2.お嬢様編
窓から差し込む光に顔が照らされ、目鼻立ちの整ったいかにも育ちの良さそうな女性が目を覚ました。
「今日もはじまってしまったか」
女性らしい柔らかな声でネガティブな言葉を口にすると、体を起こし辺りを見回す。そこには見慣れない家具、見慣れない壁紙、見慣れない天井、見慣れない景色があった。
「んっ、どこだここは。昨日は確か・・・」
女性がふと自分の体に目を向けると、映画の世界で目にしたような透け感のあるヒラヒラしたものを着ていることに気づいた。
「あれ、あれれれ」
胸の膨らみにも気づき慌てたようにペタペタと触り、一通り触り終えると部屋の壁に掛けてある如何にも高級そうなアンティークデザインの鏡に駆け寄った。
鏡に映る前に目を瞑り、一呼吸置いてからゆっくりと鏡を見ると、そこに映る姿は当人が予想だにしていなかったものだった。
「な、なんだこれは」
鏡に映る姿は本来ならば無気力な青年のはずだったが、映ったものは全く違う容姿の整った女性の姿であった。
ブー、ブー
突然ベットの脇のテーブルから聞き慣れたバイブ音が響いた。目を向けると見慣れた携帯電話が震えていて、表示には神の使いのピエロさんと出ていた。女性は一瞬硬直したが、すぐに我に帰り通話ボタンを押した。
「どうですか?どうですか?」
耳もとから戯けた声が響き渡り、不思議なものであたふたしていた女性は落ち着きを取り戻した。
「どうですか?じゃないですよ、なんですかこれは」
「どうですか?どうですか?代わった姿はどうですか?」
女性は呆れながらウンザリしたような口ぶりで答えた。
「ハァ、これが代わるってやつですか」
「そうです、代わるってやつです。今からあなたは一宮玲子、玲子お嬢様ですよ」
「確かにお嬢様だ、性別まで変わるとは驚きだ」
女性は、驚きもあるが呆れ過ぎてか口調も荒くなった。
「あっ、そんな感じでいいですよ。硬いのは抜きにしましょう。硬くなるものついてませんし」
バカにしたような口調で告げてくる電話越しから笑い声が漏れている。
「硬くなるもの?まさか」
女性は下半身に手を伸ばすと、恥ずかしそうに顔が真っ赤に染め上がった。
「ねっ、無かったでしょ」
行動が見えていたかのような言葉にさらに顔を赤くした。
「これどうやった、俺になにをした」
「それは秘密です。あなたは今、完璧に玲子お嬢様の姿になってますよ。部屋にある写真と見比べて見てください」
相変わらず笑い声の漏れてくる携帯から耳を離し、棚に飾ってある写真を手に取り再び鏡の前に立った。
改めて通話姿勢に戻ると、関心した様子で電話の続きを始めた。
「本当だ、姿形まるで一緒だ。顔も体型も声まで変わってる」
「すごいでしょ、すごいでしょ」
ドヤ顔しているのが想像できるような口調でさらに続ける。
「とりあえず1日頑張ってください。困ったことがあったらこちらから電話しますね」
困ったことがあったら掛けたいのは玲子お嬢様の方なのだが、それだけ告げて電話はきれてしまった。
「1日?」
訳のわからないことが続き過ぎて慣れてしまった様だが、1日という言葉が引っかかった。
通話が終わり携帯をもとのテーブルに置くと、見計らったようにドアをノックする音が聞こえた。
「お嬢様、お目覚めになりましたか。朝食の支度が整っております。おいでください」
ドアの奥から聞き覚えのないお婆さんの様な声が聞こえ、とっさに返事をすると声の主はスタスタとドアから離れていった。
「朝飯かぁ、久々にまともなものが食べれるな。」
全身で伸びをしながら改めて鏡に目を向けると、スケスケな布切れ一枚の美女が立っている。
「さすがにこのままはまずいかな」
極度の貧乏生活で服装など気にしたことはないが、環境が変われば別の話である。着替えが入っていそうなタンスやクローゼットを開けるが何をどう着ていいのかわからない様でお嬢様は呆然としてしまった。
ピロン
またもやテーブルの方から音が聞こえ、眺めてみると今度はピエロさんからのメールであった。
『服はこれを着てください笑』
神の使いも笑とか使うのかと感心しつつ視線を上げると、さっきまで寝ていたベットの上に綺麗に服が広げてあり丁寧に下着の付け方の説明書きまで添えてあった。
「丁寧なことで」
ため息をつきつつ、どこかから見られているんじゃないかと辺りを見回したが見える範囲にピエロはいない。気にしててもしょうがないと説明書きを見ながら悪戦苦闘した結果、無事に着替えを終え
仕立ての良いエレガントな柄のワンピースに身を包んだお嬢様が完成した。
本当にお金持ちの家であることが部屋からでて確信に変わった。長い廊下に無数の扉、いったいどこを行けば目的の朝ごはんにたどり着けるのだろうか。玲子はクンクンと辺りを嗅ぎ始め香りを頼りに進みはじめた。
「やっと着いた」
さすがに人間の鼻には限界がある、少々迷ったが及第点だろう。嗅いだことのない魅惑的な香りに誘われ最後の扉を開けると、そこには先ほどの声の主であろうお婆さんメイドとメガネをかけオドオドした若いメイドの姿があった。メイドに案内されるがままに席に着くと、朝食が運ばれてきた。それは久しぶりにみるまともな食べ物どころか、生きてきて初めてみる様な華やかなものだった。装飾の綺麗な大きい皿に乗せられたパンケーキは、沢山のフルーツに彩られていて、上品に添えられた生クリームは見るだけで繊細なことがわかる。何より上乗せされるシロップの香りが食欲を一層引き立てる。他にも綺麗に盛られたサラダや黄金色に輝くスープが用意されており玲子は喉を鳴らした。
「い、いただきます」
メイド2人に見守られながら食事が始まろうとしているが、玲子はパンケーキに伸ばすその手を止め、初めて高級なレストランで食事をするかの様な戸惑いをみせた。
「いかがされましたか、お嬢様」
お婆さんメイドが玲子の様子を気遣うが、余計なお世話だった。玲子は自分がイメージするお嬢様の口調で苦肉の索をとった。
「今日は1人で朝食をとりたいの。ごめんなさいね、お二人とも出て行ってちょうだい」
ポカンとするお婆さんメイドに、より一層アタフタするメガネメイドは「かしこまりました」と返事をし隣の部屋へと姿を消した。
「ふぅ」
やっと一息つけたと姿勢を崩し置いてある水を一気に飲み干すと、待ってましたとばかりに目の前にあるものを平らげた。
「ふぅ、なかなか美味しかったな。」
少し膨れたお腹を摩りながら椅子の背もたれに体を預けると、料理に気を取られていて視界に入らなかった景色が飛び込んできた。
目を引いたのが壁一面を覆う絵画で、宏大な草原を描いたものだ。隅から隅まで眺めると1人の少女が大きな木の下に佇んでいる。それは鏡で見た女性によく似ており、著名な画家にオーダーして描いてもらったのだと想像出来た。もしかしたらお抱えの画家でもいるのかもしれない。絵画の存在感が圧倒的で、高級であろうその他の家具や装飾品が霞んで見えるほどである。少女が描かれた絵画を眺めていると、ノックの音と共にお婆さんメイドの声が聞こえた。
「お嬢様、お食事は済みましたか」
その音と声に驚き、振り子の揺れる時計に目を向けると9時をまわっていた。
何時に食事を始めたかは定かではなかったが、時間が経ってしまったのだろう。
「入ってよろしくてよ」
お嬢様になりきりそう応えると、扉が開きメイド2人が入ってきた。
「食後に紅茶はいかがですか」
お婆さんメイドは尋ねると同時に、あらかじめ用意していたティーセットを鮮やかな所作で並べ、茶渋ひとつないカップへと紅茶を注ぎはじめた。玲子お嬢様は食後に紅茶を飲むのが習慣なのだろう、返事を待たずに心地の良い香りの紅茶が目の前に運ばれた。
相変わらずメガネメイドはオドオドして縮こまっている。カップに手をかけ口に含むとさらに濃厚な香りが鼻を抜け清々しい気分になったが、その気分を振り払うような重苦しい雰囲気でお婆さんメイドが口を開いた。
「お嬢様、本日はご指示通りに予定をすべてキャンセルいたしました。何をなされるかは存じませんが、外出されるのであれば必ず誰かをお連れください。くれぐれも1人で出歩かれることのないように」
彼女はメイドとは思えない威圧感でピリピリと空気を刺激している。威圧感に怯えると同時に、玲子お嬢様が何を目的として指示を出したのかが検討も付かず視線を下げることしかできなかった。
廊下を戻り、目覚めた部屋に辿り着いた。お嬢様は長い廊下を歩いている途中、自身のことを考えていた。
「仕組みはわからないが、どうやら玲子と言うお嬢様になっているらしい。俺の体が作り変えられたのか、あるいは・・・・・・」
そんなことを呪文のように唱え続け、気がつくと目覚めた部屋の前に着いていたのだ。
食事をした部屋に行くときは迷ったが、無意識に歩いていたらすんなりと着いてしまった。扉を開き部屋に入ると、またもタイミング良く置きっ放しの携帯電話が震え出した。駆け寄るとやはりピエロからのメールで、引き出しを開けよとのことだった。引き出しを探そうと部屋を見渡し、最初に目に付いた机の上段の引き出しを開いてみた。
「手帳? 日記か? 」
そこには、整理された筆記用具と一冊のなにかが入っているだけだった。他人のものを覗くのは良くないと思いながらも、つい手が伸びてしまう。ハードカバーに保護されたそれを開くとビッシリとメモされたスケジュール帳だった。ページをめくり続けていたが、あるところで手が止まった。他のページにはない赤色で日付に丸がついていたからである。その日付のメモ欄に目をやると英語らしきものが記入されていた。
「プ、プラリー? プライリーか? 」
Prairieと書かれた文字を読むことができず、何度もトライするがどれもしっくりこない。困ったときにはピエロから連絡がくるはずなのだが、携帯に反応はない。このメモは関係ないのかとスケジュール帳から目を離し机の上を見ると、あからさまに英語辞典が置かれている。ピエロの力はどんな仕組みになっているのだろうか、そんなことを考えつつ辞典のPrairieの欄を開くとプレーリーと読むのだとわかった。さらに説明書きを読んでみると北米に存在する大きな草原らしい。だが、なぜ外国の草原? このメモはなんなのかと頭を悩ませていると、先ほどの部屋で観た絵画がふと思い浮かんだ。
「もしかして、描かれていた場所か」