セッション
喫茶店の後は服を見たり、小物を見たり、うろうろしてからジャジーダイニングに向かった。
中では既に準備が整っているみたいで、店長と泰平君が待ってましたと言わんばかりに奥へと促された。
準備中の店内にお客さんはまだいない。
これなら思う存分リハーサルが出来そうだ。
梓ちゃんがバイオリンの用意をして、私の横に立つ。
「いくよ。梓ちゃん」
「いつでもどうぞ」
私のピアノから曲が始まる。
続けて梓ちゃんのバイオリンが歌い出す。
切なくも美しいバイオリンの歌声に私は聞き惚れて、思わず私の音を梓ちゃんに合わせようと、横目で梓ちゃんの顔を見る。
その瞬間、時が止まったかのように息が止まりかけた。
その顔は真剣そのもので――ただひたすら綺麗だった。
この姿を写真に納めて飾れば、きっと何人もの人を男女問わず引きつけると思う。
けれど、何でだろう? その顔はとても悲しく見えた。
梓ちゃんは博人さんの演奏を見て、どう思ったかはちゃんと覚えているから。楽しそうで、羨ましいって言ったんだ。
「梓ちゃん」
私は思わず手を止めて、声をかけた。
私の突飛な行動にみんなが何だろうと手を止めて、こっちを見る。
「あ、すみません。何か間違いがありましたか?」
「ううん、間違いは全然ないよ。ただ、ちょっと確認しておきたいことがあって」
「なんでしょう?」
「私――じゃなかった。俺に合わせて貰っても良い?」
「えぇ、良いですよ?」
そう言って貰えて、私は曲を始めから弾き直す。
そして、梓ちゃんがバイオリンを弾き始める二小節前、私は声をあげた。
「梓ちゃん、こっち向いて」
「え?」
きょとんとした顔で振り向いた梓ちゃんに、私は目一杯笑ってみせた。
「ここはコンクール会場じゃないよ。ここで弾くのは俺と梓ちゃんだけ。聞いているのも店長と泰平だけだし、ジャズとかジャンルとか関係無く、周りなんて忘れて二人で楽しもう!」
「はい!」
バイオリンが力強い歌声をあげる。
私もその力強さに負けないくらい楽しく鍵盤を叩く。ちゃんと笑って。
「梓ちゃん、こっち向いて」
ピアノソロに入ると、私はノリノリで鍵盤を叩いていた。
あの人みたいに、全身で踊りながら演奏するようにメロディを奏でる。
楽しいね! そう言葉で伝える代わりに音と視線と笑顔で、自分の感情を表現する。
すると、梓ちゃんの身体がうずうずし始めたみたいで、身体が小刻みに動いた。
「踊ろうよ。梓ちゃん!」
「ダンスのリードは男性の役目ですからね?」
「任せてよ」
さらに軽快に、跳ねるように音を出す。
梓ちゃんも合わせて、動き回りながらパッパッと輝くような音を奏でる。
気付いたら私たちは笑顔で好き勝手やっていた。
梓ちゃんのバイオリンが聞きたいから、楽譜を無視してわざとピアノを止めてソロパートを勝手に増やしたり、サビにあたる盛り上がる部分では主旋律の取り合いをしたりした。
まるで子犬がじゃれついて遊び合うかのように、互いに互いのメロディを重ねる。
「楽しいですね。博人君」
「でしょ? 音楽ってこんなに楽しいんだって、あいつが教えてくれたの」
演奏しながら私達は言葉を交わす。
その中、私は先生の言っていた最近変わったという言葉を思い出した。
その意味がやっと分かった。多分、今までの私は梓ちゃんみたいな顔をして、ピアノに向かっていたんだ。
ただ、音を正確に出そうという心構えの上に、間違いが怖くて怯えていたんだ。
けど、私はいつのまにか演奏中に笑うようになった。ううん、違うな。笑って弾きたくなったんだ。
音楽が楽しいって思えるようになったんだ。私の音を聞いて欲しいって思ったんだ。
「あいつ?」
「あー!? えっと、ほら泰平? ここ教えてくれたし」
しまったー!? 夢中になりすぎて変なこと口走った!?
私は焦って、一音外す。けれど、無視して演奏を続ける。
かわりに曲の中に自分のドキドキを解き放つ。
もう、何でまた博人さんのことを思い出すのかなぁ!?
「博人君? どうしたの?」
何で隣にいないのかなあ!?
今、すっごく楽しいんだよ!? 君が隣にいたら絶対もっと楽しくなるのに!
私が君の身体にいたら、君はこの演奏を覚えていてくれないんでしょ!?
身体だけが演奏技術を覚えて、心はこの曲を覚えられないんでしょ!?
そう思ったらドキドキは段々イライラに変わってきて――。
最後の一音を奏で終えると、自分の中で何かが弾けた。
何で、何で! あぁ! もう! 何で!?
私は博人さんを意識しちゃってるの!?
私は……なんで!? なんで……ここにいないの?
「はぁはぁ……ごめん。ちょっとはしゃぎすぎて、喉渇いた……」
校庭を全力で走りきった後のような息苦しさと、心臓の跳ね具合に、私は身体を椅子に投げ出した。
泰平君がおつかれさまと私を労い、冷たい水を手渡してくれる。
私はその水を一気に飲み干すと、長いため息をついた。
喉元は冷えたのに、心臓の近くがとても熱い。
熱でもあるみたいに、顔が火照っている。
「ちょっと外の風に当たりに行きましょうか」
「あ、うん」
そんな私を心配してくれたのか、梓ちゃんが私の手を引いてくれる。
その温もりに、私の心は次第に落ち着きを取り戻し始めた。
カランカランと扉の音が鳴り、夕方の涼しい風が身体を撫でる。
けれど、私の身体は梓ちゃんのせいで、火が点いたみたいに熱くなった。
「誰か好きな人がいるの?」
「へあ!?」
私は反射的に大きな声を出してしまった。