オプション
……ここはどこだ。
目が覚めて、最初に視界に入ってきたのは、見たことのない天井だった。
「おはようございます。気分はいかがですか」
自分のものではない、窮屈で寝心地の悪いベッドから身体を起こすと、どこかからそんな声が聞こえる。
うっすらとグレーに染まった天井。
等間隔に埋め込まれた真っ白い照明。
ベッドの他には何もない空間の四方を囲う、打ち放しの硬質なコンクリート。
その一辺に設えられた、小さな扉。
「なに、これ」
どこかから聞こえてきた声に返事をするつもりでもなく、そんなことをぼんやりとした頭で呟いた。
間違っても私の部屋ではない。私の部屋だってたくさんの物が溢れているわけではないけれど、さすがにここまで殺風景ではない。
昨日の夜、寝る前の行動を思い起こそうとした私の思考を遮るように、また出所不明の声が部屋に響く。
「ここは、とある研究機関の実験施設です」
「……は?」
どこから声がするのか。部屋のなかを見回してみてもスピーカーのようなものはないし、壁や天井に埋め込まれているんだったら私には分からない。誰に向けて声を出せばいいのかわからなくて、私はベッドの上で上半身を起こしたまま、なんとなく床に目を落とす。
「どういうこと?誘拐?」
「違います。実験に参加していただくだけです。事前に登録なさいましたよね」
謎の声は、柔らかく、それでいて有無を言わせない口調で続けた。
「あなたは、二◯一五年七月十日に登録されています。日本精神倫理調査研究機構の選択実験です」
「あぁ……」
たしか、当時登録していた人材派遣会社に紹介された胡散臭い法人の仕事だ。参加すると三十万円もらえるとかいう話だったけれど、詐欺か何かとしか思えなかったし、派遣会社を通じて登録はされたみたいだけれど実際に呼ばれることはなかったから、すっかり忘れていた。
「悪いけど、私はそんなものに参加するつもりないわ」
口にしてから、うっかり言葉使いが乱暴になっていると気づく。顔も見えないし、誘拐みたいな形で変な部屋に連れてこられたのだから下手に出る意味もないけれど。
何にしろ、登録されているのは事実らしい。しかし、私が自分の手で契約書にサインした記憶はない。その上、ここに連れてこられたのだって私の意志ではない。
「早く家に帰してちょうだい」
これでは監禁だ。どれくらいの大きさの法人かは知らないけれど、立派な犯罪である。
このまま帰さないつもりなら、警察に連絡するとでも言って脅しをかけようかと思ったとき、謎の声が言った。
「それでは、実験を始めさせていただきます」
「はぁ?何言ってるのよ。私は……」
「それでは、実験を始めさせていただきます」
顔も見えない、どこから聞こえるのかも分からないその声は、私が何を言っても意に介さないように、機械的な平坦さで同じ言葉を繰り返す。
「それでは、実験を始めさせていただきます」
「……気持ち悪いわね」
「それでは、実験を始めさせていただきます」
正直、不気味だ。
言葉は通じても、話が通じない。
このまま文句を言っていても、きっと状況は変わらない。
「早くしなさい。何をすればいいの」
実際とやらに付き合って、さっさと終わらせてしまえばいい。
私がベッドから降りると、壁に設えられた扉が、小さな音を立てて開いた。
「どうぞ、こちらへ」
ーーー
扉をくぐると、先ほどより広い部屋に出た。
ここにも相変わらず何もなくて、全体的にグレーの空間をぼんやりと照らす白い照明が、向こう側にある小さな扉を浮かび上がらせている。
扉は、ふたつ。
片方には、虫だろうか。分割された身体に、節のある脚が六本ついた黒いシルエットが描かれている。
もう片方には、ネズミのようなシルエットだ。
「……これが、何?」
虫もネズミも好きではない。
何の意味があるのか分からないので、私はまたどこを見るでもなく声をだす。
「どうすればいいわけ?」
すると、声が機械的に部屋の空気を震わせる。
「お好きな方へどうぞ」
お好きな方へ。
入れ、ということだろうか。
「……開けたらこの絵のやつがいるとか、そういうのだったらもう続けないわよ」
「そんなことはございません。どうぞ安心して、好きな方の扉を選んで下さい」
宥めるような言葉でも、安心させようという気持ちがまるで篭っていない声。こんな声を聞かされるのはうんざりしてきたので、私はその声には返事をせずに、ネズミの扉に手をかけた。
小動物なら、虫よりはマシだ。
ーーー
次の部屋も同じくふたつの扉があった。
片方には、先ほどと同じくネズミ。
もう片方には、トカゲのようなシルエット。
「……また、好きな方?」
「お好きな方へどうぞ」
私は、またネズミの扉を開く。
先ほどの扉が虫かトカゲだったらどうしていただろう、なんてことを考えながら扉をくぐると、その先にはまたふたつの扉だ。
片方には、三度目のネズミ。
片方には、猫。
私は、迷うことなく猫を選ぶ。
すると、次の部屋には猫と犬だ。
「……何か意味あるの?これ」
無駄とは思いつつ、文句に近い声を出す。
「お好きな方へどうぞ」
返ってくるのは、予想通りの言葉。
いつになったら終わるのだろう。
「犬より猫よ、私は」
犬は吠えるから嫌いだ。
猫の扉に手をかける。
開けると、また部屋が広がっていた。
ーーー
今度は、猫のシルエットと人間のシルエットだった。
「なるほどね」
だんだん分かってきた。こうして選択させていって、私が最終的に何を残すのかを調べるのだ。精神倫理調査ナントカ、と言っている団体だから、きっと私がここで人間を選んだら、次はお金か何かとの二択を迫るに違いない。
「浅はかな実験だこと」
馬鹿馬鹿しい。
結局、こんな胡散臭い団体のやることなんて、何の意味もない、ただの自己満足のような結果しか得られない実験だ。もともと最後に選ぶものは決まっている。お金よりも人間を選んで、めでたしめでたしといったところだろう。
私はそんな気持ちの悪い実験を手伝ってやるつもりなんてないけれど、こうなってくると終わりも見えてきた。
「お好きな方へどうぞ」
謎の声もこう言っていることだし、私は好きな方の扉の前へと進む。
「人間、を選ぶわ」
私の読みが正しければ、この先には人間と、あと何か別のそれらしいものが描かれた扉があるはず。そこからさらに似たようなことを繰り返せば、あと数回で終わるはずだ。
ーーー
思った通り、今度の部屋には、人間のシルエットと、¥のマークが描かれた扉があった。
「ほら見なさい、馬鹿馬鹿しい」
お金よりも大切なものがある。
そんな感じのことを証明する実験なんだろう。
この胡散臭い実験を主催している誰かさんの自己満足のために、どうして私がこんなことをさせられているのか。だんだん腹が立ってきた。
「……お金の方が好きよ」
早く終わらせて帰りたい。
けれど、一度くらいは相手の望んでいない選択肢を選んでやりたくなって、私はお金の扉を開けた。
ーーー
新たに現れた扉を前にして、私は息を呑む。
「……何よ、これ」
今度の扉もふたつ。
片方は、お金。
片方は、私の恋人の顔写真が貼り付けてあった。
「趣味が悪いわね。何これ、調べたっていうの?」
私をこの実験に参加させるにあたって、プライベートなことを調査したんだろうか。
「あんたたち、常識とかモラルとかないわけ?精神倫理って何よ、ふざけてるの?」
こんな覗き見みたいなことをしている連中が、どの面で倫理がどうこうと調査するというのか。
いきなり知らないところへ連れてこられた挙句にこれだ。終わったら絶対に警察へ通報してやる。しかし、私がいくら文句を言ったところで、謎の声は同じことしか言わない。
「お好きな方へどうぞ」
「……馬鹿馬鹿しい」
さっさと帰りたいけれど、ここで連中の思惑通りの扉を選んでさっさと終わらせるのも、気に入らない。
私は先ほどと同じく、お金の扉を開ける。
「残念でした。私が選ぶのはこっち」
ーーー
次に現れたのは、お金の扉と、私の両親の写真が貼り付けられた扉。
もう、文句を言う気もしない。
「親より金よ」
こんな連中のために、私は親を金で売る。
強要されたわけでもないのに、自然とそう呟いていた。
誘拐同然に連れてこられた部屋、扉をくぐり続けるだけの実験、家族や恋人の写真。
異常なシチュエーションのせいで、私はそれに抗うことばかり考えている。
「そろそろ終わりにしなさい。うんざりだわ」
私はどこかで見ているであろう誰かに向けて言いながら、お金の扉を開けた。
ーーー
「お疲れ様でした。これで最後です」
部屋に入った瞬間、そんな声がする。
「そう。何よりだわ。それで最後は……」
いい加減に返事をしながら、最後と言われた扉を視界に入れる。
お金と、私だった。
「……なるほどね」
ここまでさせておいて、最後の問いが陳腐すぎる。
結局、何をどうしても最後には人間を選ばせたいらしい。
お金がいくらあったところで、私が存在しなければ私にとってのお金は意味のないものになるからだ。
「馬鹿みたい」
うんざりしつつ、これで最後だからと自分に言い聞かせ、扉に手をかける。
ーーー
最後の扉を開けると、そこからはまっすぐ細い廊下が伸びていた。
少し、冷える。
謎の声も、何も言わない。
「どうすればいいわけ?」
意味が分からず、一歩進む。
それから、また一歩。
もう一歩進んだところで、背後の扉が閉まった。
進め、ということらしい。
「……馬鹿にしやがって」
込み上げてくる怒りを抑えながら、細い廊下を進む。
十メートルくらい進むごとに、道が広くなっていく。
幅が二メートルくらいになってきたところで、私は背中に嫌な汗が流れるのを自覚した。
ぼんやりとした照明に照らされて、足元に虫の死骸が転がっているのが見えたからだ。
そのまま目線を先の方に投げると、小さなトカゲがひっくり返っている。
声を上げそうになるのを我慢して、それでも進む。
戻れない。
ネズミの死骸。
犬の死骸。
猫。
それから……。
「何よ、何よ……おかしいわ、こんなの」
誰か、人間が死んでいる。
きっと、私が選ばなかった方が、死んでいる。
ということは、きっと……。
いつのまにか、長い廊下が終わっていた。
そこに現れた大きな扉。
私は震える手で扉を開ける。
ーーー
「……どうして」
真っ白な部屋。
大きな椅子があって、そこへ縛り付けられるようにして座っている、誰か。
うなだれた首元から、赤黒い液体がとめどなく流れている。
「そんな……嫌よ、どうして……」
人間の次に、私が選ばなかったもの。
跪いて声をかけても、私の恋人は応えない。
「あなたにとって、それは必要ではない。そうでしょう?」
「ふざけるな!人殺し!」
どこかから流れてくる声に、私は自分でも驚くくらいの大声をぶつけた。
「何でよ!何でこんなことするの……」
いくら声をかけても、身体に触れても、私の恋人は動かない。
そして、この部屋にはもうひとつ扉がある。
私が選ばなかったものが、きっとあの向こうでは殺されている。
「両親も殺したのね」
「あなたにとって、それは必要ではない」
声はまた、同じ言葉を繰り返す。
それが、どうしようもなく私の神経を逆撫でる。
「……必要ない?」
必要ないから、選ばなかった。
そんな風な言い方だ。
「好きな方って言ったじゃない。必要か必要ないかで選んでないわよ、あの場でなんとなく選んだだけ。殺されるなら、お金なんて選ばなかった。必要かどうかで言ったら、私にはお金よりこの人が必要なの。それなのに……」
「あなたにとって、それは必要ではない」
結局、同じ言葉の繰り返し。
直後、きっと両親が死んでいるであろう部屋の扉が、音を立てて開いた。
「ねぇ、もう見せなくていいわよ。どうせ死んでるんでしょう?」
恋人の足元に座り込んだままそう呟きつつ、新たな気配に気づく。
両親の死体がある部屋から、誰か入ってきた。
足音が近づいてくる。
「あなたにとって、それは必要ではない」
また、あの声。
それとは別に、一歩ずつ、確実に接近してくる、誰か。
「……嫌よ、嫌。ねぇ、どうしてこんなことするの」
重大な事実に思い至り、私はその場から逃げようとする。
しかし、足に力が入らない。
「あなたにとって、それは必要ではない。そうでしょう?」
足音が近づいてくる。
「嫌!来ないで!やめて!」
恋人の身体の陰から、マスクのようなもので顔を覆った何かが現れる。
「やめて!助けて!」
「あなたにとって、それは必要ではない」
「嫌ぁ!」
逃げたくても、身体が言うことを聞かない。
マスクの人物が、腕を振り上げる。
その手には、大きな鉈。
血でべったり汚れている。
きっと、恋人と両親のものだ。
私が選ばなかった、恋人と両親。
お金と天秤にかけて、お金をとった。
お金に負けたものが三つ。
恋人と両親と、私。
マスクの人物が私の顔の前で鉈をゆっくりと横薙ぎに払う。
すると、視界の下の方から、真っ赤な液体が噴水のように噴き出してきた。
お金の方が大事。
私にとって、お金よりも必要でないもの。
最後に選ばなかった、私。
急激な耳鳴りの向こうから、誰かの声がする。
「以上で実験を終わります。ご協力ありがとうございました」
おしまい