が弾いたのを聞いたんですよね!?」
「え? は、はい。そうですよ。コンクールの二ヶ月くらい前だったかしら」
「あ……」
その言葉を貰った瞬間、力が抜けた俺の手の中からスマホがスルっと滑り落ちた。
床に落ちたスマホがガシャンと音を立て、画面にヒビが走る。
「紬さん、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、ごめんなさい。スマホを落としてしまいました。大丈夫です……」
大丈夫じゃない。空いている手で無理矢理押さえても収まらないくらい手が震えている。
「また数日後、朝早くに電話するかもしれません」
「え?」
「ごめんなさい。今は詳しいことを言えないんですけど、香織のこと、思い出してあげてください」
「分かりました。あなたのお電話を待っています」
先生が目の前にいないのに、俺はありがとうございます、と言いながら頭を下げた。
掴んだ。
細い糸だけど、君に繋がるための道しるべをこの手の中に。
俺は鞄を乱暴に掴むと、全速力で学校に向かって駆けだした。
授業の始まる前の教室で、俺はたった一人を探す。
その人を見つけて、俺は息が切れているのも構わず駆け寄る。
「古手川さん!」
古手川さんも俺に気付いて何か取り出そうとしていたけど、ごめん、今はそれどころじゃないんだ。
「どうしました博人君? すごい汗ですよ?」
「お願いが――ケホッ! ありますっ!」
俺は思いっきり頭を下げる。必要なら土下座だってしよう。
君の願いを見てしまった俺に出来ることなら、なんだってするんだ。
「……分かりました。聞きましょう。ここで良いですか?」
「今日、俺と一緒に自主休講してください。それで俺に楽譜の読み方とピアノの弾き方を教えて下さい! 弾きたい曲があるんです!」
俺の思いついた唯一の作戦を実行するためにも、少しでも時間が欲しい。
「そんな急に言われましても……」
「お願いします! 何でもしますから!」
「博人君、顔をあげてください」
言われるままに俺は顔をあげる。
すると、古手川さんは俺の眼に真っ直ぐ目を合わせてきた。
数秒間、俺と古手川さんは見つめ合っていると、古手川さんが突然俺の手を握った。
「こちらへ」
「え? あ、うん」
古手川さんの予想外の動きに戸惑いつつ、彼女に従って廊下を進む。
そして、誰もいない教室に入ると、入り口から最も遠い窓際まで連れて行かれた。
「ここなら、誰も聞いていませんから」
「古手川さん?」
「香織さんのことですよね?」
「っ!? どうしてそれを!?」
「本人から聞きました。ごめんなさい。既に亡くなっていることも、博人さんの心臓にいることも……」
「あ……」
今になって疲れがドッと来たのか、古手川さんの言葉を聞いて俺はよろめいた。
俺は机に身体を預け、丘にあがってしまった魚のように酸素を求めて口をあける。
「なんで、自分が死んだことに気付いたんだ?」
「ごめんなさい。それだけは教えられないです」
「なんで!?」
「女同士の約束だからです。知りたいのなら、本人に聞いて下さい」
古手川さんは毅然とした態度でそう言った。
言葉だけを聞けば、取り付く島もない冷たい対応に聞こえる。
でも、俺は古手川さんが目に涙を浮かべ、必死にこらえているのを見てしまった。
あぁ、もう、そんな顔されたら聞けないじゃないか。
でも、古手川さんが俺たちの秘密を知っているのなら、逆にありがたい。
「俺は香織を助ける」
「え? だって、香織さんは二年前に」
「そう。二年前に死んでいる。でも、俺は香織と入れ替わっている間、二年前の香織の中にいける」
「それは、ただ単に香織さんの記憶を覗いているだけじゃないんですか?」
そう俺もそう思っていた。でも、違うかも知れない。
「分からない。だから、確かめたいんだ」
「何をですか?」
「あの世界が記憶なのか、過去なのか。俺が確かめてくる」
そのために俺はピアノを弾く必要がある。君の代わりに、君みたいに上手く、君以上に人の心に残るように。
「次の入れ替わりまでに、俺がこの時代の曲を弾けるようになって、過去でみんなの前で演奏する。現代にまた戻ってきたら、聞いてくれた人達に俺の弾いた曲を覚えているか確認するんだ」
「なるほど。そういうことでしたか。今にしかないはずの物が過去にあって、今に残っていたら、夢の世界じゃなくて過去の出来事って証明になりますね」
俺は勝手に、あの世界が夢の世界だと思い込んでいた。
でも、まだそうだと決まった訳じゃない。全ては君と一緒に弾いたあの曲にかかっている。
もしも、あの世界が過去の世界なら、俺は君を救うことが出来る。
いや、俺は何をしてでも君を救い出す。
そのためにも、今は――。
「だから、俺に楽譜の読み方とピアノの弾き方を教えて下さい。香織が一度弾いたことのある曲は弾けると思うけど、初めての曲は分からないから……」
「分かりました。楽譜を起こすのと、読み方については任せて下さい。ピアノはそんなに上手に弾けませんが、出来る限りのお手伝いは致します」
よし、よし! 後は曲選びだ。
古手川さんが香織のことを知っていると言われた時は、どうしようかと思ったけど、仲間になってくれて本当に良かった。
「ですが、条件があります」
「え? 条件?」
「はい、何でもしますって言いましたよね?」
そう言えばそう言った。
でも、どんな条件でも受け入れる。
その覚悟は出来ている。
「私と付き合って下さい」
「……へ?」
「私と恋人になってください」
「それが条件?」
「はい。責任とってください」
どういうことなんだ!?
おい! 香織! お前俺の身体で何しやがった!?
男の子の身体で女の子に何しやがった!?
「お返事は?」
「……ごめん。それだけは出来ない」
いつの間にか覚悟はしぼんでどっかに消えた。
「私にはお付き合いするほどの、魅力はありませんか?」
「古手川さんはすごくかわいいと思う。多分、付き合ったら、みんなに羨ましがられるほど魅力的な人だよ」
「なら、何故ですか?」
「……ごめん」
「それが聞けたら十分です。香織さんを助けてあげてください」
え? あれ? 付き合わないと助けてくれないのかと思ったけど、手伝ってくれるのか?
なら、さっきのは一体どういう?
「あ、でも、振られたので、さっきの代わりに一つだけ教えて下さい」
「分かりました」
またさっきみたいな突拍子もないのが来ると思って、俺は身構える。
「博人さんにとって、香織さんはなんなんですか?」
「んー、そうだなぁ」
香織の心臓に手をあて、自分の胸に尋ねる。
香織がくれたこの命で、俺は生きている。
そういう意味で言えば、香織は俺にとって命の恩人だ。
でも、きっと違う感情も芽生えている。
君と一緒に過ごしたことはないけれど、君の残した色々な物が俺にはあるし、君が見ていた世界も見て来た。
既に死んでいる君とこの世界で出会うことを、俺はとっくに諦めていたけど、この現代まで生きられる可能性が生まれた今、俺の心はきっと――君に恋をしたんだ。
「好きだよ。香織のこと。一人の女の子として」
心臓がトクンと跳ねた。そのまま何処かに飛び出しそうになるほど、何度も何度も跳ねる。
まるで恥ずかしさで転がり回るみたいに、心臓が暴れ出す。
言った俺が恥ずかしいのか、心臓で聞いている君が恥ずかしがっているのかは分からない。
だから、もう一度言ってやる。
「だから、ごめん。やっぱり俺は古手川さんとは付き合えない。俺は香織が好きで、香織と一緒にいたい。香織の笑顔を隣で見たいから」
「それを聞いて安心しました。男女二人きりで間違いがあったら困りますから」
「え!? まさか、俺が何かすると思って、俺を試したの!?」
「ふふ、どうでしょう?」
「ハハハ……」
小悪魔のような素敵な笑みを見せる古手川さんに、俺はただただ笑うしか出来なかった。
そして、同時にホッとしていた。
古手川さんがもう一つ大事なことを見落としていることに。
だって、俺が香織を助けたら、俺の心臓は――消える。




