入学式とその後日談
春爛漫、という言葉は、昨日から降り続く激しい雨の中では使わないし、ましてや気温が二月並の時に使うなんて、来賓の言葉はもっと臨機応変に何とかならなかったのだろうか。この日のために用意してきたというのは分かるけど、決して現実が思い通りの展開になるとは限らないのだから、それを考えて事前に策を講じることもできたはずだ。
入学式は特に何事もなく雨音の響く体育館内で終わりを迎え、高校初のホームルームも無事に終わった。
本来ならば、一年生はもう下校するのだけれど、駐輪場まで行った俺は忘れ物を思い出し、通ってきた中庭を戻る羽目となり、薄暗い階段を上って教室に取って返した。今日与えられた自分の机に初日から自転車の鍵を忘れるなんてついてない。
誰よりも早く帰って家でゲームでもしようと目論んでいたのに、四階まで戻るせいでそれはできなくなった。だから俺は現実が思い通りにならないことに苛立ちながら、入学式の来賓にささやかな八つ当たりをしているのだ。
ほぼ廊下の一番奥、一年一組のスライド式ドアを開ける。もちろん教室には誰一人としているはずもなく雨の重さを含んだような雰囲気がクラスに充満していた。
机は後ろから二番目なので後ろのドアから入った俺からは目の前にある。
手短に済ませようと、さっき担任から配られたプリントを机の中からすべて取り出し机上に置く。予想通り、鍵は詰められたプリントに押しやられ机の奥にあった。
プリントを元通りに戻して鍵をポケットに入れると、いきなり背後のドアが開かれる。
―――そこに立っていた女子高校生はきょとんとした顔を、幼さを思わせるような笑顔に崩して口を開いた。
「こんにちは、後輩くん」
急な挨拶にうまく言葉を返せないでいると、大きな一歩で俺に歩み寄ってくる。いきなり縮まった身体の距離に俺は慌てて後ずさった。
ショートカットに、黒目がちの瞳。僅かな大人の雰囲気を混ぜた童顔は笑顔でさらにそれを微かにさせる。背はそれほど低くはないが華奢な肩幅が女の子らしさを際立たせていた。
「どうしたのかな? 教室に一人で、忘れ物?」
「そうです」
「それなら、私と同じだね。私も一年生の時の教室に忘れ物しちゃって」
笑顔を傾げて俺の横を通り過ぎる。一年生の時の、ということは二年生の先輩だろうか。
俺は早まった動悸を抑えドアを開く。その時、後ろからの声が教室に響いた。
「忘れ物がどこにもない!」
……どこに忘れ物を忘れたのか忘れてしまったパターンか。大変だな。
「ちょっと待ってよ、後輩くん。一緒に探してくれない?」
初対面とは思えない友好的な口ぶりに、俺のほかに誰か教室にいるのか、と訝しがりながら振り返ると、その先輩はやっぱり俺を見つめていた。
特に言葉を返さないままでいると彼女は机に突っ伏して「あーうぅーあぁ」とうめき声を上げ始める。このまま無言で帰ったら絶対に無慈悲な人というレッテルを張られそうだ。探すのは面倒だけど初日からそのレッテルは辛い。
というわけで、俺はしぶしぶ先輩に近づいて行く。
「どうしたんですか」
「この通りだよ。机の中は空っぽで何もない」
上体を起こして机の中を見せてくる。たしかに机の中は何も入っていない。ここに座っていた同級生はしっかりとプリント類を持ち帰ったらしい。
「一年生の時にこの席で、大事な物を入れておいたんだけど、どうしてここにないのかなぁ」
「というか何を探してるんですか? それが分からないと手伝いもできませんよ」
手伝いという部分に反応したのだろうか。目をきらきら輝かせて立ち上がる。
「探している物はね。……思い出だよ」
理解できない探し物に俺は沈黙してしまう。俺が返さないとほかに言葉を返す人がいないので雨音だけがその空白を埋めていく。
「なんてね。半分冗談だよ」
「あとの半分はなんですか」
「事実だけど」
あっさりと言うので思わず嘆息してしまう。本当に思い出だったらこの人は机に一体何を求めてどんな風に使っていたのだろうか。
「ん? この机って」
彼女を怪訝な眼差しで見ていると、何かに気づいたようにいきなり声を上げて机を凝視しながら表面の傷や木の模様をなぞり始める。
「この机って、私が使ってたやつじゃないかも。……いや確実に私が使っていたやつじゃない、だってこんな傷なかったもん」
「そんなこと分かるんですか」
「分かるよ。だって一年間同じ机を使っていたわけだからね、愛着も湧くよ」
「それじゃ、えぇ……思い出? その思い出の入った机自体を探さないといけないわけですね」
「べつに机が特別汚いわけでもなかったし、予備室に置かれてる机と代えられたなんてことはないと思うんだけど。それに一年生の数が今年は少ないなんて聞いてないから単に撤去されたなんてことも……」
思案していた瞳を俺に向けまばたきをする。
「たぶん、机はこの教室にあると思うから探してもらえない?」
「いや、その机を俺は知らないんですけど」
「それもそうだったね。なら一緒に探そうよ、それでノープログレムだよね」
先輩は俺の肩にぽんと手を置く。まだ帰れそうもないと考えると、もちろんやる気なんて出てくることはなく、内心ため息しか出てこなかった。
数分探した結果、先輩ご所望の机はすぐに見つかった。さっきまで座っていた席から五つ後ろ、窓側の一番後ろの机だった。
「この机だよ。私が一年を共にしたのは」
机に手を置きながら右手で何やら透明なケースのような物を振って見せる先輩。
「で、それは何ですか?」
「もちろん思い出だよ。言い換えるなら、私が机に入れたままにしていたソフトだよ」
ケースを俺の前で開いてソフトを取り出す。それは薄く四角い板状の物で貼られたシールには幻想的な場所に射す光を見上げるワンピースの少女が描かれていた。
確かに思い出とも言えなくはないけど、俺が想像していたのとは全く違う。というか何で自分の机に3DSのソフトが入ってるんだこの人。ゲーム好きなのか?
「私、ゲームが趣味でね。学校でもゲームするんだよ。だから机にソフトが入ってるってわけ」
無意識のうちに先輩へ奇異の視線を向けていたようで、補足説明をした先輩はいじけるように目を伏せた。俺はその表情に慌てて言葉を返す。
「俺はべつにゲームを否定してはいませんよ。ただ何で机にソフトがって疑問に思っただけです。俺もゲームはしますしね」
顔を上げた先輩の目が再び輝きを取り戻し始める。
「そうだよ。ゲームを否定するなんておかしな話だよね。私の家族もそうならいいんだけど、そうじゃないんだよね」呆れたように首を振りながらため息をつく。「ところで後輩くんは、どんなゲームをするの?」
「……俺ですか」
異性に、ましてや初対面の異性にそういう質問をされると非常に困る。決してゲームをやっていないわけではない。なので嘘をついているわけではないけど、正直にどんなゲームをやっているのか暴露すれば相手に引かれることは間違いない。
「ふーん、何となく分かったよ」
俺の目をのぞき込んでくるような先輩の透き通った瞳に、明らかに動揺する自分が映っているような気がした。
「だいじょぶだよ。私はどんなゲームにも偏見なんてないからね。プレイする人が良ゲーと思えば、それはまごうことなき良ゲーなんだよ」
そう諭されると何だか自分自身が偏見を持っていたようで恥ずかしい。だからってそれを公表するつもりはないけど。
「それはさておき、何で私の机がここに移動されてるのかな?」
「前はあそこだったんですか?」
俺はちらりとさっき空だった机に視線を向ける。
「そうだよ。一年生最後の時はあの場所に座ってた。そこから何でこんな後ろまで移動させられてるんだろう……」
しばらく教室の虚空に視線を彷徨わせる先輩。やがて目線を机に落として、目をしばたたかせると机の表面をゆっくりと一撫でした。
「この汚れ、私が最後にこの机を見た時にはなかった気がする」
先輩の指す先を目で追うと確かにそこには、乾いていない墨を誤って引き延ばしてしまったような霞んだ黒線が結構大きめに引かれていた。
「これはこの机が移動させられていたのと関係があるんですか?」
「どうだろうね。……でも」
俯いて言葉を切った先輩はくるりと窓の方へ振り向いて奥の曇天を見つめる。
「どうしたんで――」
「一体どういう事なんだろうね。私には皆目見当がつかないよ」
先輩は机に腰を掛けてショートの毛先を揺らす。こちらを振り向いたのだ。その表情は窓の奥で激しさを増す雨には似つかわしくない喜色満面の笑みだった。
「後輩くん、一緒に考えようよ。答えは案外簡単かもしれないよ」
その先輩の口調から何となく違和感を感じた。勘違いかもしれないけど、もう先輩は今から導き出そうとしている答えを知っていて俯瞰しているような、そんな気がした。
「そういえば後輩くんは、昨日少し晴れ間が見えたって知ってる」
「昨日もずっと雨だったんじゃないんですか?」
「違うよ。昨日の十時半ころ、ちょっとだけ雨が上がったんだよ」
その時間帯を聞いて知らないはずだと納得する。なにせ昨日まで十二時に起きるという堕落した生活を送っていたので午前中に起こったことは何も知らない。
「でも、だからってそれが……」
言葉を言いかけて踏み止まる。
考えを巡らせ雨の音に溶け入ってしまいそうな憶測を組み立てる。濡れた窓ガラスを雨滴がつたう。
「先輩。昨日は学校がありましたよね?」
「もちろんだよ、始業式やったり新入生のために校内を清掃したり大変だったんだよ」
「昨日の登校中、もしかして雨に濡れて学校に来た人がいませんでしたか?」
「どうだろう。でもそんな人がいてもおかしくないかもね」
「もしかしたら、その人は濡れたブレザーをこの机の上で乾かそうとしたかもしれません」
その人は、昨日の雨でブレザーが濡れて乾かそうとした。その晴れ間が見えた時間帯に、新入生が来るまで空いているこの教室で。
でも、乾かし終わった時に問題が起こった。いや、もしかしたら乾かし切れていなかったかもしれない。とにかく、その問題というのは、机が汚れてしまったことだ。きっと、もともと机の上で固まっていた墨が濡れたブレザーを置いたせいでまた液体に戻り、ブレザーを持ち上げた拍子などにその墨をブレザーが擦ってしまい机にこの黒線をつけてしまったんだろう。
きっとその人はそれで焦った。
新入生が使う机を汚してしまった。しかも一番前の先生の目に付きそうな机を、と。
だから目立たない一番後ろの席と交換した。もしかしたら払拭を試みたかもしれないが、そのせいでさらに墨は引き延ばされ悪化したのかもしれない。
「たぶん乾かそうと……」
考えをどう言葉にしたものか悩みながら話し始めようとすると、先輩は感嘆するような吐息を零して頬を緩ませる。
「後輩くんの言おうとしてることはたぶん私が考えていることと同じだよ。やっぱり後輩くんもそう思うよね」
「でも、まあ、確認のしようがないんですけどね」
結局考えても意味がない、という事を遠まわしに言ったつもりなのに先輩は「それはそうだね」と屈託なく笑う。俺は肩を竦めて思わず苦笑する。
「じゃあ、俺は帰りますから。そろそろ下駄箱のとこで一年生を勧誘している先輩もいないでしょうし」
「たしかにそうかもね。でも、せっかくだし私も勧誘しようかな」
スカートを浮かせ机からイスへと座る先輩。「ほらほら座って」と促され仕方がなく俺もイスに座る。
「そもそも私の机にこの黒線が付いたのって、私が部活勧誘の紙を作る時にこの机で筆を使ったのが原因だと思うんだよね。気づかないうちに筆が紙をはみ出しちゃってたのかもしれない」
「そうですか。結構力入れて勧誘ポスターを作ったんですね」
「そうだよ、そうなんだけど……残念なことに、学校でそれを沢山コピーしようとしたら先生が白黒印刷にしなさいっていうんだよ。筆のほかにも色鉛筆とか使った力作なのに」
その話って勧誘じゃなくて愚痴じゃないのか?
「そうだ! 後輩くんには私の書いたもとのやつをあげるよ」
胸ポケットから綺麗に折られた紙を出して俺の前で広げる。確かに彩色豊かで一見すると美術部の勧誘ポスターのように見え、字は筆で書かれているので書道部かと思ってしまいそうだった。でも、中心に書かれた部活名はそのどちらでもない。
「写真部ですか?」
「そうだよ。そして私は写真部の部長でもあるからね。即入部したい場合は今口頭で伝えてくれればいいよ。入部届を顧問の先生に出しに行くのは面倒でしょ」
「考えておきます」
「無難に答えて入部しない気だなぁ」
下から見上げるようにして俺との距離をつめてくる先輩。俺はすぐに目を逸らして机に頬杖をついた。
「まあ、気長に待ってるよ。興味があったら覗きに来てね。いつでも着替え中の状態で待ってるから」
「その意味での覗きだと俺が変態みたいになってるんですけど」
「そうだよ。それを弱みにして、変態がばらされたくなかったら入部しろって脅す作戦」
「身を挺した用意周到な作戦ですね」
「そうでしょ、これが策士というやつだね」
手のひらで胸あたりを叩いて誇らしげにする。先輩、べつに褒めたわけではないです。
「それじゃ、私はそろそろ行こうかな。ゲームの途中だからね」
俺の太腿の上に写真部の勧誘ポスターを置き先輩は立ち上がる。すれ違いざまに俺の肩をぽんぽんと触れてから教室を出ていく先輩を少しだけ横目で追ってしまった。
先輩がいなくなると再び雨に濡れた静寂が教室を飲み込んでいく。背もたれに背を預けて鳴ったイスの軋む音に若干の寂莫間を感じている自分に苦笑しながら腿の上の紙を眺めると、床の上に何かが落ちているのに気づいた。拾い上げるまでもなくそれが何なのか分かる。――桜の花びらだ。
こんな雨の日に、舞うはずもない桜がこの四階に入ってきたとも思えない。さっきの先輩が連れてきたのかもしれない。もっともあの人は春そのものを連れてくるような雰囲気だったけど。
……なんて、柄にもなくそんなことを考えてしまったのは、きっとまだ新しい環境に慣れていないからだと思いたい。
♝
この高校に入学した理由を問われても、俺は返事を濁すことしかできないだろう。この高校が自分の成績的にあっているのは確かだけど、それでも多少なりとは吟味する余地があったはずなのに俺はここに入学した。しいていえば、この高校への決め手は今まで俺の読みたかった本が全巻そろっていると姉から聞いたからだ。なので、もちろん部活のことなんて決めてはいないし、考えてもみなかった。
「それでは、このあと一斉部会があるので各自で入部を希望する部の集合場所へ行くように。どこに集まるかは後ろの黒板に紙があるからな」
入学式から約一週間が過ぎた帰りのホームルーム。授業も終わり弛緩した空気が人ともに廊下へ流れ出ていく。そんな光景をイスから眺めながらリュックを背負い俺も教室を出た。
一週間前、マンツーマンで写真部への勧誘をされたが入部する気はない。もっともそれは写真部に限ったことではないく、俺は運動自体がそもそも嫌いで部活内での人間関係も嫌いだ。高校に入学したら部活はしないと決めていた。
階段を下り四階と三階の踊り場で足が止まる。見下ろす視線の先には、武骨なカメラを首に下げた先輩が壁に寄り掛かりながら待っていた。写真部のあの先輩だ。
「やっと来たね。会うのは一週間ぶりかな。元気にしていたようで何よりだよ」
壁からぴょんと跳ね制服のスカートを揺らして俺の方へ方向転換する。
「ちょっと付き合ってほしいんだよ。後輩くんに用事があってね」
「今から部会じゃないんですか?」
先輩は可笑しそうに笑って胸をはる。
「もう部会が始まっているこの時間に、写真部には一年生が誰一人来ていないのです!」
自分の背負ったリュックが徐々に重みを増しているような気がして、俺はリュックを肩にかけ直す。直感的に、また面倒なことに付き合わされるのかもしれないと思ってしまう。
「だから写真部の方は問題ないよ。むしろ今から付き合ってもらうこと自体が写真部の活動に含まれてるからね」
「いや、俺写真部じゃないんで」
先輩は階段を駆け上がり踊り場の数段下で足を止める。俺を見上げるようにして先輩は小首を傾げた。
「勧誘ポスターはもらった時点で入部になるから心配はいらないよ」
もしそうだったらみんなどれだけ兼部しなきゃならないんだよ。
「とにかく行こうよ。ちょっとお花見しに行くだけだからさ、ね」
先輩の瞳の色が深くなったような気がした。そしてその目でゆっくりと笑顔を作る。……非常に怖い。
まばたきをして無邪気そうな笑顔に戻った先輩は軽快に階段を鳴らし、三階まで下りたところで振り向いて手招きをした。
「早く行こうよ。まだ桜は地面に落ちてると思うからね」
俺はため息を吐いて今にも崩れそうな脚で階段を降りた。
数日前の花曇りはいつの間にか晴天に変わり、その名残を惜しむかのように濡れた桜の花びらがコンクリートの上に散らばっていた。
この高校の敷地内で桜の木があるのは二ヶ所。一ヶ所は中庭、もう一ヶ所は校内のごみを集め分別する場所とその隣にある二年生駐輪場との隙間。後者はそのまま影に埋まって忘れ去られてしまいそうなくらいひっそりと存在感なく育っている。ここには教室掃除をした時、何回か廊下のごみ箱からごみの詰まったごみ袋をここに持っていくよう指示されたことがあるので、ここには訪れたことがないわけじゃない。
「で、来てどうするんですか?」
「どうするもなにも撮影だよ。ゲームばかりしてると、本当に写真部として活動してるのか先生たちに疑われるからね」
「ゲームしてる時点で廃部になってもおかしくないんじゃないですか」
「だいじょうぶ、顧問の先生は呼ばない限り部室に来ることはないから」
先輩は首にかけたカメラを覗き込まないで、弱々しい薄桃色の片鱗がまばらに広がる地面を数枚撮影する。
「これくらいでいいかな。ありがとうね、付き合ってくれて。私も先輩だから後輩にカメラの使い方とか教えないと」
自分を鼓舞するような口調で俺に笑いかける。
桜の散り際、仄かに色づいた数千枚もの花びらが舞うような日。淡く笑った先輩はほんのり頬を赤くして散っていく儚い桜に優しく目を細めた。
―――カシャッ。
「どうしたの? ぼーっとして。隙だらけだったから、後輩くんの写真を撮らしてもらったよ」
シャッター音で現実に戻される。俺は咳払いをして絵空事の光景を誤魔化した。
踵を返して校舎に戻ろうとする先輩の背中にため息にも近いような声を零す。
「写真部は楽しいですか?」
「もちろんって答えるよ、それはね。だって私が後輩くんを勧誘してるんだもん」
自分でも愚問だと分かっていた。それでも何となく訊いてしまう。これはあの時と同じ感覚だ。ショーウインドーの奥に陳列された商品を指さして、これ美味しいですかと店員に尋ねた時と。たしかに美味しかったけどミスドのゴールデンチョコレートは。俺は一つ息を吐いて質問を変える。
「写真部は、何が楽しいんですか?」
「そうだなぁ……写真に関係なくて申し訳ないけど、一つはプライベートな空間ってことだね。だから私は部室でゲームをができる」先輩は肩越しに俺をちらりと見て、後ろで組んだ指先を解いて遠くの春風でも見据えるかのように空を見上げる。「もう一つは……関わり、かな。いや、関わることか。何て言えばいいんだろう? んーっと……なんだろう? ……まあ、だからその―――うん、やっぱり今のなし、忘れて」
ぴょんと跳ねて先輩は振り返る。無邪気な表情の口元に微量の悲しさが滲んでいるような気がした。でも、それでも後悔はしていないと胸を張って言えそうなほど、先輩の笑顔は輝いて見えた。
俺はポケットに片手を入れて俯くようにして先輩から目を逸らす。
俺が部活を拒否する理由は、体力的な疲労と人間関係による疲弊だけだ。写真部がそれらに該当するようには思えない。……まあ、この写真部部長さんが若干面倒かもしれないけど。それに何より、ここで勧誘を断った方が面倒なことになりそうだ。
「先輩、写真部に入部してもいいですか?」
「もちろん。……あっ、違った。訊く必要なんてないんだよ。もう後輩くんは写真部の部員だからね」
「それもそうでした」
先輩は不意に俺の手をつかんで、楽しそうに部室まで連れて行った。
絶句した。
黒板前の窓際に置かれた大型の薄型テレビ周辺は、カオスな状況ここに極まれりと言えるほどだった。決して乱雑にそれらが置いてあるわけではない。むしろ丁寧に棚へ収納されている。問題はその置いてある物自体にある。三段ある棚には誰でも一度は耳にしたことのあるであろうゲームハードがひとつずつ綺麗に収まり、もう一つの三段棚には、一区切りに上下二本ずつゲームソフトのパッケージが几帳面に詰まっている。他にも、数個設置されたカラーボックスにはコントローラーやコード、ゲーム機本体の付属品らしき物がその収納スペースを埋めていた。先輩がゲーム好きなことは分かっていたつもりだったけど、まさかここまで部室に完備しているとは思いもしなかった。
「どうしたの? 唖然としちゃって。とにかく座りなよ。イスは後ろに積んであるやつをどれでも使っていいからね」
「なんか、想像していた以上です」
「ゲームのこと? これくらいは普通だよ。私なんてまだ可愛い方」
そうは言いながらも先輩は得意げに胸を張ってるので、俺は呆れて言葉が出てこなかった。
取り敢えず、イスを持ってきて窓際に陣取る。教室の前は先輩がゲーム類を置いてテリトリーを広げてしまっているので、もちろん教室の半分から後ろの方だ。
「それでどうなの? 始まったばかりの高校生活は。写真部に入部した以外で幸先のいいことあった?」
先輩は教卓にカメラを置いて、腕を伸ばして背伸びをする。そしてゆっくりと教卓に寄り掛かった。
「べつに普通です。可もなく不可もなく」
「そうなんだ。隣の席の人と仲良くなった? もしかして、まだ名前すら知らないとか?」
「べつに……まあ、大丈夫です」
「それは、知らなくてもだいじょぶってこと?」
先輩の視線から逃れようと、黙って視線を窓の外に向ける。名前なんて知らなくても大丈夫だ。相手の名前もわからなくても、意外と会話って成り立つ、と言っていた人がいた。
「分かりやすい反応だなぁ。それじゃあ、私の名前は分かる?」
俺は先輩といた時間を回想しながら視線を先輩に戻す。
「知りません。というか自己紹介もまだの気がします」
「あれ? そうだっけ。それなら早速自己紹介といこうかな。私の名前は――」
「もう、部会終わった?」
前のドアが開かれ、申し訳なさそうに言った男子生徒は先輩と俺を交互に見やる。精鍛な顔立ちをしていて背はおそらく高校生平均より少し高い。文武両道に何でもそつなくこなしてしまいそう、そんな印象をその男子から受けた。
「もしかして、まだ終わってない?」
自分の名前を言いかけた先輩は口を半開きにしたまま闖入者の方へ視線を向ける。男子生徒は困ったように笑った。
「あの……ちょっと相談があって」
「石原くんが相談? 珍しいこともあったもんだね。というか石原くんがこの写真部の存在を知っていた時点で驚きだよ」
「たまたま小耳に挟んだんだ。女子の間でたまに噂になってるから」
「まあ、取り敢えず入りなよ。相談料は無料だから安心して」
先輩は後ろからイスを二つ持ってきて、向かい合うように教室の中心に置いて座る。石原と呼ばれたその男子は逡巡しているのか少し教室内を見回してから教室に入り後ろ手にドアを閉めて、先輩の正面に腰を下ろした。
教室の中心に向かい合う二人。なんというかとても素朴でシュールな光景。状況が全く呑み込めないので俺は黙っておこう。
「それで、相談っていうのは?」
「これなんだけど」
石原はブレザーの内ポケットから何やら丁寧に折られた長方形の紙を取り出す。
「当ててあげようか。石原くんの相談は、女がらみのことだね。後輩くんもそう思うでしょ」
状況が理解できていない俺に振るなよ。関わりたくないからできるだけ影に徹していたのに。
「まあ……女の子にもらったんだよ。……たぶん」
俯いて吐き出した石原の言葉は静かに床へ落ちる。物憂げな表情のまま石原は言葉を重ねた。
「分からないんだ。……差出人が。字体と内容からして女の子だとは思う。でも、名前がないんだ」
「ちょっと見せてもらうよ。その手紙」
先輩は手紙をそっと取って開く。内容は読まずに名前のないことを確認しただけなのか、すぐにその手紙を閉じて石原に返した。
「これをもらったからって手紙の差出人と付き合う気なの? だって石原くんにはもう先客がいるんでしょ」
少し照れた顔で頭をかく石原。一方先輩は呆れたように肩を竦めて、その感情の同意を求めるかのように、肩越しに一瞬俺と視線を合わせる。
「断るつもりでいるのは変わらない。でも返事はしておかないと相手に失礼だろ。だからやっぱり、その手紙の差出人には会わないと」
殊勝な心掛け、というべきだろうか。普通だったら無視すべきだ。好きでもない相手に気を遣うのは社交辞令的な行為だとしても、向こうの不備で差出人が分からなくなっているのだから、たとえ返事をしなかったとしても咎められるような理由はない。もしかしたら、こういった紳士的対応が彼女のできる理由なのかもしれない。
先輩は少し呆れ気味に息をついて、手紙を指さす。
「それで、これはいつもらったの?」
「もらったというよりは知らぬ間に入ってたんだ。知らぬ間と言っても、大体見当はついてるんだけど」
石原は顔を上げてイスに深く座り直す。真剣な眼差しで先輩を見据えて相談の詳細を話し始めた。
「入学式の前の日、雨が降ってたのを憶えてるか? あの日、俺は雨に濡れながら学校に来たんだ。家を出る時には雨が降ってなかったのに通学途中で降ってきて。それでもちろんブレザーが濡れて、それを乾かそうと干しておいたんだ。新一年生が来るまで空いてた四階の教室で。三時限目の始まる時らへんにちょっと晴れただろ」
入学式後の教室で、俺が説明しようとした状況と重なる。なぜか一週間前のあの時は鮮明に憶えている。雨音と無邪気な先輩の声。そして勧誘。今思えば、写真部部長であるこの先輩にあの教室で出会った時点で写真部に入部することが運命づけられていたのかもしれない。運命と言うとかなり大袈裟に聞こえるけども、結局は写真部に入部しているのだから何とも言えない。
「きっとその時に。机の上で日に当てておいたブレザーにこれを入れられたんだ」
「それなら、石原くんがブレザーを乾かしてること……あぁ、あと、ブレザーを濡らしちゃったことも含めて、それを知ってる女の子は何人くらいいそう?」
「たぶん結構いると思う。朝に玄関で会った一組の何人かの女子にも濡れてることを訊かれて話したし、三組の何人かにも訊かれて話した。乾かすことは言ってないから、乾かしている最中のブレザーを見られてはないと思うけど、その間俺はワイシャツだったわけだから、俺と同じ三組の人はもちろん、朝に会った一組の女子たちがワイシャツの俺を見かければ乾かしてるって予想はつくと思う」
石原は神妙な顔つきで言い、力なくその手紙を振って不安そうに表情を曇らせる。
でも、先輩は違った。
先輩の表情が一週間前の記憶をつつく。あの時と同じ違和感を先輩から感じた気がした。先輩は口元に妖艶にも見える微笑みを含み、口を開く。
「差出人の可能性がある人は結構いるって自覚してるのに、有力とも言えない小指の爪の先ほどの情報量で、その手紙の差出人を探してくれ、ってことなのかな。端的に言うと」
無理を言うなと詰るように、先輩は石原に語り掛ける。なんか楽しそうに。
「分かった。一応了解したよ。できるだけ探しておくけど、差出人を特定するのはかなり望み薄っていうのを覚悟しておいてね」
石原はそれでもまだ期待しているかのように頷いて「お願いします」と頭を下げて教室から出て行った。
ドアの閉まる音が教室に響いてすぐに消える。先輩はイスに座ったまま手足を精一杯伸ばしてからだらりと脱力する。
「さっきのどうすればいいと思う? 後輩くん」
「俺に訊かないでください。俺にはさっきの状況すら分かってないんですよ」
先輩は上半身を捻って俺の方に身体を向けると背もたれに頬杖をつく。
「状況も何も、さっきのは依頼人だよ。その依頼を今から私たちが完遂する。もちろん二人でね」
きょとんとした表情でさも当然のごとく言う先輩。依頼、完遂、そして何より、二人で。日常生活では稀にしか使わない単語と、協同を示す言葉。それらを信じたくなくて俺はかぶりを振る。
この部は、普通の写真部じゃない。ゲームのハードとソフトのことなんて些細な問題で、もっと大きな問題点があった。
依頼を受け、完遂する。
きっと写真部なんて名前は、部として活動するための口実に過ぎないんだろう。
「こんなことに俺は関わりませんよ。だいたいこんなの写真部と関係ないじゃないですか」
先輩はイスから立ち上がる。俺の正面に立ち、何をするかと思えば、座っている俺の両膝に両手をついて、先輩の瞳に俺が映っているのが分かるくらいの距離まで、先輩は身体ごと近づいてきた。図らずも心臓が跳ね上がる。
「それは写真部に持ってる固定観念だよ。うちの写真部は写真以外のこともする時があるからね。その考えは捨てたほうがいいよ」
「写真部と名がついている以上、その観念は捨てたらいけないと思います」
「心配性だなぁ、後輩くんは。それとも悲観的? だいじょぶ、私が勧誘した後輩くんだもん。こんな依頼余裕だよね」
「人に関わるなんて――」
「同じ部活だし、手伝ってくれる、よね」
瞳を直接俺に押し付けるかのように先輩はさらに顔を近づけてくる。分かりました。怖いからやめてください。その口元だけで笑うの。
先輩は俺の膝を指で楽しげに叩いて、折った上体を起こしつつ俺から一歩離れる。
「そうは言っても石原くんの話だけだとこの件を解決するのは難しそうだね。どうしようか?」
「俺に訊かれても困ります」
先輩は白々しく腕を組んで悩んでいるような素振りを見せてから、何かひらめいたかのように目を見開く。
「指紋を取ればいいんだよ。あの手紙の」
「そんな技術力が先輩にはあるんですか?」
「もちろん全然ないよ」
ですよねー。
「うん、ここで考えても差出人が誰なのか特定はできなさそうだね。こんな時はゲームだよ、後輩くん」
「何ですかその理屈」
と、俺が言っている間にテレビの前に置いてあったクリーム色のカバンから、ブラックの3DSを出して持ってきた。
「前に私が机に置いてきちゃったあのゲーム、結構難しいんだよ。実際に何回か積みそうになったしね。それでも今は順調」
起動した3DSの画面をこちらに向ける。上の画面には、廃墟になって何百年と放置されたような、幻想的な背景の中でこちらを見つめるワンピースの少女。下の画面にはマップのような物が表示されている。
「このゲームが今できているのは、後輩くんのおかげだよ。後輩君が一緒に探してくれてなかったら見つからなかったかもしれないからね。ほんとにありがとう」
窓から入るふんわりとした春の光の中で先輩は無邪気な笑みを見せる。お礼を言われるほどのことはしていないので大袈裟だとも思うけど、悪い気はしない。
先輩はさっきまで座っていたイスを運んできて俺の隣に並べる。ゲームから静かに音楽が流れ始める。
「それにこのソフトを見つけられたのは運もよかったんだよ。あの日の前日に、新一年生が入ってくる四階は廊下も教室も二年生が掃除をしているからね。机の中まで見られなくて助かったよ」
弾むような声で呟いた先輩の隣で、俺はすっかり葉だけになった中庭の桜の木が満開に咲いているところを想像しながらぼんやりと眺めていた。
♝
高校初の部活を経験したせいで、今すぐにでも疲労感に潰されそうな身体をベットに投げる。ベットのスプリングが軋んでうつ伏せになっている俺の耳に響く。
時間はまだ十一時。いつもなら趣味に時間を費やして、就寝は一時頃になるのだが今日は疲れて何もする気が起こらない。
本格的に寝る態勢に入ろうと布団にもぐると、頭の奥で余計な何かが騒ぎ始める。その声はだんだん大きくなる、というよりは、騒がしくしているその声の張本人が近づいてくるような感じだ。もちろん、知っているあの先輩の声音。
元から俺には関係のない依頼。写真部という理由だけで俺が気負う必要なんてないし、石原とかいう知らない先輩のために俺が肩肘張る必要もない。
散った桜を撮り終わって、先輩に写真部の何が楽しいのか訊いた時、先輩が言い淀んだもう一つの理由はこれのことかと今更ながらに思う。俺は写真部に入部したつもりだった。でも蓋を開ければ別物。詐欺であることは明白だ。
……推測くらいは立てるか。人生妥協も必要かもしれない。誰かのために推理すると考えると何となくシャクなので、早く寝たいから仕方なく考えるという個人の理由をつけてため息交じりで憶測を始めた。
♝
「それでどう? 何かいい案は出た?」
四時限目も数十分前に終わり俺も含め大抵の人が昼食を食べ終えたこの昼時に、俺は校内放送で写真部として予備六室に呼ばれた。もちろん議題は昨日のことだ。
「片っ端から女子に訊くっていうのはどうですか」
「それはダメだよ。時間もかかるし、何より手紙を書いた本人に訊いたとしても、その人が書いたことを否定するかもしれない。これは恋文だからね。他人の私たちが訊いても恥ずかしがって正直に言ってくれるとは思えないよ。それに、本来これは石原くんとその差出人の問題だから、私たち他人を介入させたことが差出人にバレたら石原くんの面子に傷をつけることになっちゃう。それと差出人の心にもね」
「この案がダメなら俺には案がありません」
俺の目の前で机に並べた四つの大きな菓子パンから、やっと最初に食べるパンを選び抜いて、パンの入った透明なビニールを破いて、頬ばる。
「後輩くんは嘘がつけないタイプの人なんだね」
パンを飲み下した先輩は、陽気な春の日差しの中で俺を見つめる。
「カマかけてるつもりですか」
パンを咥えてぶんぶんと首を横に振った先輩は、それを小さな一口で食べ飲み込む。
「全然。私は、期待してるんだよ、君にね」
これまでの『後輩くん』という呼称を『君』に改めた理由は俺には分からないが、染み込ませるような落ち着いた声音と優しい笑顔は俺の嘘を瓦解させるだけの破壊力を十分に持っていた。それに考えてみれば、昨夜眠気と戦いながら熟考したものを出し惜しみする必要はない。
「差出人が誰なのかなんて分かりませんよ。そもそも俺は同じクラスの人でさえ名前と顔が一致しないんですから。でも、該当者を二択に絞ることはおそらくできました」
先輩は何も答えないまま手にしたパンをぺろりと食べきる。さっきよりは短く数秒吟味した後で、メロンパンが円盤状になったようなものを幸せそうに食べ始めた。何口か食べてから俺に言葉を返す。
「葵くんの予想通り、昨日ごみ箱のごみを下のごみ置き場まで持って行ったのは四階掃除の人だけ。二時限目に掃除をしたからね、ごみがあまり溜まってないから一年生が来る四階以外は次の掃除の時にごみを捨てに行けばいいってなってた。
で、その二択、ひとりは男子だよ。私と同じクラス。私たちのクラスはあの大掃除の時、掃除場所を決めるのに出席番号で決めたんだけど、四階の教室を掃除したのは番号が1から6の人だったんだよ」
俺の推測と選択肢の意図を汲み取っているということは、先輩はすでにいくつかの条件を糸で結び繋ぎ合わせてこの依頼を完遂しきっていることになる。恐ろしいほどに聡明。それでも先輩が怖くなってこないのはその愛嬌ゆえだろうか。
「よく覚えてますね。もう一週間以上も前ですよ」
「それは私の脳は鬼トレで鍛えられたからね。それで、何かもう一つ訊くことがあるんじゃないかな?」
先輩の推測は完成品だが俺のは所々に欠けている部分がある。完遂までの全体像を知っている先輩にとっては俺の憶測の不足している部分を言い当てるのは簡単なんだろう。でも、俺がその不足した部分を先輩に訊く必要はない。だって、依頼を完遂している先輩が石原に説明をしに行けば一件落着なのだから。
「言い忘れてたけど、今日の放課後、石原くんを西渡り廊下に呼んでるんだけど、私放課後ちょっと無理だから、説明は後輩くんよろしくね」
「それなら今からでも」
「それは無理だよ、時間的に」
黒板右上に掛かった時計を確認すると、もう予鈴の鳴る時刻ギリギリだった。愕然とする俺をよそに先輩はすべてのパンを平らげ指先を舐めてから毒々しいくらいに赤い缶の飲み物を一口飲む。どうりで俺を遅くに呼び出したわけだ。
「訊かないのなら私から言うよ。誰が差出人なのか」
予鈴がなりそうで少し焦っているのか先輩はいっきにそれを飲んで、立ち上がった。
「差出人は、三組の高橋紅葉ちゃんだよ」
上から注がれた明るい先輩の声音に、何か言い返そうとしたが声にはならず、俺のため息は響く予鈴にすべてかき消された。
適当に掃除を終わらせ大半の生徒が部活へと流れるのを見ながら、俺はそれを他人事として見れなくなっていた。考えるだけで先輩の邪悪な笑みが脳裏にちらつく。まさか呪いの類かもしれないと考えながら、俺は渡り廊下で依頼人が来るのを胸壁に肘をついて待っていた。
中庭の木々がささやくような音を立てると同時に俺の髪を風が梳いていく。中庭横の駐車場を歩いて行く、今から下校するらしい生徒を羨ましいなと若干睨むように見ていたが誰も振り向きはしなかった。
気晴らしに空でもと思って見上げると、まさしく快晴という天気だったので対照的な自分の心情と思わず比べてしまい、逆効果だと気づいて虚しさが込み上げてきた時、一号館の方から少し小走りの足音が聞こえた。
「君が来るとは思ってなかったよ」
「俺も自分がここに来る羽目になるなんて思っていませんでした」
振り向いた俺の気怠げな口調を真に受けたのか、石原は困ったように短く笑って真剣な顔つきになる。
「それで……俺がここに呼ばれたのは、誰が差出人か分かったってことでいいのかな」
「まあ、そうです」
石原の喉元がゆっくり持ち上がって落ちる。もしかしたらこういうのには場馴れしているのかもと思っていたけど、そんなことはないらしい。
「結論から言うと、差出人は高橋紅葉先輩です」
石原の見せた表情は俺の予想とは趣を異にしていた。驚くわけでも悲しむわけでもなく、どこか安心したような雰囲気だった。
「そうか、一応、何でその結論に至ったのか教えてくれないか」
そう訊いてくるとは思っていた。恋がらみの話なのだから慎重になるのは当然だ。でも俺はそれを話したくはない。話せばいろいろと長くなりそうなので面倒なのだ。だからこそ、結論を聞いたら石原が身を翻して部活に行ってくれるという筋書きに内心一縷の望みをかけていた。
俺は胸壁にもたれて息を吐き出す。吹奏楽部の管楽器の音が聞こえ始めた。
「石原先輩が依頼をしてきた時に話したことから、差出人は石原先輩が入学式前日に雨に濡れたことを知っている人。――つまり一組の何人かの女子か石原先輩と同じクラスの三組女子に限定されます」
石原は俺の言葉に何度か頷く。ここまでは石原も理解しているはずだ。
「話は入学式に変わるんですが、俺は一年一組の教室で桜の花びらが落ちているのを見つけました。
入学式の日、雨が激しく降っていたのを覚えていますか。あの雨の中、桜が舞うことはありえません。だからいくら新一年生が桜の木がある中庭の横を通って昇降口に入ったとしても、新一年生の肩や服に桜がのって教室に落ちたとは考えにくいんです。それにもし靴で踏んでいたとしても学校内では上履きに履き替えるので、靴の裏から剥がれ落ちるということもありません。
石原が「入学式前日なら……」と言いかけて止まる。入学式前日も雨が降っていたので同様の理由で一組に桜の花びらが落ちることはありえない。晴れ間の見えた時間もあったようだけど、雨に打たれきった桜から花びらが落ちることはほとんどないだろうし、もしそうだったとしても、いちいち桜の下まで行ってから石原のブレザーに手紙を忍ばせに行く理由がない。
「ちょっと待ってくれ、それは入学式の当日や前日には雨が降ってたけど、それより前の春休み中とかに花びらが落ちた可能性だってないとは言えないんじゃないか」
「でも、先輩方は俺たち一年生が来る前に一年一組も含めた学校の掃除をしているんですよね」
掃除をした、というのは先輩がゲームをしながら呟いた言葉だ。これがヒントだと気づくのにかなりの時間が掛かった。それとなくヒントを出すのはやめてほしい。
石原は毒気に当てられたようで、何か言おうと微かに動いた口から言葉が漏れることはなかった。
「これにより桜があの教室に落ちたタイミングが推測できます。入学式前日の一組を清掃し終わった後から俺が見つけるまでです」
「でもそれはありえないんだろ。今の話からだと雨が全部の可能性を潰してる」
石原は間髪入れずに言い放つ。まくしたてる、というよりは矛盾していると思った部分を指摘しているだけのようで語調に憤りを感じることはない。
「しかし桜が落ちていたことは事実です。なので舞うはずのない桜の花びらを思いがけず教室まで運んでしまった差出人が存在するんです。
この学校に桜の木は二本あります。中庭とごみ捨て場のところです。掃除をしたということはごみが少なからず出るはずです。掃除をした後には必ず誰かがごみ袋をそのごみ捨て場まで持っていくはずですが、そこには散った桜が地面に落ちていたはずです。それを上履きで踏んで上履きの裏に花びらを付けたまま掃除を終わり、その後石原先輩がブレザーを乾かしていると知ったその人は先輩の無防備なブレザーに手紙を入れに行ったんでしょう」
「それが紅葉ってことか」
「はい、あの時誰がごみを持って行ったのかなら部長が確認したそうです」
石原は何も言わぬまま立ちすくむ。今の話の真偽を自分なりに考えているのか表情は険しい。でもそれはほんの数秒で、顔を上げた時には晴れやかな笑顔だった。
「君って意外と饒舌なんだね」
「言わされてるだけですよ、あの部長に」
迷惑だという感情を含ませて言ったのが伝わったのか、呵々と石原は笑う。俺にすれば笑いごとでもなんでもない。不謹慎だ。
石原は笑いを徐々に抑え、ふぅと短く空に向かって息をはく。依頼をしたくらいだから石原は差出人のことで自分なりに悩んでいたんだろう。それが告白を受ける側としての責任だとでも思っているのか、それとも単に差出し相手を事前に知って心構えを作っておきたいのか、はたまた既にいるらしい彼女と比べて今回の告白を許諾するのかを検討したいだけなのかは、たとえ直接訊いたところで本心が分かるわけでもない。唯一分かることは、この依頼が解決したということだ。それだけ分かれば俺は十分だ。これで帰れる。
「本当にありがとう、これから写真部に頭が上がらないな。加賀にもよろしく言っておいてくれ。それじゃ俺はこれで、部活があるから急がないと」
軽く手を上げて俺に背を向けた石原は急ぎ足で校舎の中へ消える。
正面からの西日に手でひさしを作り、依頼の落着に安堵しているとふと周りの喧騒が耳に滑り込んでくる。吹奏楽部からは覚えたての歌詞を口ずさんでいるような楽器の音、右手の校舎を挟んでもなお聞こえてくる校庭の活気。そういう青春の活力には心から脱帽する。でもそうなりたいとは思はない。それに俺が入部したのは写真部。撮影する側だ。写すのが写真部の活動内容であり、その姿が人の目に映るのを目的としているわけじゃない。
俺は帰路につくため校舎に向かう。俺一人に仕事を押し付けた先輩への愚痴は後にしよう。
♝
早くも四月の下旬。クラス内の緊張感は徐々に影を萎ませ、学業の第二ラウンドともいうべき放課後が始まった廊下には砕けた口調が飛び交い、皆一様に部活へ向かっていく。帰宅部はほんごく一握りだろう。俺もそうなるはずだった。……勧誘されるまでは。
すぐ部室に行くのも億劫なので、俺は自動販売機まで来てただその品揃えを眺めていた。
「奇遇だね。その節はどうも」
声で分かっていたが愛想のつもりで取り敢えず振り向く。俺の後ろには予想通り石原がいた。あの時以来会うのは初めてだ。
「お礼なら俺じゃなくて、加賀先輩に。俺はただの道具ですから」
「謙虚なんだな」石原は爽やかに笑って俺の隣に立ち、自動販売機の品々に迷うこともなく、硬貨を投入して、コーヒーのボタンを押す。「俺は写真部に依頼して、写真部に助けられた。君も部員だろ、礼を受けるに値する、だろ」
「そうかもしれませんね」
俺は自動販売機を離れて校舎の方へと歩き出す。
石原と長く話していたいわけじゃない。それに依頼をしたとはいえ、石原だって同じはずだ。あの時は加賀先輩ではなく、俺が推理を披露した。何でもそつなくこなしてしまいそうな石原の前でだ。今は愛想を崩さずにいるけど、もしかしたら部外者の俺が訳知り顔で説明したのが石原のプライドに傷をつけたかもしれない。
「せめて飲み物でも奢らせてくれ、君と加賀さんのを」
俺が断ろうと振り向いた時には、すでに石原が小銭を自動販売機へ入れていた。最後まで礼儀を怠らないというのがやはり人気者の秘訣だろうか。
「それなら……ありがたく」
本来ならば恐縮する必要もないのだが、先輩後輩という立場的な問題を考えて、一番安い缶ジュースにした。加賀先輩の方は何にしようかと一瞬迷ったけど、先週のあの時に先輩が飲んでいた缶のデザインを思い出す。真紅を基調としたデザインににDとPの文字が大文字表記されたあれだ。
俺が屈んで二本の冷えた缶を取り出すと、石原はレバーを下ろしてお釣りを取り出す。
「本当にありがとう。おかげで関係を保っていけそうだ」
俺は付け加えられた一言を追及したりはしない。その関係とやらが、手紙の差出人か今の彼女(もう過去の彼女かもしれないけど)かなんてさしたる興味もない。
「それじゃ、俺は部活だから、またいつか」
すれ違いざまに俺の肩をぽんと叩き、初対面の時とは違う、胸中に溜まった澱をすべて流し出したような笑顔をほんの一瞬だけ見た気がした。そして石原は、入学してから俺が一度も入ったことのない瑠璃館に入っていく。おそらく多目的ホール的な用途で使われるのだろう。放課後はたしか吹奏楽部が練習場所として使っていたはずだ。
また会いたくはないな、と小さく呟き、両手に報酬を持って部室へと向かった。
部室のドアを開けると、まるで目線を固定されているかのようにテレビ画面に向かって座る先輩がいた。そして意を決するかのようにコントローラーのボタンをゆっくり押し込んだ。
「んぅ~やっぱりエキゾチックはでなかったか」
なにやら一人の世界に入ってゲームをしているようなので声をかけずらい。画面には先輩が操作しているであろうキャラクターがボールのような物を蹴っては追いかける映像が映し出されている。ゲームを終わる気配もないのでしばらく経ってキリがついているようだったら、石原からの差し入れを渡そう。
俺はすでに定まりつつある窓際の定位置にイスを置いて座り、図書室で借りてきた本をリュックから取り出す。
「エキゾチックはでなかったけど、代わりにこれが出たのかな。えっと、『致死量の8倍の量を吸い込んだ。春のピクニックのような味だった。良い人工呼吸器だ』このヘルメットの説明文、春っぽくて季節的にちょうどいいね」
画面に向かって陽気に呟いた先輩は不意に立ち上がって座っていたイスにコントローラーを置く。身体をひねって俺に笑いかけると驚き表すように口を丸く開け、その場で跳ねて素早く下半身を俺の向きに合わせる。そして、あの夕陽に向かって、とでも言い出すかのように人差し指を俺に指し向けた。
「もしかして、後輩くんが? 気が利きすぎだよ。やっぱり以心伝心してるのかな、私たちは」
先輩の指す指先が、さっき俺が窓の桟に置いた缶ジュースに向けられる。俺は首を振って否定を示す。
「俺が買ったんじゃないですよ、石原先輩が依頼のお礼とし――」
「石原くんが? 石原くんといえば、後輩くん知ってるのかな?」
「何をですか」
俺が訊き返したのを話に興味があると勘違いしたのか、先輩は俺の横まで来て意気揚々と話し始める。
「もちろん、石原くんと紅葉ちゃんのことだよ」
「紅葉ってあの差出人の。そう言い出すってことは石原先輩と紅葉先輩は新たに付き合い始めたんですか」
「やっぱり後輩くんは知らないよね、紅葉ちゃんは石原くんの今も昔も……とは言っても一年くらい前からだけど、ずっと彼女だよ」
俺はその意味を理解できずに先輩を見上げる。紅葉先輩がこれまでずっと彼女だったのならば、あの恋文の差出人は現彼女ということになる。なぜすでに彼氏の石原に改めて恋文を書いたんだろうか。
「紅葉ちゃんって猫系でね。相手のことを好きなんだけど、それを隠そうとしてしまうタイプなんだよ。それに対して石原くんは男女が自他ともに認める人気者だからね。思いを上手く伝えれない紅葉ちゃんは焦ったわけだ。だから――自分で書いた恋文を石原くんに渡した。もちろん名前は書けなかったけどね」
「てことは、紅葉先輩の自作自演ですか」
「そういうことだね。紅葉ちゃんは石原くんが恋文を渡されたらどういう反応と決断をするのか確認したかったんじゃないかな。まあ、ありていに言えば、石原くんと親しくする周りの人への嫉妬ってことだね」
先輩はふふんと鼻を鳴らして腕を組む。
「それで、その二人の関係は今良好なんですか」
二人の関係に興味があるわけじゃない。でも何となく、あの去り際に石原が見せた笑顔が記憶に残っていて、気になる。
「もちろん、相思相愛! あれはもう誰かが別つことのできるような関係じゃないよ。石原くんなんて、もう紅葉ちゃんにべた惚れ。なのに紅葉ちゃんはそれに気づいてないからね。だから今回の依頼が発生したったわけ」
言われてみれば確かにそうだ。石原がこの予備6室に来た時、先輩との会話で断言していた。断るつもり、と。
「鈍感で心配性の彼女と人気者で一途な彼氏、お似合いだよね」
俺は一度首を傾げて無言を返す。それがお似合いかどうかは正直分からない。でも、石原と紅葉先輩が現状上手くいっているのなら、もう依頼をしには来ないだろう。来ないでくれよ。
先輩はドクぺを手に取って冷えた缶を温めるように両手で持ってから飲み口を俺に向けた。
「そういえば、私たちは自己紹介がまだだったよね。初めて会った時から随分と経っちゃってるけど、今更とか言わないで自己紹介し合おうよ」
「本当に今更ですね。加賀先輩」
ドクぺのプルタブを上げようとした先輩は一瞬身体の動きをぴたっと止める。関節に油を差し忘れたような動きでぎこちなくドクぺをもとの窓際に置くと、素早く俺の両肩をつかんで前後に揺すりだした。前後の動きに合わせて俺も前後に揺れ対応する。
「なんで知ってるの! 私の名前」
「石原先輩と会話していた時にたまたま先輩の名前が出たからです」
「そんなの卑怯だよ!、一方的に知ってるなんてっ!」
頬を膨らませて怒りをアピールする先輩。その後も「私は今憤懣やるかたないよ」だとか「怒り心頭、怒髪天を衝きまくりだよ」だとか何やら俺に小言を言って、結局最後に放った言葉は予想通りの質問だった。
「それで、後輩くんの名前は?」
「薬袋です。薬袋葵」
俺の肩に手を置いたまま顔を伏せた先輩は大きく頷いてから顔を上げる。
「葵くん、ね。覚えたよ。改めてこれからもよろしくね」
くるりと背を向けてスキップでもしそうなくらい軽い足取りで、先輩はテレビ画面前の席に戻りゲームを再開する。
そんな姿を一瞥してから俺は窓を開けた。青葉を茂らせた梢と晴天の境界が、暖かいと言うには少し暑いくらいに思える日差しを伴って明確な鮮やかさを際立たせている。
俺は報酬の缶ジュースを頬に当ててうなだれる。加賀先輩と距離が近かったせいか少しだけ熱い。気温のせいだ、と意味もなく誤魔化して俺は手にしたそれを飲んだ。
「そうだ葵くん、これありがとね。これからも毎週葵くんが買ってきてくれると思うと……。私はいい後輩を持てて幸せだよ」
「なんですかその話。それに今日ドクぺを買ったの俺じゃないです」
慌てて反論するもそれは虚しく、いつの間にかイヤフォンを付けてゲームをしていた先輩は俺の声に気づいていないご様子。窓から離れた俺は、イスに座って本の栞を挟んだところを開く。
四月最後の部活もやっぱり写真とは関係なく、それでも写真部として始まった。
読んでくださりありがとうございました。
感想や誤字脱字の指摘、なんでもお待ちしておりますのでお気軽に。
余談ではありますが、今回加賀先輩がやっていたゲームは、一応実際にあるゲームを書いたつもりでして、まず加賀先輩が探していたゲームソフトは『ラビリンスの彼方』というゲームです。私はこのゲームがよりきれいな画質でテレビゲームとして再度発売さればいいのになぁとよく思っています。
そして、相手の名前もわからなくても、意外と会話って成り立つ、という文章は『のーぶる☆わーくす』というゲームにでてきます。
次に出てきた、先輩が鬼トレと言っていたゲームは『ものすごく脳を鍛える5分間の鬼トレーニング』というソフトでかなり頭を使うゲームです。
最後に加賀先輩が部室でやっていたゲームは『Destiny』というゲームでプレイヤーが地球最後の都市を守るために戦うFPSゲームです。これに登場する武器や防具の説明にはいつもロマンを感じています。
いつも後書きを書く前までは、こんな話を書こうだとか思いつくのに、いざ書いてみると書くことがほとんど思いつかないのが私の現状です。とても無念。
というわけで、後書きはこれくらいにしたいと思います。
ご精読ありがとうございました。