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天狼の巫姫  作者: 利月
一章
5/32

其ノ参

 唐突に、祭宮殿へなだれ込んでくる音がした。カゼヤが状況を理解する間もなく、何らかの確信を得た足音が踏み込んでくる。その音は、一人ではなかった。

 面倒なことになったな、と重さと痛みと焦りで茫(ボウ)となった頭で思う。

 面倒だ。意外にも早く、部屋を抜け出したのが暴露(ばれ)てしまった。――いや、掘り起こすのに手間取っていたから、むしろ次期巫女姫不在に気づくのが遅すぎたと言えなくもない。だが目的を達成できていない今、現巫女姫や側近たちに取り押さえられるのは、厄介なことに変わりなかった。

「姫様!」

 聞き慣れた側近の叫び声に、ああ本当に面倒なことになったなと思う。もう少し遅く来てくれれば良かったものを。間の悪いことだ。

 カゼヤは犬神を見上げた。――視線が、合う。薄く、唇を開いた。

「犬神」

 冷涼な声だった。カゼヤの形のよい唇が、動く。

「絶対に」

 初めての令(めい)を、強く、揺るぎなく。犬神を見据えたまま、言った。

「殺すな」

 犬神は目を、見開いた。主は今、何と言っただろう?

「姫様、刀を! 刀も持たずに、犬神なぞと……!」

 叫びながら、側近が走り寄る。その両手には、部屋に置いてきたはずのトツカノツルギがしっかりと握りしめられていた。

「この犬神め、姫様に何をする!」

 どうやら、穴に落ちたのは犬神のせいになっているらしい。そう気づいて、カゼヤは呆れた。声を張り上げる。

「刀は要らぬ! 退(さが)るがよい!」

「しかし――」

 側近は犬神と穴の中からかろうじて頭だけは見える次期巫女姫を見比べた。そこへ、背後から静かな、それでいて追従を強要する声が響いた。

「構わぬ」

 カゼヤの母にして現巫女姫・伽薙那(カデナ)の声だった。

 現巫女姫は座高よりさらに高い、大きな輪(くるま)が付いた椅子に深く腰かけ、まっすぐにカゼヤ(むすめ)を見ている。白い袖の下からはいくつもの細い管が延び、椅子の背にぶら下がった楕円球に繋がれていた。

 いかにも豪奢で、そして痛々しい母の姿に、カゼヤは眉をひそめる。

 カデナは眉一つ動かさず、静かな口調のままで告げた。

「刀を渡し、降させろ。―― 一度敗れた私では、もうあの犬神には及ばぬ」

「ですが――」

「刀は要らぬと言っている! ――母様、お身体に障ります。どうかお戻りを!」

「行け。犬神を野放しにする事、後(のち)の禍根となる。今封じさせろ」

 眼(まなこ)でもって、刀を持った側近と近衛たちに前進を強いる。わらわらと、彼らは犬神と大穴を取り囲んだ。

「面倒な……」

 カゼヤは舌打ち混じりに呟く。近衛たちが犬神を牽制している間に、側近が近づき、カゼヤに刀を押しつけた。

「姫様、刀を。いやそれよりも、まず穴からお出に……」

「刀は要らぬと言っておろう」

 なおも犬を抱いたまま穴の中から睨み上げて、刀を右手の甲で軽く押し返す。しかし側近も引かない。

「カデナ巫女姫のご命令です。さぁお早く、あの犬神を降してくださいませ」

「人の話を聞かぬか。刀は要らぬと何度言えば分かる」

 次第にこの遣り取りにも疲れてきたカゼヤは、うっとうしいという様子もあらわに刀を振り払う。それを見て、おとなしく囲まれていただけの犬神が、飛んだ。

 もとより首だけの生き物、近衛たちの切っ先が届かない位置にまで飛び上がると、ふわりと包囲網を擦り抜けてカゼヤのもとへ飛んだ。

 ぴちゃりと、近衛たちの顔や体に、犬神の血が落ちる。呪われた血は、巫(かんなぎ)の力を持たない者に付着しただけでシュウシュウと音を立てて煙を上げ、肌や服を融かし始めた。途端に、阿鼻叫喚の様となる。

「――犬神!」

 気づいたカゼヤが呼ぶ。しかし、遅かった。

 犬神の首は、主によって土が払われた体に、くっついた。

 その瞬間、忌まわしい血が犬神と犬の体を繋ぎ、駆け巡り、そして真(まこと)の、“犬神”になった。



 空気が、うねる。

 邪まな気配が、風のように旋回しながら祭宮殿を満たし始める。

 ゴゴ、ゴ……という地が轟くような音を上げて、犬神は起き上がった。

 ――否、起き上がったばかりではない。それは、巨大化していた。

 祭宮殿の天井を突き破ろうかというほどの大きな犬となって、犬神はすべてを見下ろした。

 首を斬った女も、首だけになった自分を取り囲んだ男たちも、そして――小さな主も。

 すべてが矮小、片脚を少し上げただけで踏み潰せそうな人間どもを見下ろして、犬神は何を思ったか、頭(こうべ)を深く垂れた。視線を合わせた先には、ただ一人の主。

 主は巨大化した犬神に怯えた様子もなく、ひたと睨み据えていた。――相変わらず、刀を使う気はないらしい。犬神は口を開けた。

「姫様!」

 ついに、側近が穴の中に下りた。カゼヤの前に立ち、次期巫女姫に届けるはずだった刀に、自分が手を掛ける。ほぅ、と犬神は口を少し閉じ、興味深げに首を傾けた。

 犬神にとって、主とは、抖都叶剣を用いてこの身を封じた者だ。

 刀を抜くということは、犬神を降すという意思表示であり、抜かれた瞬間から、降す者と降されるモノとの力のぶつかり合いが始まる。――どちらがより、呪いに対して強力であるか、が。

 降す者は、呪いを封じ、それを使役する力量を。

 降されるモノは、呪い、封じをはね返す力量を。

 試されるのだ。

 と、カゼヤが側近の手から刀を叩き落とした。土の上に、螺鈿の入った大刀が転がる。そうして、断ち切るように、強く言った。それは奇しくも、「あのとき」と同じ言葉だった。

「刀なぞ要らぬ!」

「しかし!」

「ええい黙れ! どいつもこいつも、面倒事を増やしおって……!」

 呆れはついに、怒りに変わった。

 カゼヤは思う。

 何がいけないと言うのだ。

 犬の体を犬神に返すのは悪なのか。首だけになってしまった犬を哀れに思うのは、そんなにも責められることなのか。

 巨大化したのなら、元の大きさに戻れと言うまでだ。元は生きたまま埋められてしまうほどの大きさだったのだ、戻れないわけがない。そう考えることは、楽観がすぎると言うのだろうか。

 怒りが、犬神に伝わった。

 主と確かに繋がった、見えない何かを通して、主の感情は稀釈されることなくそのままの濃さで犬神に通じた。

 そうか、ならば、と思う。――初めて、主のために心が動いた。

 ――こんな奴ら、喰い殺してやろう――

 少し閉じた口を再び開け、犬神は、主の前に立っている者に牙を剥いた。

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