バッドエンドのその後に、
聖女と呼ばれる一人の女性は、全く聖女のような器量も気質も持ち合わせていない人間だった。それは彼女と一緒に呼ばれた勇者と呼ばれる男性と対称的で、聖女は麗しい勇者や周囲からの怪訝な視線に酷く萎縮するばかり。勇者は聖女に同じ日本人であるというだけで酷く好意的であったが、勇者の優しさによって聖女は更に息が出来なくなっていたのは皮肉であろう。「私は聖女なんかじゃない、間違って呼ばれたのだ」と、そうやって自分を納得させればいい話なのだが彼女は自尊心が高く、どうにかして彼らの期待に応えてやらねばならないと思ったのだ。応えられないならば、本当に実行するかは別にして、死んで詫びるしかないとまで考えていた。彼女は自分の首を絞めることが酷く得意で、自分を追いつめてばかりだ。お前は自分自身の首を絞めて、生き辛そうにしている。そう言ったのは彼女のかつての知り合いであった。
聖女は呼ばれてからずっと、周りに対してオドオドとして何を言われても笑うばかりだった。
「聖女様はどうして、そう自分の品位を落とすのか」
お前の馬鹿さ加減にはうんざり。聖女と勇者を呼びたした魔術師の一人は、彼女を呆れたように見ていった。勇者と聖女の召喚は城の抱える魔術師だけでなく、有名な魔女や魔法使いにも力を借りて大規模に行われた。世俗を離れた魔女たちが力を貸したのは、凶悪な魔王の為である。
聖女に嫌味を言った魔術師は、表面上でこそ聖女を敬ってはいたが、瞳の奥は聖女をひたすらに見下していた。聖女がどうしようもなくて、ただ笑っていると、嫌味すら理解できないのかこの愚鈍な女は、と思ったのか彼は笑顔を消した。
聖女は聖女であるに神聖魔法すら使えず、教会で修行すると言う名目の下監禁されることに決まった。その頃聖女は勇者を避けていたので、勇者とも疎遠になっていた。聖女は自分の処遇を受け入れるだけで、首を横には振らない。
しかし聖女もただの人間であったので、自分の処遇が決まった時は流石に声も漏らさずシーツの中で泣いた。教会行きは、聖女が使えないと判断されたことを意味する。聖女が人の反感を買わないように笑っていたのも、文字の勉強をしていたのも、魔術の勉強も、この瞬間全てが無に帰ってしまったのだ。彼らの期待に応えられなかった申し訳なさ、成果が出せなかった不甲斐なさ、魔術師たちを見返せなかった悔しさ、そして何より空しさで聖女はこの世界に来て初めて泣いた。聖女はドアの前に騎士が居るので、嗚咽の一つすら漏らすまいと、拳を握った。聖女は自尊心が高すぎて、人に頼るということが出来なかったのだ。
聖女は教会へと引き取られた。教会は神にのみ仕える、王の支配下が及ばぬ聖域である。王が呼んだ一人の女など関係が無い、と教会の人間はただただ聖女に冷たかった。どうして文字が読めないのか? どうして料理が出来ないのか? どうして掃除すらまともに出来ないのか?
(だって、誰も教えてくれなかった……)
聖女はひたすらに耐え忍んだ。誰にも頼れず、手は皸が増え、頬は扱けた。食事の際に聖女がスープを口に運ぶと、「何もできないくせに、食事量は豚なみね」と噂され、聖女は喉が詰った。そう言う彼らは肉を食べているようだった。聖女はそれを見ながら、この世界に来て、久しく肉類を口に運んでいないことを思い出した。肉を食べると血が穢れる、と城の人間は考えている。甘味などの贅沢品を食べると、魂がぶくぶくと肥る、とも考えている。城で彼女が食べたものと言えば豆と野菜だけだった。聖女は城を出た後も城のルールに従っている自分に気が付き自嘲する。周りに認められない自分を、聖女自身ですら認めることが出来ない。聖女は聖女になろうと、城でのルールにただただ従った。
食べ物の味など忘れ、悪夢ばかりを見た。中でも勇者に、「キミって使えないね。何のために生きているの?」と言われる夢は流石の彼女も大分堪えた。聖女は宵も朝も恐れ、ただただ廊下に差し込む夕日を見て目を潤ませるのであった。
聖女はこの世界に来てから、自分が弱くなってしまったことを自覚していた。
そして、時間だけが平等に訪れる。
聖女は神殿の床を、誰も居ないのをいいことに泣きながら拭いていた。いくら泣いても涙は枯れず、今ではただただぼんやりと顔で手を動かしている。バケツに入っている水は冷たく、掃除は教会で嫌われる仕事の内の一つであった。魔王が現れてから空は曇り、霧が世界を覆っている。そのせいで、世界はいつも薄暗く凍えた空気に覆われていた。
聖女は何も置かれていない中央を見た。神が降りるという神聖な場所であり、そこで教会の預言者は信託を受けると言う。聖女は雑巾から手を離し、目元を拭った。瞬きもせず、その瞳はただただ何もない空間を見ている。
(……かみさま、たすけて)
聖女は生まれて初めて、心の底から自分のためだけに神に祈った。
「……お、……おぉ……遠き……世界の子……」
木の擦れるような小さな声が聖女には聞こえた。聖女の頬は乾き、頭には温かい感触がする。それは些細なものであったが聖女には確かに感じられ、驚いて聖女は辺りを見渡す。そこには聖女以外依然として誰の姿も見えなかったが、誰かの暖かい気配を聖女は感じた。
「……私の、声が……聞こえる……のか。……ああ、久しい……。人は信仰を、失っては……いなかったのだな」
聖女の目の前に、クルミのような木の実が落ちてきた。驚いて見上げるが、そこにあるのは閉塞感を与える白い天井だ。
「噛まずに……お……食べ……。私が……お前を……見守って……やろう……」
それっきり声は聞こえなくなった。聖女は声も木の実も自分が生み出した幻覚や幻聴ではないかと一瞬思ったが、それがどうしたのだと笑った。狂人になるのも、いいかもしれない。聖女はそのクルミのような木の実を拾い、恐る恐る口に運ぶ。飲み込めそうにないが、無理やりに唾と一緒に飲み込んだ。
「……!」
胃が焼け付くように熱い。何かが詰って言葉が出てこない。聖女は腹を押さえて、額を床に付けた。何かが血と一緒に巡り、米神に走る血管がピクピクと痙攣する。飲み込めない涎が口から出て、聖女は自分の無様な末路を大声で笑いたい気分であった。ああ、ついに私は死ぬのだ! 嬉しさが聖女を支配する。
痛みはゆっくりと引いていったが、聖女は痛みの代わりに襲ってきた睡魔に身を委ねた。
__勇者が魔王を倒して帰ってくると、彼は同郷の聖女と呼ばれる女性を探した。まず勇者は彼女が教会に居たことをこの時初めて知ったのだが、教会から送られてきたのは、聖女は修行中で会えないという返事のみであった。どこかきな臭さを覚えた勇者が強引に教会の中に入ると、そこには聖女は居なかった。勇者が問い詰めても彼らは知らないという態度を貫いていたが、やがて勇者に懸想する一人の信者が真実を漏らした。
「聖女様は神様の元へお帰りになりました」
勇者は酷く動揺した。聖女は勇者に巻き込まれたただの女性であることを、勇者自身が感じ取っていたのだ。自分の召喚に巻き込まれて、一人の女性が死んだ。一人の女性は聖女でもないので、聖女と言う重さに死んだ。そして彼女に聖女と言う錘を乗せたのはこの世界であり、勇者であった。勇者は彼女を聖女にすることで、彼女の身を守ったつもりだったのだ。
「死体……は」
死体さえあれば、禁忌の魔術でも魔法でも使って生き返らすことができるかもしれない。もし駄目でもアンデットとして、蘇らすことは可能であろう。しかし教会の人間の答えは、勇者の予想とは全く違っていた。
__王国からの使者が死体などと言う穢れた物は要らないと言った。引き取り手も居らず、神殿に居たのに神にすら助けて貰えなかった女を、神が迎えに来て土に還れるとも思えない。だから死霊術士がその死体を譲ってほしいと言うので渡した。今その死霊術士がどこに居るかはわからない。
「勇者様も、彼女の遺体が死霊術士の研究の助けになるのなら、よろしいでしょう」
その教会の人間は、むしろ開き直って勇者に告げた。彼らは勇者が怒らず、ひたすらに自分を助けてくれる大衆のヒーローであると確信しているのだ。でなければ、勝手に召喚されたにも関わらず魔王を倒しに旅になどでるわけない。しかしそんな予想とは反対に、勇者は表情を消して言った。
「それで、いくらで売れたの?」
__勇者は、既に元の世界に帰る方法が無いことを聞いていた。しかし、同じ世界からやって来た聖女が居るならば一緒にその方法を探して行けると思ったのだ。勇者にとって聖女は元の世界を想起させてくれるただ一人の人間であり、勇者にとって彼女はただ一人の聖女であったのだ。
勇者はこの世界の身勝手な人間に絶望し、史上最悪にして最恐の魔王として世界に君臨する。
「ふー、ふー」
再び死の霧が蔓延した世界で、濃い霧に姿をぼかすようにして人影が二つ焚き火を囲んでいた。その内、大きめなローブで体を覆った少女は両手で抱えているカップに熱心に息を吹きかけている。カップには木の実が入ったスープが入っている。
「ああ、ほら。また頭から芽が出ているわ」
焚き火を挟んで少女の前に座っていた女性が、自らの頭を指さす。少女は目を丸くして、きょろきょろと辺りを見渡す。
「かみさま、わたしの頭に葉っぱはやした?」
まるで誰かの吐息を感じるかのように、焚き火の炎が揺れる。そのゆらぎは穏やかに笑っているようだ。ただ。風は無い。それを気にせず、女性は優しく微笑んで少女の頭に触れた。
「近くの村に行くから、気をつけないと」
ぷちりと少女の頭に生えていた芽を抜くと、少女は静かに笑った。
__女性はこの少女と出会ったことを思い出す。
この女性は死霊術師である。しかしさすがに死体を操るというのは冒涜的で、周囲から理解を得られたことなど一度もない。死霊術師とは忌み嫌わる人種のうちの一つである。そうして彼女は周囲の協力を得られず、実力はありながらも、動物やモンスターの死体でしか自分の魔術を試したことが無かった。
普段彼女は過去の偉人達が残した神秘__魔法について書かれた魔導書を探して各地を旅しているのだが、その時は偶然日用品を買うためにある街に寄っていた。
その時、会話が聞こえたのだ。
「あの穢れた死体はどうしますか」
「土地に埋めるのも汚らわしい……」
「森に捨てに行くのも危険だ」
「困った……」
女性は、自分の死霊術をかねてから人間に施して見たいと考えていた。そこで、服装から見て教会関係者だった彼らにその死体を買い取るという話を持ちかけた。最初はもちろん断られるかと思ったが、彼らは喜び安値でそれを売り払い逆にこちらが戸惑ったくらいだ。
彼女は当初、おぞましい死体を予想した。疫病で死んだか、毒で苦しんで死んだか、はたまた霧を吸いすぎて精神をやんだか。結論から言えば、それは全て間違っていた。むしろ正反対であった。
その遺体は美しかった。
腐敗など、ちっとも進んでいなかった。信じられないことに、眠っているように死んでいた。真っ白な肌、俗世間の浅ましさなどという余計なものを削ぎ落したのか細い体に、穏やかな表情。体は軽かった。魂だけの重さのようだった。無垢だった。その体を初めて抱きかかえた時、そのあまりのか弱さに女性は涙くんだほどだ。
女性は彼女に術を施すことをやめた。死霊術をかけた物は、目は濁り知性をなくし、この世で最も浅ましい物の一つになる。女性はそれが許せない。少女は美しい。美しいものだけが彼女に凝縮されてしまったので、この世界は汚いのだとさえ思った。
女性が物言わぬ少女の遺体を、大切に保存しようと考えて眺めている時__彼女は瞼を開けて美しいガラスのような瞳を女性に向ける。
少女は女性の目の前で、確かに生き返ったのだ。
そうしてその後も、女性はこの少女と穏やかな旅を続けている。
唯でさえ大地は枯れ果て、大地から芽を出すことなど殆ど無い。それに加え、微かに芽を出したものは殆ど毒を含んでいる。しかし少女から生える草木は毒など微塵も含まれておらず、放っておけば一日で大樹にまで成長する。少女だけが、この世界でただ一人神から赦されている。少女の言う「神様」の姿は見えないが、女性はそう感じていた。むしろ少女自体が女性にとって神様だ。
女性は自分の膝に頬をのせ、じっと少女を見る。この少女は何者にも侵させてはならない神域だ。自分が命を掛けても守らなくては……。特に今の魔王は、死霊術師と一緒にいる人型のアンデットを根こそぎ壊していくという。死霊術師に酷い恨みがあるのだろうか。女性は今となっては元死霊術師であるが、魔王から彼女を守らなくてはいけない。いや、全てのものから。
こうして史上最悪と畏怖される魔王が世界を死の霧に包む中でも、聖女だけは神の愛を受けて穏やかに過ごしている。心と正気を侵されながら。