01 - 世界は同じ物語を繰り返している
池上翔子はオレの妹。たった一人の肉親だ。
誕生日も、クリスマスも、高校に合格したときも、ケーキを囲んで二人きりのパーティをしたものだ。
まだ両親も存命中だったころ。連れてってもらった遊園地で、二人きりで迷子になったことがあったっけ。彼女はちっちゃな手のひらをオレの指に絡ませて、今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪えていた。
「おにいちゃんがいるからへいきだよ」
小さな彼女を守ってやらなくっちゃと、その時心に決めたのだ。子どものころのオレは、彼女を守る唯一の勇者だった。
けれど、それは仮初の勇者だ。
オレたちの両親がそうであったように、またあらゆる物語に描かれているように、彼女は誰かと恋に落ちてパートナーを選びオレの手から離れていく。
オレはそのことを物心ついた時から知っていた。理解していたつもりだった。
だけどまだまだ遠い日の話で――遠い未来、人生を歩むパートナーを見つける日まで、彼女はオレの庇護の下にずっとあるものだと。そう思っていた。
オレの手から離れる日は、すぐだ。
ある日の彼女はウェディング姿で幸せそうに頬笑む。
ある日の彼女は男に暴行をうけて心を閉ざす。
ある日の彼女は子どもを孕み男の手に抱かれている。
ある日の彼女はオレの知らないところで男に監禁されて、それを幸せそうに受け止めている。
それはこれまで事実起きてしまったことであり、同時にこれから起きる可能性のあることでもある。
世界は彼女を中心とした物語を何度も何度も繰り返している。
◆◇ ◆◇ ◆◇
「四月七日……?」
小鳥の囀り。朝日が射すベッドの上。身体を起こしたオレは、しばし呆然としてしまった。
(――なぜ、四月七日なんだ?)
七月二九日に車に轢かれた少女は?
いや違う。九月十八日の新人戦で翔子が――。
いや待て。あの子どもを抱いていた女性はオレの妹だったような……。
「なんだ、この記憶は。なんで、今日は四月七日なんだ。……っつーか」
ちかり、ちかりと頭上で点滅するピンクの光を睨みつける。
『4/7』という表示されているそれ。
ピンク色のファンシーなウィンドウだ。
おい、なんかレースで縁取りされてるんだが、このセンスどうなんだ。いいのか。設計者誰だ、出て来い。
(設計者って、何言ってんだ。オレ)
無意識のうちに、この世界が二次元世界だということを認めてしまっているじゃないか。
まさか。そんなはずはないのに。
現実と非現実の区別さえつかなくなってしまったなんて、マジでどーかしている。
(自分が何者か、ってくらいは覚えてる。大丈夫だ)
名前、池上雅人。
性別、男。
年齢は十七歳、この春から高校三年。歩いて十五分の地元の公立高校に通っている。
およそテストや試験というもので不自由したことはないし、特に勉強もスポーツも真剣にやったことはない。騒ぐのは好きではなく、穏やかに過ごしたいと思っている。コミュ障ぼっちに近いのは自覚済。
隠れオタクであり、二次元限定の百合好き。
三次元で大事なものは妹だ。妹が幸せになればそれでいい。彼女なんか作る気が無いし、妹以上に可愛い女の子に出会ったことはない。
両親が事故で死亡したのはオレの十五の誕生日。それから約二年半、二人きり親の遺した一軒家で暮らしている。遠い親戚はいるのだが、親の財産と保険金が多かったために金銭的援助をしてもらったことはない。この二年半、二度ほど顔を見にきただけの薄っぺらい関係だ。
オレたち兄妹は楽しいことも悲しいことも二人で分かちあって来た。
特に苦労を感じたこともないし幸せに暮らしている。奨学金制度でも狙えば大学進学もできるだろう。妹が二十二・三になるまでの生活費はオレが稼がなければならないから、バイトもしつつ初任給から高給狙える企業に就職するのだ。
(だから、困るんだよ。若年性健忘症だか、精神病だか、記憶喪失だか知らないけど、ゲーム世界だ? 二次元世界だ? やめろやめろ、池上家はオレがしっかりしないといけないんだよ)
直近の記憶は、三月にシシオから『乙女ゲーム』なるものを借りたところで止まっている。おそらくそれを巡回・クリアしたのだろう。春休みなんかバイト以外することがないから、当然なんだが。
それより、ゲーム以外に何をしていたのか全く思い出せない。ご飯を食べたか。風呂に入ったか。春期休業中の課題は終えたのか。バイトへ行ったか。本屋に行ったか、映画を見たか、友人とカラオケに行ったか。妹と何か話したか。
そんな当たり前のことさえ記憶にない。
気づけば四月七日で、ベッドの上でぼんやりしている。
若年性健忘症、あるいは精神病の一種かもしれない。意識の混濁。直近の記憶の欠落。ファンシーなウィンドウなんてもんの幻まで見えている。
オレはおかしくなってしまったのかもしれない。
日付表示ウィンドウ。テキストウィンドウ。発話者名、システム、好感度、オプション、セーブ&ロード、テキストログ。
およそ現実に合ってはならない物体がどうして目の前に浮かんでいるのだろうか。まるでシシオに借りたゲームの画面構成みたいじゃないか。
幻、だろう。
幻、であって欲しい。
だがどれだけ脳内で否定しようが、「この世界が乙女ゲーム世界かもしれない」、という仮定がどこからともなく心の底にじわりじわりと湧いてくるのだった。
なぜそういう発想に至っているのか、そしてその荒唐無稽な妄想をどうして完全に無視できないのか。視界を独占するピンクのウインドウが圧倒的説得力を持っているというのもあるのだが、【なぜかそう思わざるを得ないような気がする】という訳の分からない考えが根幹にあったからだ。
何か――何か自分のなかに抗えない力が働いているような気がした。その疑念の種は無視できないほど気持ちの悪い塊だったが、いくら否定しても気づけば肯定する考えに至っているのだから、もう自分ではどうしようもなかった。
「フザけんなよ……」
呆然と呟いて、無反応のウィンドウに違和感を覚える。
「あれ? なんでウィンドウに会話文が表示されないんだ?」
もしも本当に『現実=乙女ゲーム世界』という図式が成り立つとするならば、会話文と主人公に寄り添った地の文がウィンドウに表示されるはずではなかろうか。
つまり登場人物が自由に発話したセリフも表示されるはず。
え、もしかして。
「オレ、ゲームのキャラクターじゃなかったりする?」
だとするならちょっと嬉しいかもしれない。
主人公と、主人公を落とす……じゃなかった、主人公に落とされる攻略対象(男)で成り立つのが『乙女ゲーム世界』である。乙女ゲームを一本やっただけのにわか知識で悪いが、まあ、大きく外れてはいないだろう。
つまるところ。『乙女ゲーム世界』の主人公=男にモテモテ=超絶可愛い女の子をこの現実で探そうと思ったら、翔子(オレの妹)以上の可愛い女の子なんているはずもないわけだから、必然的にオレの妹が主人公になるわけだ。
乙女ゲームの主人公であるということは、攻略対象(男)と恋をしなければならない運命にある、ということと同義だ。
オレの妹が恋人を作る……だと……? そんなのは嫌だ。マジ無理ダメダメダメ許しません。
でももしオレがゲームのキャラクターじゃないとするなら、オレに近しい女子(そんなものは妹以外を置いていないわけだが)もゲームと無関係ということでセーフじゃないか? という発想に至った訳である。説明が長くなって済まない。
もしも乙女ゲーム世界だとしても、オレがゲーム内のモブキャラでしかないとしても、妹と『今まで通り』幸せに暮らせるなら真実はどうでもいいのだ。オレはこれまで通り穏やかな日常を送るだけ。
「……気になるのは」
瞬きする度に、何通りもの未来の夢が瞼の裏に描かれていく。
「あの夢がなんだったのかってことだけだ……」
翔子が死んだり嫁に行ったりする、信じがたい姿が苛烈なほど鮮やかに思い出され、オレの精神を痛めつける。春休みを過ごした記憶はないのに、そのあり得ない未来世界は新しくその枝葉末節に至り思い出され、さも今まさに体験してきたかのようなのだ。
もしこの感覚をそのまま信じるなら、『この世界の物語が繰り返しと巻き戻しに囚われている』ってことじゃないか。
オレは一番目のオレじゃなくて、複数回物語を体験した後のオレ、ってことになる。
ばかばかしくなってきた。
今日も授業は通常通りにあるのだ。こんなことを考えている場合じゃない。登校準備にとりかかることにした。