02 - オレのかわいい妹
四月七日。
ピンクのワンポイント刺繍のついたレースカーテンから朝の光がこぼれている。
【翔子】
「変なところはないかな」
池上翔子は自室の姿見の前で朝の支度をしていた。
大きな鏡に対して正面に立ってまずリボンタイや前髪の出来をさっと直すと、次に右に向いてみたり後ろに向いてみたり、三百六十度その場でくるくると回った。
鏡に映る自分の姿を見ようと首をひねっているため、後頭部が確認できないが、そのほかのチェックはしっかりできそうだ。
スカートが折れていないか、リボンタイが曲がってはいないか、変な皺が出来てはいないか。ひとつひとつ真剣に確かめていきながらも、心が弾むのを押さえられない。
くるりと旋回するたび、着ているブレザーからまだ真新しいにおいがした。
今日は、これから三年間通学することになる高校の入学式だ。
三度目に姿見を正面から覗きこむと、ちょうど背後に映った壁掛け時計が七時を打った。
【翔子】
「いけない、お兄ちゃんを起こさなくちゃ」
翔子はぱたぱたとスリッパの音をたてて廊下を駆け、迷いなく『まさとのへや』とプレートの掛けられたドアの前に立った。控えめにノックをする。
【翔子】
「お兄ちゃん。おはよう。もう朝だよ。朝ごはん食べよう」
【雅人】
「あ、ああ、おはよう。もうこんな時間か」
慌てたような声で部屋から出てきたのは、翔子の兄、池上雅人だ。短めの黒髪にすっきりと整った面立ちで、口元には常に優しげな微笑みを浮かべている。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、優しくて頼りになる翔子の自慢の兄だ。
雅人は何かに驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせ、翔子の頭の先からつま先まで観察するように視線を動かした。
【雅人】
「ああ、それうちの制服か……。なんだか高校生みたいだな」
【翔子】
「もう。『みたい』なんじゃなくて、今日から本当に高校生なんだよ。お兄ちゃんったらわたしのこと、子ども扱いばっかりするんだから。ねえ、どう、似合ってるかな?」
【雅人】
「ハハハ。何度目だよ、そうやってオレに聞くの」
【翔子】
「だって心配なんだもの」
だから教えて、と翔子がねだると、雅人はにっこりと爽やかな笑みを浮かべ、妹の望む答えをくれるのだった。
【雅人】
「似合ってるよ。すごく可愛い」
【翔子】
「ホント? 嬉しい!」
【雅人】
「うん。父さんと母さんに見せたいくらいだ」
【翔子】
「びっくりしちゃうかもね」
両親がいなくなってからというもの、翔子は兄と二人きりで生活している。大変なこともあったけれど、兄がいれば翔子にこわいものはなかった。
【翔子】
「お兄ちゃんは早く行かなきゃならないんだよね? 急いで朝ごはん食べなくちゃ」
【雅人】
「そうだな。ありがとう、翔子」
兄に頭を撫でられて、翔子はくすぐったくて肩をすくめて笑った。
◆◇ ◆◇ ◆◇
――と、まあ、オレの愛しの妹・翔子が自分の部屋で着替えをするところと、オレの部屋に起こしに来てくれたところまでが、目の前に浮かぶ『テキストウィンドウ』にリアルタイムで表示された。
これで『オレ自身はゲームのキャラクターではないのではないか説』は、はやくも崩れ去ったわけだ。
同時に妹についてもそうだ。
ウィンドウに表示された文章で、誰が主人公かはっきりしてしまった。
この世界は、どうやらオレの妹が主人公らしい。
内心かなりキョドっていたわけだが、テキストを読む限りでは翔子には不審な目で見られなかったようだ。オレから見る分にもいつも通りだった。
しかし、『テキストを読んで妹の内心を伺う』というのはなんとも趣味の悪いことだ。今は何も表示されてはいないが、二十四時間妹の内情を綴られていたなら、覗き見をしているようで居心地が悪くてしょうがない。
翔子は何も知らない、のだろう。もしもこのファンシーチックな画面が見えていたら、オレに真っ先に相談するに決まっている。
リビングへ続くもっとも日常的な廊下が、非日常的に見えるのはこのウィンドウのせいだ。これがあるだけで、何だか視界が切り取られた世界、作られた世界のようなのだ。手を伸ばして視界外の壁に触れてみれば、ちゃんと見えないけれど壁は存在しているというのに。
リビングのドアを開けると、カーテンが開けられていて朝の光が眩しい。今日は晴れだ。鬱々とした気持ちがさっと太陽で照らしだされたような気がした。
「今日は晴れてよかったな」
「うん! 予報ではちょっと心配だったけどね。せっかくの入学式だもん、晴れてくれてよかったあ」
おや?
翔子と会話を交わしたのに、ウィンドウにはなんの文字も浮かんでこない。これは、どういうことだ?
昨日の残りを適当に温めて食卓に並べ朝ごはんとする。テーブルに向かいあって座り、翔子といただきますと互いに言い合う。
すると、目の前に『朝食を食べた』との一文が表示された。
どうやらテキストとして表示されるものと表示されないものがあるようだ。
おそらくウィンドウに表示される会話や文章には恣意的な省略があるんだ。
誰かの意思が組み込まれている――いや、誰かというよりも『世界の』と言った方がそれらしいだろうか。
階段でのちょっとした天気の話や、「いただきます」なんかは文章にならない。行動もそうだ。
この画面構成――ノベル形式のゲームなら、背景画像を変更したりSE(効果音)をつけたりして移動したことを表現するのだろう。
いちいち表現していたらテキストの量は膨大になる。ゲームとしては当然のことだ。作文教室と同じだな。遠足の日の作文を書くのに朝起きてから始めたらキリがない。
この世界は『ゲーム』だ。重要なことだけを綴ればいい。
さて。どうしようか。自分のセリフがリアルタイムに表示される気持ち悪さは尋常じゃない。『この世界』にとって何が重要なのか見極めるために、何か話題を出してみようか。
「ごちそうさま」
「え! お兄ちゃんもう食べたの、はやいよ」
あ、これは話題としてダメか。そりゃそうだ。「いただきます」がダメなんだから、「ごちそうさま」もカットだよな。
食器を重ねて流しに持っていった帰りに、翔子の後ろ髪が目に入る。
「なあ、後頭部の髪、めちゃくちゃ寝ぐせついてるけどいいのか?」
「えっ、うそ! ちゃんと梳かしたつもりだったんだよ。どうしよう」
「しょうがないやつだな……おまえはそのまま食べてろ。オレがやってやる」
テキストウィンドウに表示された文章のなかでも後ろ姿を気にしていたようなそぶりがあったけれど、それでも見落としてしまうところが翔子らしい。
「ホント? ありがとう、おねがい、お兄ちゃん」
「ああ」
櫛とヘアスタイリングスプレー、輪ゴムみたいな小さなポリウレタン製のヘアゴムにヘアピンを持ってくる。
ここまでテキストウィンドウが何の興味も示さないのが悲しい。なんだっていうんだ。ムダな会話じゃないぞ。兄と妹の交流に重要なことだろうが。
「痛かったら言えよ」
「はあい」
ほんとうはお湯で蒸らしたほうが妹の髪のためにはいいのだが、生憎とそんな時間はない。ヘアスプレーを掛けるだけで済ますことにする。頭皮を痛めないように慎重に櫛を入れながら、絡まった部分をまっすぐになおしていく。
「ふふ、くすぐったい」
「あ、コラ、結ってる最中に動くな」
「だってお兄ちゃんの指くすぐったいんだもん」
「はいはい」
髪の毛同士の絡まりを無くすより、翔子が揺れるほうに手こずりながら、サイドの髪の毛を半分ほどゆるく編んでバックで結い、その上に残しておいた髪を被せた。
正面に回ってバランスを確認したが、サイドだけが薄くふわっと膨らんで、玉子顔を包み込んで柔らかい印象になった。うん。かわいい。力作である。
「どうだ? 出来たぞ」
「わーい、ありがとう、お兄ちゃん」
鏡を渡して確認させると、妹はあちこちに掲げてキャッキャと無邪気に喜びの声をあげた。とてつもなくかわいい。
一緒に登校できないのが残念だ。というのも、在校生は新入生のための準備でセッティングをしなければならないのだ。
【雅人】
「そういえばおまえ、ひとりで迷子にならずにうちの高校まで来れるか? オレと一緒に来るか」
来た!
何気なく話題として出したことだったけれど、やっと『世界』に会話として認識された。何が引っかかったのだろう。
【翔子】
「迷子になんてならないよ。大丈夫だもん」
【雅人】
「嘘つけよ。この間説明会に来たときは、半泣きでオレのところに電話掛けてきたじゃないか」
ニヤニヤ笑いながら言うと、翔子がどれだけむくれたかがテキストに説明される。説明されんでも、オレは見てるから分かるんだけど。
っていうか、翔子と向かいあってこのピンクの画面がずっと表示されたままだと、なんだか妹ゲームをやっている気持ちになるな。妹育成ゲームとかそういうの。
……それもいいな!
【翔子】
「敦志と一緒に行くから平気だよ」
翔子の言葉に、ぎくりとした。高揚していた気持ちがすっと冷えていく。
オレは重要なことを忘れていたのだ。この世界が妹を主人公にしたゲーム世界だとして、いったいどんなゲームであるのか、ということ。
【雅人】
「え、誰と行くって?」
【翔子】
「幼なじみの南敦志だよ。同じ高校受けたの。言ってなかったっけ?」
こてんと首を傾げて不思議そうな顔をする妹は殺人級に可愛かった。言っていることはオレ的には歓迎できないものだが。
そうだ、この世界は――、乙女ゲームの世界なのだ。一人の少女を複数人の男たちが取り巻くあの世界。
いくら振り払おうとも奥底から不気味に浮き上がってくるゾンビみたいな憎たらしい世界認識。
それは正しい。なぜかわかる。
【雅人】
「……そうか、なら迷子の心配しなくていいから安心だな。敦志にあんまり迷惑を掛けるなよ」
喉から絞り出すようにして出た言葉は、当たりさわりのないことだけだった。わかった、と素直に頷く翔子を見るのが辛い。
大声で叫びだしたい気持ちになったけれど、オレには妹の笑顔を崩すことはどうしてもできなかった。