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天狼の巫姫  作者: 利月
一章
6/32

其ノ肆

 牙は側近の頭上、一呑みにしようかという勢いで迫った。――事実、犬神は味わう気など毛頭なかった。もはや食事のために狩るという行為は必要なくなっていた。

 死んだ身、歳も取らず、成長も老化もせず止まったままになったこの体に、生理的欲求は存在しない。食べることはおろか、眠ることも、無論排泄も起こり得ない。

 だから本当に、犬神にとって殺すということは、娯楽の一環だった。

 必要性のない、嗜好の一種。生命(いのち)の存続のための屠りは無い。そういうふうに、命を貶める、そんな生き物に、犬神はなってしまっていた。

 かぱりと開けた口を閉ざそうとした、瞬間。

 小さな影が、動いた。

 決して見逃すはずのないその影は犬神の認識を超える素早さで地面に突き立てていた鞘を引っつかむと、その勢いのまま鞘を振り上げた。

 直後に祭宮殿を裂いた音は軽快にして骨を殴打した音、すこーんという小気味良くも痛そうな響きがこだました。

「こんのバカタレが!!」

 容赦のない怒号が飛ぶ。鞘で犬神の横っ面を殴り、肩で息をしているカゼヤは、キッと犬神を睨み上げた。

「誰が! 人を!」

 犬神は主を見下ろす。一呑みにできそうなほど小さな主は、揺るぎなく厳しい瞳のままで、犬神を見上げていた。

「殺していいと言った!」

 怒鳴られ、犬神はわずかに首をうしろに引く。眇めるように主を見て、首を傾げた。

 カゼヤは歯噛みする。それは小馬鹿にしたような犬神の態度に対してではなく、安易に他者に怒りを向けてしまった、己に対してだった。

 犬神は主に忠実だ。――主がたとえ口に出さずとも、主の心を汲み取って行動できる。それは令として下すよりも先に、犬神が動いてしまうということを意味していた。

 そして犬神には、一か零(ゼロ)しかない。すなわち、生かすか、殺すか。少し噛んで牽制する、ということができない犬神は、動いたら最後、標的を確実に殺してしまう。

 無論、動いてしまった犬神を口頭で制止させることは可能だ。だが獣の速さと声の速さとでは、必ずしも犬神を止められるわけではなかった。

 だからこそ、カゼヤはあらかじめ令を下した。たとえ自分の心が望んでも、犬神が動いてしまわないように。――犬神が、人を殺してしまわないように。

 だというのに、このバカ犬は。いったい何を聞いていたのだ。

「あぁそうだ。私は今確かに怒っている。いや、怒っていた。この者に対してな。だが今はおまえに怒っている。そうだ『おまえ』で充分だ。もう敬意は表(ひょう)さぬ。このバカタレが」

 怒りに満ちた宣言と罵倒を淡々と放って、カゼヤは鞘を地面に突き立て、そのまま支えにして穴から這い出た。距離の縮まった犬神を、首を反らすようにして見上げる。

「絶対に、殺すなと言っただろう」

 透る命令が、犬神の心を穿つ。その令を、忘れていたわけではない。知っていた。けれども。だって。

 かすかでも、望んだではないか。

 なのに、どうして。

「ですから申し上げましたでしょう! 刀をお使いなされと――!」

 言いながら、側近も地面に投げ出された神宝の大刀を拾って支えにし、穴から這い上がってくる。そうしてカゼヤの隣に並び、頭(ず)を低くして刀を差し出した。

「姫様、ささ、これを――」

「そうだ」

 側近とはまったく目を合わせず、カゼヤは犬神を見つめたまま肯定した。

「そうだ犬神。私は望んだ」

 認めた。自分の中に、この側近がいなくなれば――いや、彼だけではない、この場にいる者全員を疎ましく思ったことを。犬神は興味深げに主の言葉の続きを待った。

「おまえはどう思っているか知らないが、相手の望みを叶えることがすべて相手の幸福になるとは限らない。それは愛することではない。そして命は、後悔しても戻らない。――よく覚えておけ、犬神よ。死は不可逆だ。だからこそ、安易に叶えてはならない。とはいえ、私も安易に望んだ。そのことは詫びよう。そなたに要らぬ思慮を強いた。……すまない」

 犬神は目を瞠った。カゼヤは腰から体を折り、深く頭(こうべ)を垂れている。長い髪が、両肩を滑り落ちた。

 どよめきが起こった。こんなことはあってはならなかった。前代未聞だ。主が犬神に詫びることも、まして主が犬神に頭を下げるなど。

「姫様、いったい何をなさって――」

 うろたえる側近たちにはやはり一瞥もくれず、カゼヤは頭を上げ、ただ犬神を見た。

「殺したら、絶対に許さぬ」

 理由も反抗も受けつけない、犬神がカゼヤを主とする間は永遠に履行を強いられる、強い約束だった。そうして主はふっと微笑み、言うのだ。

「私は、おまえを殺戮の道具にするために、主となったわけではない」

 言って、カゼヤは手を伸ばす。カゼヤの背では決して届かないほどの高みにある犬神の首を目指して、左腕だけでも広げた。

「それを忘れるな」

 物理的な強制力は、何もない。言葉だけの――口先だけの命令。それでも主のその言葉には、反駁を許さない力があった。

 破ろうと思えばいつでも破れる約束。誓い。刀を使って守らせることもできるのに、それをしないのはなぜだろう。刀を使っていないのだから今すぐにでも反故にできると侮れないのは、なぜなのだろう。

 ――分かっている。知っている。

 この主はどこまでも愚かだ。強い眼差しで見据えられたところで、その視線を振り切り、裏切ることなど雑作もないのに。

 あぁ、それでも。犬神だって。

 とっくに決めてしまっていたのだから、主ばかりを愚かとは責められない。

 なんだか急におかしくなって、犬神は示したくなった。自分に害意がないこと、むしろ今となっては首を斬られたことによる怨嗟などどうでもよいこと、今はただ、この小さな主の緊張を解きほぐしてやりたいだけなのだと。

 そうして犬神は、かすかに動いた。――否、ゆらめいた。蝋燭の火が消える一瞬のように、ゆらり、とゆがみ――そして。

 一人の少年が、立っていた。

 年の頃は十代半ばといったところか。

 朱色の髪は長く、膝裏まであり、癖毛なのかところどころはねている。黒い袍(ほう)を身にまとい、背はそこそこ高く、整った顔立ちをしていた。

 髪というよりも毛並という印象を与えるその朱色の髪の間からは、橄欖石(かんらんせき)色の瞳が、やけに穏やかに澄んで覗いていた。

 つ、と、少年がカゼヤを見やる。一瞬だけ目を合わせ、しかしすぐに目を伏せると、少年は両腕を広げた。

「ほら、なんもせんよ」

 気持ちの上でも丸腰であることを示した犬神は、人語を話した。

 その声はまさしく神に属するモノの声。人の根幹にある抑止力を甘く溶かし、骨髄から痺れさせることのできる色だった。

 カゼヤは「そうか」とだけ呟く。驚いたふうも怯んだふうも見せず、人形(じんけい)に成った犬神を見上げた。

「ならば戻るぞ」

 あっさりと告げて、歩き出す。困惑したような風情の側近や近衛たちが、さっと道を開いた。

 母の側を通り過ぎる。顧みることもなく歩き続けていると、背後から流水のように冷たい声で名を呼ばれた。立ち止まり、振り返る。

 カデナはすべての感情を取り払ったような顔でカゼヤを見ていた。そこにあるのは、怒りでもなく、呆れでもなく、失望でもなく、謗るということさえも放棄した、温度の無い瞳。

 しばし見つめ合う。が、先に目を逸らしたのはカデナのほうだった。それを見て取り、用がないならとばかりにカゼヤは再び歩き出す。

 小さき巫女姫の背に付き従うは、人の形をした鎖なき狂犬。

 二人は無言のまま、祭宮殿を出て行った。

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