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天狼の巫姫  作者: 利月
二章
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其ノ参

 管だらけの腕が狙ったのは犬神の首、しかしカゼヤが前を向いたまま犬神の足を払うほうが早かった。均衡を崩した犬神が切られることはもちろんなく、獣より細いはずの人形の首にかすり傷一つ付けられぬまま、白刃が空(くう)に軌跡をえがいた。

 本能的に獣形(じゅうけい)に戻った犬神の頭上を、もう一度白刃が掠める。抜いたときと同じ速さで、カデナは刀を収めた。

「刀を持てカゼヤ」

 トツカノツルギを突き出され、カゼヤは母を見据えた。

「要りません」

「なぜだ」

「それは犬神を殺した道具です」

「だから何だと言う」

 意にも介さず返され、カゼヤの紫水晶色の双眸にぎゅうっと光が宿った。

「お忘れ召されるな。この犬神が選んだのは、刀を持たぬ私。その信に報いるは主の務め。飼い犬一匹信じられぬようでは、主など務まりません」

「侮られることを良しとするか」

「侮られたことなど一度もありません」

「詭弁だ。過去なかったからとて未来ないとは限らぬ」

「主はこの私です」

「その主が不甲斐ないと言っている」

 切りつけるように返し、刀をさらに突きつける。鞘の切っ先が、カゼヤの腹を押した。

「不甲斐ない主に飼われる犬がただの愛玩ならば許そう。しかしソレは愛玩ではない。――呪いだ」

 引くことも避(よ)けることも払うこともせず、カゼヤは立ち続ける。――犬神を背にして。

「人は常に脅威にさらされている。平穏が続かぬという脅威、愛しいものを失うという脅威、慈しんでいたものが壊れるという脅威、そしていずれ死ぬという脅威。――殺され、奪われ、戻らないという不可逆に対する脅威だ」

 それは呪いの始まり。

「世界は進む。戻りはしない。人が時があるいは自ら、不可逆に踏み込む。不可逆に巻き込まれる。それら脅威を少しでも遠ざけるために私たちの祖先は神を降ろした」

 それは最後のよすがであり、最大の罪だった。

「神を神の座から引きずり下ろした。その力を振るうことを強いた。当然のように祖先は呪われた」

 人々から脅威を遠ざけるために、たった一人が犠牲になった。――しかし、今は。

「現在(いま)、その呪いをはね除ける刀がある。神を降ろした当事者さえも不可逆に飲み込まれにくい世界を形作れるのだ」

 犠牲になるのは神のみ。搾り取られて、灰も残さぬほどの利用を経て、ようやく神の座に還ることができる。

 しかしそれは、もはや神ではない。人に組み敷かれた神はただの、呪いの塊にしかなり得ない。

 カゼヤは深々と息を吐いた。

「――だから何だと言うのです」

 冷涼すぎる声で、言い放つ。

「私には、刀は要りません」

 腹にめり込む切っ先を押し返す気迫と声量でもって、カゼヤは危惧も諫言も退けた。――すべてを杞憂にしてみせると、腹を痛めた母に誓った。

 カデナは睨むように眉をひそめ、一瞬ののちに目を閉じた。深々と息を吸い、ゆっくりと吐く。

 強固な決意、盤石の盾のごとく揺るぎなく。神からの呪いさえも受けて立つ、無謀無軌道にして気高き巫姫(ひめ)。

 カデナは目を開け、刀を引いた。カゼヤと視線を合わせず、前を向いたまま告げる。

「私は一度、ソレに敗れた。ゆえにもう、ソレを所有しようとする資格はない。――ソレはおまえのものだ」

 それは暗に、カデナが二度と犬神に執着しないことを明言するものだった。――犬神の一切を、カゼヤに一任すると。

「おまえは十三(おとな)だ。自分の命は、自分で守れ」

 言って、カデナは少しだけ刀を抜いた。刀身に映る己を見つめ、続ける。

「自らの命綱となる刀を自分の意志で手放し、断ち切るは結構。それがおまえなりの、おまえ自身の命に対する向き合い方ならば」

 それは暗に、カデナが刀に関するすべてをもカゼヤに委ねることを明言するものだった。

 カデナは刀を収め、そうしてようやく、カゼヤ(むすめ)を見た。

「しかしおまえが要らぬからと言って刀をへし折るわけにもゆかぬ。これは神宝の大刀、のちの犬神の主へと受け継がれるべきもの。――分かるな?」

「もちろんです。私の一存だけで刀を滅すること、望むところではありません」

 うむ、とカデナは頷く。

「――ということだ、ロウセン」

 障子に向かって声をかければ、音もなく障子が滑り、笑顔を浮かべたロウセンが現れた。ロウセンは困ったように笑いながら、カデナの側へ寄る。

「前例がございませんぞ?」

「何を今更。私は祀宮廟に祀るがよいと思うが、不安ならロウセン、次の主が現れるまでおまえに預けようか?」

 にやりと笑って、カデナは今度はロウセンに刀を突き出した。ロウセンはその場に平伏する。

「とんでもないことでございます。取り急ぎ祀宮廟にお祀り申し上げましょう」

 その答えにカデナは満足げに頷いて、娘を呼んだ。

「祀りはおまえに執り行ってもらう。――それくらいはできるな?」

「はい。心得ました」

 承諾して、カゼヤは両膝を突き、胸の高さで両手を重ね、その手の甲に軽く額を押しつけた。それでは、と刀を捧げ持ったロウセンが声をかける。

「トツカノツルギを梓の箱に収めてまいりますので、カゼヤ様はお待ちくださいませ」

「分かった。簀子に下がっていよう。――行(ゆ)くぞ、犬神」

 号をかけ、カゼヤは一礼して部屋を後にする。その小さな背についていくのは、狼に似た犬神。

 見送って、ロウセンは苦笑混じりの溜め息をそっと零してから、カデナに一礼し、奥へと引っ込んだのだった。

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