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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

伯爵令嬢は、霊感持ち。

作者: かざなみ

 ベルトゥーナ家伯爵令嬢、ジェシカ・ベルトゥーナ。柔和な雰囲気を持ち、読書や刺繍を好む大人しげな少女。

 そんな彼女は時折、常識から外れた言動を取ることがあった。これは家族さえ知らないことなのだが、ジェシカは物心ついた頃から死者の霊を見ることが出来たのだ。


 彼女は少々、残念な子と言うやつだった。


 ――あまりに霊感が強すぎるために死者の姿がはっきりと見えてしまい、生者との区別がつかず、それゆえに自分に霊感があると言うことを知らずに育ってきたのだ。


 ◇◇◇


「ジェシカ! ジェシカはいるか!?」


 昼休みの時間。自分の教室で一人席に座り、恋愛小説の世界に浸かっていたジェシカは突如大声で自分の名前を呼ばれたため、意識を半ば強引に現実へと引き戻されることとなった。乱暴に扉を開け、騒がしく教室に入ってきたのはひとりの男子生徒。


 彼の名前はゼノールド。この国の第二王子である。


 突然の王子の訪問に教室内にいたクラスメイトがざわめき立つ。


「ゼノールド先輩、うるさいですよ。静かにしてください。それでどうかしたのですか?」


 名を呼ばれたジェシカは何食わぬ表情のままゼノールドを窘めた後に訊いた。


 王子に対してのジェシカのぞんざいな対応に、更にどよめく周囲である。


 平凡だが、時折奇行に走るゆえ悪い意味で目立ち、クラス内で浮いた存在であったジェシカが女子の憧れの的であるゼノールド第二王子とどういったわけか親しくしているように見えるのだ。気がつけば、各々の会話が中断され、教室は静まりかえっていた。一体、二人はどのような関係なのか、と好奇心に満ちた者たちが二人の会話を逃すまいと耳を傾ける。


 実はジェシカとゼノールドは図書館の利用の際に何度も面識があり、先輩と後輩の間柄ながら意気投合したため、お互い砕けた振る舞いをしていた。だがしかし、ジェシカは彼を王子だとは知らずに接していた。学年が違うため、彼とは人の少ない図書館でしか会う機会がなかったからである。それと、どうしてか他人と親しくしようにも、話しかける度に困惑され、運悪く毎度のように用事を思い出されて会話を中断されるため、中々心を打ち解けられる人がいなかったことも大きい。そのため他人との大体の会話は義務的なものばかりで、今のところ彼女の友人はゼノールドだけだった。


 ゼノールドは呼吸を荒げ、肩を上下させていた。見れば髪が乱れている。おそらく急ぎ走ってきたのだろう。

 常に凛然とした立ち振舞いの彼であったため、現在の取り乱した様子は物珍しく、どう見ても只事ではない。一体何があったのか。自然と周囲の注目が二人へと集まっていた。


「……ほ、本当なのか……?」


 まさかの質問を質問で返してくるゼノールド。


「えっと……何がでしょう?」


「……そ……れ、は……」


 言葉を発しようとするも、しかし荒立った息と共に吐き出されるゼノールドの言葉はいまいち要領を得なかった。


「落ち着いて下さいゼノールド先輩。とにかく一度深呼吸でもして息を整えてください。詳しい説明はそのあとでお願いします」


 ジェシカに言われて息を整えた後、ゼノールドはこう切り出した。


「君はエリアーゼ嬢と面識があるか?」


「エリーゼ嬢とは、もしかしてエリアーゼ・デルフィネル様のことですか? いいえ、一度もありませんが」


 他人との交友関係がほとんどないジェシカでも彼女の評判は小耳に挟んだことがある。百合の花のような可憐で、儚げな美しさを持つとうたわれるエリアーゼ・デルフィネル男爵令嬢。詳しくは知らないが、確か、上の学年の第二王子と恋仲だとか何とか。


「……これはエリアーゼ嬢から聞いた話だ。俺は信じてはいないが……単刀直入に聞く。君は俺に数々の嫌がらせをした挙げ句、最終的に殺そうとしたのか?」


 何を言ってるんだ、この先輩は。ゼノールドの突拍子もない発言にジェシカは思わず眉をひそめる。


「はあ、私がですか? なぜそのようなことをする必要があるのです」


 間違ってもそんな愚かなことはしない。ジェシカの友はゼノールドだけなのだ。学園でぼっちになってしまうではないか。


 本人の口から直接聞けて安堵したようで、ほっと胸を撫で下ろすゼノールド。


「そ、そうか……良かった! 時々君はおかしな行動に出たりもするが、本当に俺を殺そうとするわけが……」


「――いいえ、嘘はいけませんよ」


 ゼノールドの言葉を遮るようにして涼しげな女の声が飛んできた。


 こつこつこつと、複数の革靴の足音が廊下から聞こえ、こちらに次第に近づいてくる。


 そして足音は教室の前で止まると数人の取り巻きと共に、一つの人影がゼノールドの背後からひょっこりと顔を出した。


「え……?」


 その人物にジェシカは訝しげな視線を向けることとなった。


 何故なら、教室の扉のすぐ前に立つゼノールドの背後から現れ、彼の隣に己の存在を誇示するようにして立ったのは――無駄な贅肉だらけのだらしない体に頭部が寂しくなった中年の男性――そう、おっさん。おっさんなのだ。意味の分からないことに見知らぬおっさんがそこにいたのだ。場違いにも程がある。

 もしや教師かと思うも、その予想は次の彼の言葉で裏切られる形となる。


「エリアーゼ嬢……俺は確かについて来るなと言ったはずだ」


 ゼノールドが謎のおっさんに話しかけた。


 ――どういうことなんだ、一体。


 おかしなことにエリアーゼと呼ばれた人物の姿は紛うことなく、おっさんだった。


「ご機嫌よう、ジェシカ様」


 おっさんが喋った。しかも小鳥の囀ずり声のような愛らしい声で、だ。


 見ず知らずのおっさんに声をかけられ、ジェシカは戦慄する。


 何ということだ。巷でよく噂される美少女令嬢様の実の姿はおっさんだったのか! ……なるほどそうか、全然知らなったなあ、と。


 ……まあ、「おっさんがお嬢様」などという、そんな血迷ったことあるわけがないのだが、ジェシカは完全にエリアーゼ嬢がおっさんなのだと、瞬時にそう思い込んでしまっていた。「おっさん令嬢」という例え、誰もが疑問を叩き付けるような信じがたい状況下であっても、それをジェシカが驚きつつも簡単に受け入れてしまったのは幼少より不可思議なものを見続けてきたために、どんな非現実的なことがあっても「そういうもの」なのだと受け入れるようになってしまっていたからなのだが、そのことについてジェシカに指摘する者は現れないだろう。何故なら、現在のおっさん含めたそれらはジェシカにしか(・・・・・)見えていないのだから。


 何を隠そう、このおっさん、幽霊なのだ。


 そして実際はおっさんの、数歩後ろに引いた位置に本物のエリアーゼ嬢がいるのだが、ジェシカからは彼女の小柄な姿がおっさんのその弛みきった体に隠れてしまっていてまったく見えなかった。不運にも、ゼノールド(・・・)取り憑いている(・・・・・)ために彼から離れなれないおっさんが廊下で道行く女子生徒を眺めて暇を潰していたところ、突如美少女を先頭にした物々しい集団がこちらに押し寄せてきた。その只ならぬ空気に圧迫されたおっさんはたまらず教室の中に入ってしまい、ジェシカから見て縦列におっさんとエリアーゼの二人の姿が重なってしまったのだ。これぞ神の悪戯である。


 突如登場した謎のおっさん令嬢をまじまじと見つめながら、ジェシカは内心首を傾げる。

 酷いと思うかもしれないが……このおっさんのどこをどう見たら可憐だと表現できるのだろうか。もしや、外見ではなく内面を言っているのだろうか。おそらく意外と純情な乙女なのだろう、うん、きっと。そう思いながら、初対面なので席から立ち上がり、「はじめまして」と一言挨拶をばと歩み寄ろうとすると――


(うっ!)


 反射的に口元を覆う。驚くべきことにおっさんの体から放たれたおっさん臭がジェシカを襲ったのだ。本来なら、憑りつかれているゼノールド以外には感知できない代物だったのだが、不運にも霊感持ちのジェシカには臭いを感じ取ることができてしまった。そして、なまじ霊感が強いだけに感じ取れる臭いの強さもひとしおである。


 これはあれだ、そう、お父さんの臭いを数十倍も濃くした感じだ。年頃の娘にはキツいヤツだ、と。肉体を滅びてもなお、魂にまで染みついたおっさん臭は年頃の娘が抱える嫌悪感も合わさり、ジェシカにとっては最早、兵器も同然であると言えた。


 やっぱ、おっさんじゃん! お父さんみたいに臭くて汚いおっさんじゃん!! と、ジェシカは内心文句を言い、半ば不可抗力により挨拶を諦めることとなった。


「……君たちは知り合いなのか」


「ええ、そうです。それは彼女の反応を見ても明らかでしょう」


 両手で口元を隠すジェシカ。確かに今の彼女の姿は、エリアーゼの姿を見てハッと息を飲んだのだという風にも見えなくもない。しかし実際、覆っているのは口ではなく鼻である。人前で大っぴらに鼻をつまむのを彼女の理性が咎めたがために妥協点として顔の下半分を隠す形となっただけなのだが、


「どういうことだ、ジェシカ、君は俺に嘘を吐いたのか……?」


 ゼノールドは、エリアーゼの言葉の通りに捉えてしまった。


 何か喋らなければと、ジェシカは口を開こうとするが、けほけほ、と運悪くおっさん臭に咽てしまい、到底喋れそうもない。


「騙されてはいけませんよ、ゼノールド様。この女は、女狐です。あなたに近付いたのも、すべてはあなたを亡き者にするためなのです」


 元よりジェシカにまともに発言させる気は毛頭ないのだろう。自分のペースに巻き込もうと、エリアーゼは矢継ぎ早に口を動かし続ける。


「彼女はあなたを嵌めようとしているのです。近頃、ご自分の身に次々と起こっている異変はそのためなのですよ」


「馬鹿な……そんなはずはない! 彼女が……ジェシカが、俺にあんなことをするはずが……」


 エリアーゼの言葉にゼノールドは狼狽える。

 だが、なぜかおっさんは素知らぬ顔で鼻を穿り始めた。おそらく立ち話の上、長話になりそうだと踏んだため、暇を持て余してしまったのだろう。


「お気持ちは痛いほどわかります。しかし、それならなぜ彼女は人気のない図書館であなたに接触してきたのでしょう。ゼノールド様が他人と接するのに嫌気が差していたところに取り入ろうと狙ったのではありませんか。おそらく彼女があなたと人気の少ない図書館でだけ会っていたのも自分の存在を印象付けるためです」


 そう言ってどこ吹く風かというように大きく欠伸をする。言葉と行動がちぐはぐすぎて彼女から同情の念がまったく浮かんでこない。


「それでは、俺がおっさん臭くなったのはジェシカのせいだと言うのか!? 夜寝ている時に不意におっさん臭くて飛び起きて、このところ寝不足になっているそれもジェシカのせいだというのか!?」


「ええ、そうです。彼女は対象の命を徐々に削る黒魔術をゼノールド様に行使したのです。おっさ――ごほん、オジさまの霊を対象者に取り憑かせる禁断の術を」


 何食わぬ顔でピューピューと口笛を披露するおっさん。吹いても吸っても音が鳴る妙技である。

 そのせいで二人の様子はジェシカから見て、まるで緊迫感を感じない。


 ジェシカは知らぬ間に二人羽織らしき光景を見せられていた。エリアーゼとおっさんという組み合わせからなる、そのまったく噛み合わない奇怪な言動を見せつけれて、当然ジェシカはそちらに気を取られ、緊迫した様子の二人の会話を聞き逃していた。ちなみにこれまでのやり取りも忘却の彼方である。


 ジェシカが話を聞いていないとは露知らず二人の会話は続く。


「なぜそんなことを……」


「私には分かりません。おそらく殺してしまいたいほどにあなたの存在が邪魔だったのでしょう。とにかく詳しい理由は彼女を逮捕したあとにじっくりと聞けます」


 ゼノールドは王子の一人として生を受けた。高い地位と、その持って生まれた美貌ゆえ異性からは毎日のように黄色い声を投げつけられ、同性からは何かしらのおこぼれに与ろうと擦りよられ、気の休まる日などなかった。


 逃げるようにして人気の少ない図書館に初めて訪れた日、その時彼女に出会ったのだ。


 彼女は、自分を自分として接してくれる。

 彼女なら、自分を裏切らない。


 彼は信じていた。


 疲弊した己の心を癒し、心の底から通じ会える存在に出会えたのだと。だが、それは偽りの存在かもしれない。


 彼は信じたかった。


 しかし、エリアーゼの言葉を聞くうちに、無情にも自身の意思に反してゼノールドの心は揺れてしまった。


「……俺にはもう……分からない」


 ゼノールドは目を伏せ力なさげに肩を落とす。


「ジェシカ様、何か仰ってはどうかしら?」


 ジェシカはというと、おっさん臭がどういうわけか目に来た。ジェシカの目から不意に涙がこぼれる。


「泣いたところで無駄ですよ、悪あがきをしたところであなたの罪は軽くはなりません」


 不審な態度を取り続けるおっさんのせいでジェシカは、エリアーゼの発言をまったく聞いていなかった。幸か不幸か、彼女の顔の位置的にはエリアーゼに視線が向いているように見えなくもないため、ジェシカが話を聞いているものと思って言葉を発してばかりいたエリアーゼだったが、自分が糾弾されているにもかかわらず、憤るのでもショックを受けるでもなく歯牙にもかけていないようなジェシカの態度から、ようやくジェシカの注意が散漫であるのに気が付く。

 どうやら責め立てられている当の本人は、人の話を聞く気など微塵もないらしい。許せるものではなかった。


 思わず激高したエリアーゼは叫ぶ。


「先程から何ですか、その態度は。曲がりなりにも貴族の端くれであると言う自覚があるのなら、このような公の場でそのふざけた態度を止めなさい!」


 非難の声を上げるエリアーゼ。それに対し、ジェシカは思った。


 お前が言うな。


 一見、言葉は――話をよく聞いていなかったため、よく分からないが、多分――真面目なのだが、鼻を穿ったり、盛大に欠伸をしたり、口笛吹き出したり、先程からふざけた態度しかとっていない。しかもそのエリアーゼを咎める者は誰もいないときた。有名人だからといって、自分の所業を棚上げして許されるとでも思っているのか。それに、自分が気をとられた原因はそちらの不審な動きのせいなのだ。それで怒鳴られるとは、理不尽の極みである。

 腹のそこからふつふつと怒りが込み上げてくる。いいだろう、それならこちらだって文句の一つぐらい言ってやろうではないか。


 自身を悩ますおっさん臭のことも忘れて、ジェシカは口を開いた。


「それはこちらの台詞です。なぜ誰もあなたを咎めないのか不思議でなりません。先程からのあなたの言動は目に余るものがあります。敢えて指摘するのは避けますが、一言言わせて貰います。――はしたない。恥を知りなさい」


「な、何ですって……!」


 おっさんは顔を歪め、わなわなと体を震わせている。


 しまった、言い過ぎたか。そう思うも啖呵を切った手前、簡単に発言を撤回するわけにはいかない。


『かァ~、ペッ!』


 違った。ただ痰が喉にからまっていただけだったようだ。ああ、よかったとエリアーゼが気落ちせずに済んだことを喜び、胸を撫で下ろすジェシカである。


 ちなみに、ある意味とばっちりと言えなくもないが、まあ実際のところ、思わぬ反撃をくらった本物のエリアーゼ嬢は羞恥にわなわなと体を震わせていたわけなのだが、それをジェシカは知る由もない。


 しかし、あれだ、とジェシカは思う。一旦、冷静になって目の前の二人を観察してみれば、ゼノールドの側にぴったりと寄り添うようして立つエリアーゼ(おっさん)。まるでゼノールドのことを慕っているように見えなくもない。

 なんだ、このおっさん健気か。これまでの彼女の発言はおそらく、嫉妬や、やきもちの類いか、もしくは痴話喧嘩か何かだったのだろう。そう考えると、微笑ましく感じる。そういえば第二王子との噂は一体何だったのかという疑問はあるが、こう二人が仲睦まじく並び、先ほどから仲の良い会話を見せられているのだ。所詮、噂は噂でしかないのだろう。そう今、この瞬間が真実なのだ。

 ゼノールドは自分の学園でたった一人の友人である、その彼に男色の趣味があったことは多少驚いたし、悲しい気持ちにもなったが、そのために異性である自分と親しくなれたのだろうから、友人が男色家であったことを感謝すべきである。

 それに門出を祝福するのもまた友人の務めである。この国では同性婚が認められていたかどうかは詳しくないためよく分からないが、もし式を挙げるのなら、その際大いに祝ってやろう。


(豪華な料理、出るといいな)


 ……このように学園内で他者との交流関係が乏しく学園内の事情に疎い上、会話の内容をまったく理解していないことも合わさり、自分が今、あらぬ罪の濡れ衣を着せられているとは微塵も思っておらず、明後日のことを考える救いようのないジェシカである。


「さっさとあなたの罪を告白なさい! どうせ、あなたの有罪は確定しているのだから懺悔のひとつでもすればいいわ!」


 ジェシカから謗りを受け、屈辱の極みだと、エリアーゼは憤慨する。


「頼むジェシカ。教えてくれ、本当のことを。君の気持ちを……」


 真摯に懇願するゼノールド。


『ゴクリ……』


 そして、話の行方を固唾を飲んで見守る周囲の人間たち。


 それらを見て、ジェシカは疑問に思った。


 どうして、皆この悪臭に何のアクションも起こさないのだ。もしや、自分を除くこの場の全員が、何もないかのように振る舞える強靭な精神でも持ち合わせているのだろうか。化け物か、こいつら。


 というか、おっさん臭について気を紛らわせるにはもう、限界が近付いてきた。


 あ、どうしよう、これやばい。


 ……もしかしたら……吐くかも……。


 事態は急を要した。たまらず、ジェシカは言い放つ。


「ゼノールド先輩、私はもう、我慢ならないんです……!」


 おっさんの体臭があまりにひどくて鼻が曲がりそうだったのだ。嘔吐きそうになるのをこらえながら、そのまま一目散にトイレに駆け込むため、ジェシカは一歩二歩と横に退く。


「これ以上、近寄らないでください……」


「っ、ジェシカ……!」


 一方、ゼノールドはジェシカの言葉から何か壮絶で壮大な彼女の身の上の背景を想像しながら、その彼女の言葉を決別の意だと捉えて受け取り、悲痛に顔を歪める。


「嘘だ……嘘だと言ってくれ。君に限ってそんなこと、ある筈がない……」


 思わず足が前に出る。おっさんも憑りついた相手から離れられないため、つられて自然と前に出る。


 こちらに歩み寄る二人。


 それに対し、ジェシカは狼狽えた。


 なぜ、ゼノールドとエリアーゼが一緒になってこちらににじり寄ってくるのだ。


 理由はすぐに思い付いた。臭いから近寄るなと言われて怒らない人間はいないだろう。ジェシカは後悔する。考えが至らなかった。


 しかしそれならば、おっさんは分かる。だが、ゼノールドが近づいてくる意味が分からない。 もしや、一緒にトイレについてくるとでも言うのか。おっさんというものがありながら、この変質者め。


 そんな事を考えている内に二人は距離を縮めてくる。


 ジェシカは恐怖した。二人を祝福はすれど、これはまた別の話である。


 おっさんが、年頃の乙女にとっての怨敵が、ジェシカへと迫ってくる。


 あっ、おい、やめろ。待て待て、ちょっ、こっちに──


「こ、来ないでえええ!!」


 反射的に手が出ていた。


 危険を感じ、本能が勝手に仕事をしたのだ。そう、掃除という名の仕事である。力強い踏み込みと共に、振るい唸るは平手ではなく乙女にあるまじき筋が浮かぶほどに強く握りしめた拳。それと、なぜか拳を包むように神々しい光が発せられていた。何か退魔的な力がありそうな光であるが、当の本人は目を瞑った状態なので自分の拳がどうなっているか分かっていない。

 分かっていることはひとつだけ。


 ──乙女の本能は本気でおっさんを狩りに行くつもりであったということだ。


 彼女の拳はゼノールドの横顔を掠め、おっさんへと放たれる。


 そして自身の姿が見えているとはまったく思っておらず、ボケーと突っ立ってたおっさんの頬に綺麗にめり込んだ。クリティカルヒットである。


『ほげらァッ!?』


 突如、なすすべなく殴られたおっさん。「え、おれ?」と戸惑いの色を見せながらも、その表情はどこか恍惚として幸せそうだったが、その理由は言うまでもない。おっさんはきりもみしながら盛大に後方に吹っ飛ぶ。


 そして背後には――


「キャアアアアァ!!」


(甲高っ! おっさんなのに悲鳴、無駄に甲高っ!)


 白目を剥き、もんどり打った後、崩れ落ちるエリアーゼ。


 エリアーゼに衝突すると、おっさんはすぐさま消滅してしまった。迷えるおっさんは天に召されたのだ。ついでに置き土産とばかりに体内に内包されていたおっさん臭が、エリアーゼを中心として弾けるように──先程より遥かに強まった状態で、周囲に放たれた。

 宿主と霊感のある者しか感知できなかったが、今度は、それ以外の者でも感知出来るまでになってしまっていた凶悪な臭気が猛威をふるう。


「エリアーゼ様ぁああ! 大丈夫でござい――くさっ! この人、おっさん臭ッ!」


「貴様何をやっている! さっさとエリアーゼお嬢様を――くっせェ!」


「この令嬢臭うよォ!」


 取り巻きたちが、気を失い倒れたエリアーゼを介抱しようと近づき、あまりのおっさん臭に飛び退り、近づき、飛び退りを繰り返している。


「おっさん臭が……消えた? どういうことだ……?」


 自身の体臭を嗅ぎ、ゼノールドは戸惑う。あんなにも自分を苛んだおっさん臭がきれいさっぱり無くなっていたのだ。


(それに、最後に見せた手の謎の輝きは一体……?)


 それについては分からない。彼女から直接聞くほかないだろう。


 それよりもエリアーゼのことである。いきなりジェシカに殴られたと思ったらその拳が空を切り、その後突然エリアーゼが気絶したのだ。そして、どういうわけかそのおっさん臭がエリアーゼに移っている。

 そういえば聞いたことがある。強力な術は破られると術者に返ってくるのだとか。


 ここで、ゼノールドは一つの答えに思い至った。


 彼女は、ジェシカは人知れず戦っていたのだ。ゼノールドはこれまでのジェシカの言動を思い起こす。なぜか言葉少なめだったのかは、自分の弱みを見せないようにしながら相手の弱点を探っていたからなのだ。そして、何かしらの手段を用いてエリアーゼの術を破ってみせたのだ。


 なんという胆力か。自身の潔白を証明した上、ゼノールドの命まで救ったのだ。彼女は信じるに値する人間だったのだ。


「……すまない、ジェシカ。俺はなんと言う思い違いをしてしまったのか……どうか許して欲しい」


 最後まで気づくことが出来なかった己を恥じ、誠意をこめて頭を下げるゼノールド。


 一方、ジェシカは混乱していた。そのためゼノールドの謝罪を碌に聞いていなかった。

 いつのまにか美少女がおっさんであり、おっさんが美少女だったのだ。何だこれは、どういうことだ。哲学か何かなのか。


 ゼノールドが何か言っているようだがまったく頭に入ってこなかった。

 これまでの話の内容を訊き返そうかと考えるも、不意に彼女は読んでいる途中の恋愛小説の存在を思い出した。先ほどからあんなにも危ないところであった吐き気が峠を越え、今では嘘のようにおさまったし、さっさと続きでも読もうか、という結論に達し、結局ジェシカは、テキトーに首を縦に振って流すことにした。


(全てを水に流すと言うのか……)


 流すとはいっても二人の場合、ニュアンスが異なるような気がするが、当人たちは知らないため、関係ない。


 対するゼノールドは、湧き上がる感情に胸が一杯になり、涙が込み上げてくる。


 自身を疑った者の命を救った上、何という慈悲深さか。我が生涯をかけて彼女に償おう。ゼノールドはそう心から決意する。


 彼は将来の伴侶をここに見つけたのだった。




 数分後に授業開始のチャイムが鳴り、こうして昼休みに起きた短くも濃厚な事件は、ひとまず幕を下ろした。





 事件の後、医務室に運ばれ目を覚ましたエリアーゼは騎士に連行された。そしてその後、彼女の実家や寮室には家宅捜査が行われた。すると実家の地下室には何らかの儀式を執り行った形跡が発見された。

 儀式の触媒は汗ばんだシャツに萎びたカツラがどっさりと。どれもこれもそこら辺にいるおっさんの物と思われる。

 調査の結果、これらを用いて異界の地より悪霊(悪臭のする汚いおっさんの幽霊の略称)を呼び寄せて、ゼノールドにとり憑かせたことが判明した。何でもエリアーゼの目的は国王に取り入ることだったらしい。それで、足がかりとしてゼノールドを利用し、それと彼と親しくしているジェシカを計画を遂行する上で邪魔な存在と判断し、排除しようとしたのだ。

 供述から、実はエリアーゼは無類のおっさん好きというか、洗濯物をお父さんと一緒くたに洗われても大丈夫系女子で、どうやら国王は彼女のストライクど真ん中だったらしい。「乳臭い若造には興味はない。おっさんだ、おっさんを出せ」とは取り調べの際のエリアーゼの言葉である。鬼気迫る表情でそう告げたことから、どうやらイケメンの若手取調官では不服だったようだ。


 しかし、実はエリアーゼは大変満足していた。自身の策略を破ったジェシカに感謝の言葉を贈ろうとしたほどだ。なぜなら、破られた術が跳ね返ったせいだろう、彼女の体におっさん臭が染みついて何をしても消えなかったのだ。


「私から天日干しにしたお父さんを鍋で煮込んだ臭いがする!? 最高! 万歳!」


 どうやら結果オーライだったらしい。



 ジェシカが卒業した後、ゼノールドは彼女に正式な結婚を申し込んだ。

 プロポーズをされた際、ジェシカは目を見開き、驚きのあまり大口を開けて叫んだという。


「第二王子? ……ゼノールド先輩が? えっ、と言うかそんなことより先輩ってノーマルだったのォ!?」



 ――ジェシカがゼノールドのプロポーズを受けたかどうかは、また別の話である。


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― 新着の感想 ―
[良い点] この小説すごいおっさん臭がする。 [一言] エリアーゼはいわゆるおっさん臭フェチだったんでしょうか? そんでもって、エリアーゼに呼び出されたおっさんの悪霊は一体何の目的でエリアーゼに取り憑…
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