其ノ壱
雨が降っていた。
玻璃窓越しに地を叩く音は沢辺にも似た音、どこか心落ち着く調べであった。
カゼヤは籐(とう)の揺り椅子に深く背を預け、片手で掲げた書物を読んでいた。器用に親指で頁(ページ)をめくっていく。――あれから一月(ひとつき)近く経ったが、いまだ傷口は塞がっていなかった。
犬神はといえば、あれ以来人の形を採ることはほとんどなく、今も犬の姿でカゼヤから少し離れた場所、扉脇にある棚の横で前脚の上に顎を載せていた。
逃げ出す様子もなく、かといってカゼヤの側近くに寄るわけでもなく、犬神はカゼヤと外部への出入口から常に適当な距離を置いて伏せっていることが多かった。――その距離こそが、この歪(いびつ)な主従関係の有り様(よう)であるというように。
カゼヤのほうも、あえて犬神に擦り寄っていくようなことはしていない。それは主として馴れ合いのような触れ合いは不要との結論を下したからであった。
そんなものなどなくても、カゼヤが犬神の主となったことは事実だし、犬神もまた、カゼヤを主に選んだことに変わりはないのだから、それでいいと思っていた。
ぱらり、と頁をめくる。
読んでいるのは『犬の飼い方』。
犬神はすでに犬ではないが、しかし犬以外ではない。元が犬なのだから、基礎知識を得ておきたかった。
無論、犬神もカゼヤが今どういった内容の書物を読んでいるのか知っている。特にどうとも思わないが、気休めにもならないだろうと思う。
排泄の躾を読み込んだところで、当の犬神が排泄をしないのだから、意味がない。それでも過去、排泄をしていた頃の犬神の――犬の生態を知りたいと読んでいるのだから、主はたいそうな物好きだ。
と、扉を数回、何者かが叩く音がした。
カゼヤは親指を栞代わりにして書を閉じ、扉に向かって誰何した。扉の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。
「カデナ巫女姫より」
出された名に、カゼヤは眉根を寄せた。揺り椅子に座ったまま背筋を伸ばし、「何用だ」と問えば、は、と短く返される。
「恐れながら申し上げます。現巫女姫様が次期巫女姫様をお呼びとの事。至急、御寝所まで足をお運びくださいますよう――」
「分かった」
カゼヤは了承し、犬神へ視線を滑らせる。
「母様は他に何かおっしゃっていたか」
「いいえ。何も」
その返答にカゼヤは思考をめぐらす。――犬神に対する言及がない。母はどういうつもりで触れなかったのだろう。
「そうか。――退ってよい」
使いの者が立ち去ったところで、カゼヤは揺り椅子から立ち上がった。前脚に顎を載せたまま目をつむっている犬神を見、片手でぱたんと書を閉じる。そうして丸卓の上に置き、呼んだ。
「犬神」
ぱちり、と犬神は目を開けた。眠っていたわけではない。無視を決め込んでいただけだ。むくりと上体を起こし、カゼヤを見上げれば、主はまっすぐに犬神を見つめていた。――それで、なんとなく犬神は分かってしまった。
「行(ゆ)くぞ」
命じられる刹那、犬神はフッとカゼヤの視界から消えた。音もなく背後に回ったときにはすでに人形(じんけい)、首を搦め取る。
獣の速さでカゼヤの首を絞めた犬神は、そのまま引き寄せるように力を加えた。黒みがかった藍の長い髪越し、主の耳元で囁く。
「ええんか?」
それは遠回しな脅迫だった。自分を連れて行けば、再び惨劇が起こるかもしれないと。今のように、一瞬で母の首が今度こそ胴から離れるかもしれないと。それができるのだと。
しかしカゼヤは動じることもなく、左手をそっと犬神の手に添え、強い口調で断言した。
「構わぬ」
同じく刹那、添えた手は犬神を食い込むように握りしめた。力強く踏み込み、体を沈める。ぐるりと犬神の視界が一回転した。左腕一本で犬神を背負い、投げたカゼヤは、すかさず丸卓の上にあった書を手に取り、角で横腹を切り払う。
まさに一瞬、犬神は無様にも背中から壁に激突して床に落ちた。
「もう一度言う」
容赦のない主の声が降ってくる。犬神は小さな――この化け物を従えた主を見上げた。
生理的欲求がなくなったのなら、痛覚も消えてなくなればよかったのに、と思う。生きるための欲求がないのに、痛みは感じるなんて、まるで生きているみたいではないか。
――それでも。
もう、決めてしまったのだけれど。
「行くぞ」
見下ろしたままかけられた号に、犬神は内心で嘲笑した。手も差し出さない奴が誘うとは。
――けれども。
それでもやはり、犬神は決めてしまっていた。
あのときと変わらず。この少女を。
永遠(とわ)の主にすると。