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残された後悔

 いや、でも、まだ事故に遭ったとしか聞いていない。


 俺は何とか気力を振り絞り、ガックリと肩を落としながらも、来た道を戻った。

 そして、フラフラとした足取りで、彼女の通っていた学校のある街へと降りる。


 けれど、俺は学校に向かわなかった。


 俺の身体は香織の通っていた学校とは何の関係もない。香織のことを聞こうとしても教えてくれないだろう。最悪変質者扱いだ。


 だから、代わりにもう一つの場所へと行く。


 香織が通っていたピアノ教室へと。


 そこは二年前と変わらず存在し、まるで俺が来るのを待っているかのように先生が外に立っていた。

 二年前に比べると少しだけふくよかになったけど、見覚えのある女性の先生だ。

 髪の毛を明るい茶色で染め、シュッとした目元のおかげで、かわいいというより美しい人だった。


「羽田先生……ですよね?」

「はい、羽田ですけど、あなたは?」


「あ、俺は……柊、いや、違うか。紬博人です」

「紬さんですか。ピアノにご興味が?」


 いえ、香織さんの件で。とは言い出せず、俺は、はい。ピアノを習いに来ました、と嘘をついた。

 羽田先生は優しくそうですかと微笑むと、俺を家の中に案内してくれる。


 家の中はちょっとだけ変わったけど、俺が香織として来た時とほとんど同じだった。

 あらためて俺はあの子の中にいたんだなーと思ってしまう。

 そして、ピアノを見ると、変な懐かしさを感じて手を伸ばしてしまっていた。


「弾かれますか?」

「いいんですか?」


「えぇ、一度聞いてみて実力を測りたいと思っていましたし」


 羽田先生に促され、俺はピアノの前に腰を下ろす。


「好きな曲を弾いて下さい」


 そう言われて、俺は目を閉じた。

 好きな曲と言われても、俺の弾いたことあるのはあの曲しかない。

 俺は自分の心臓に尋ねるように、弾けるか? と聞いてみた。

 すると、弱々しく動いていたはずの心臓がとくんと音を立て、いつでもどうぞと言わんばかりに、全身に熱い血を押し出していく。


 そして、最初の一音を叩くと、俺の身体はメロディに流されるように動き始めた。


 音の中には楽しい、嬉しい、そして、ちょっとした緊張が混じっている。

 そんな音に俺はくすくすと笑い、もう一度自分に語りかける。


(先生の前だからって緊張すんなよ。俺はお前の演奏が好きなんだから)


 そう言うと、心臓の鼓動がまた一段と強く早くなる。熱い血が顔にも流れ、自分でも分かるほど頬が熱い。きっと顔は真っ赤になっているだろう。

 それに合わせて、ピアノが元気に音を奏で、弾いている自分の身体までウキウキし始める。


(あぁ、香織は本当に音楽が好きなんだな)


 そして、俺は君と一緒に弾けるこの時間が大好きになっていた。

 あの時と同じように、白と黒の鍵盤だけの世界になるまで、俺の意識は曲へとのめり込んでいく。


 ジャジーダイニングで俺が初めて演奏した時、この鍵盤の世界で俺は君の姿を見た。

 鏡越しに自分の入った身体を見るんじゃなくて、俺は紬博人として、君は柊香織として、お互いの演奏する姿を見た。


 あの時の君は、頭の後ろで縛った長い黒髪を踊らせて、大きな目を嬉しそうに細め、血色の良いピンク色の唇をゆるませながら楽しそうにピアノを弾いていた。

 あの時の君は、とても可愛かった。思わず見とれるほどに。


 そんな君の姿がこの曲を弾いている間、また目に映った気がした。

 そして、君は俺に気がつくと、まるで俺には負けないぞというような笑い方をして、一層テンポをあげた。

 大胆なアレンジも混ぜてきた。

 その挑発に、俺も負けじと指を動かす。君において行かれて、君の音が聞こえなくならないように必死に追いかける。


 このままこの時間が無限に続いても良いかもしれない。むしろ、止まってくれても良い。そう願うほど楽しく美しい時間だ。


 でも曲はいつか終わる。

 頭の中に残る楽譜に従い、最後の一音を奏でたピアノの残響が部屋に響く。

 けれども、羽田先生も俺も何も言わず、その残響に浸り続けた。


 それは音が完全に消え去っても、なお続いた。何故か無音になってもその音が続いているような気がして、余韻に浸っていたかったから。

 どれくらい経ったのかは分からない。けれど、その静寂は先生の一言で破られた。


「あなたは誰ですか?」

「俺は……紬博人です」


「そう……ですよね。ごめんなさい、とても懐かしい曲だったので」


 羽田先生の目から涙がこぼれ落ちる。

 その涙の意味を俺は知っていた。

 あぁ、香織のやつ、ちゃんと文化祭に先生呼んだんだって。

 おかげで、俺も決心ついたよ。ルールを破る代償を負う決心が。


「柊香織さんについて……教えて下さい」

「何故あなたがあの子の名前を!?」


「信じられないかもしれませんが……」


 俺は羽田先生に、俺の身に起きた不思議なことを全て打ち明けた。

 とても信じられる話しではない。

 けれど、羽田先生は俺の言うことを一度も否定せず、ただただこちらをじっと見て、何度も頷いた。

 まるで、あの時、俺が香織の中に入って演奏していた曲を聴いた時のように。


「俺の身体には香織さんの心臓と、香織さんの血が流れています」


 トクンと心臓が鳴る。

 まるで俺の言葉を肯定するみたいに。

 そして、俺はこの入れ替わりの原因を前に、治療のルールを破った。


「香織さんは俺の心臓と骨髄の臓器提供者ドナーなんです」

「そう……でしたか。そうですか……。香織があなたの中に……」


 臓器提供者ドナーと提供されたレシピエントは会ってはいけない。

 俺はそのルールを破った。

 俺は彼女に生きていて欲しかった。事故に遭ったけど、実は元気に生きているなんて都合の良い現実を望んでいた。


 けれど、この心臓と血液が彼女のモノだったのなら、それはありえないとも知っていた。


 何故ならそれは、彼女が死んでいることと同義なのだから。


 でも、もう認めないといけない。真実を知った代償として。


「あなたの演奏の中に香織を感じました」

「素人の俺が言うのも変ですけど、俺もです。ピアノを弾いていると、あいつの楽しい気持ちが伝わってきます」


「そうですか。あなたの中の香織は楽しんでいてくれていますか。フフ、本当に良かった」


 羽田先生は寂しそうだけど、ちょっと嬉しそうに微笑んだ。

 その微笑みの意味を、俺はさっきと違ってすぐに理解出来なかった。


「あの子、実はここの中だと、ある日を境に、そんなにピアノを楽しんでいなかったんですよ?」

「え?」


「ふふ、プロになりたいって言って入ってきたから、厳しくし過ぎたのかな。でも、あの子はついてきてくれたから、強い子だなって思っていました」

「そうだったんですか? ちょっと意外かも」


 そうだ。意外なんだ。

 だったら、何で進路調査にプロの演奏者って迷わず書かなかったんだろう?


「ある日、あの子は婿養子を捕まえて家を継ぐなんて古いことはしたくない、家を出たいって言ったことがあったの」

「あー、そういえば、家を出たいって友達にも随分言ってたらしいなぁ」


 有佳の愚痴を何となく思い出す。

 そういえば、母親も男に寛容なのはそのせいか、と妙に納得した。

 でも、それとピアノが嫌いになるってどういうことなんだろう?


「あの子は才能がありました。それこそ、私を楽に超えてプロでもやっていける才能があったと思います」

「それなら、なんで?」


「今更言うとあなたの中の彼女が怒りそうですけれど、香織が交通事故で亡くなった後、ずっと謝りたいって後悔していました」


 羽田先生はそう言うと頭を大きく下げた。


「プロになりたいなら逃げるだけじゃなれない。私はそうあなたに言いました。あなたは家から逃げるためにプロになりたいって言っていたように思えたから。でも、それじゃあ絶対にプロになっても続かない。プロで居続けたいのなら、逃げるんじゃなくて、色々なことに自分から向き合わないといけない。その上で目指して欲しい。そう伝えたかったの」


 その言葉に心臓がとくんと脈を打ち、熱い血が流れる。

 気付けば俺の眼からはポタポタと涙が零れ、頬を暖かい涙が伝っていた。


「ごめんなさい。あなたに直接伝えてあげられなくて、ごめんなさい。ピアノを嫌いになる時間を作っちゃって」


 先生の懺悔に俺の眼からは涙が止めどなく溢れた。

 これはきっと俺の涙ではない。

 俺の中にいる君が涙しているんだ。

 だから、俺はそのまま涙が流れるのを止めなかった。

 身体を君に預けて、先生が頭を撫でてくれるのを君が受け止められるように、俺は自分から少し離れた気持ちでその涙を感じていた。

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