其ノ弐
宣告してからの行動は、早かった。
カゼヤは握りしめていた小大刀を口に持っていき、鞘を咥えて抜き身を晒すと、犬の血で固く湿った土に刃(やいば)を突き立てた。
首の周囲の土を切ってあらかた柔らかくし、今度は鞘を使って掘り返す。慣れない片手のみの作業は思っていた以上に難航し、土を掘るというよりも土を砕いていく、というのに近かった。
少しずつ、息が上がっていく。
右腕のみならず、左の腕までもが痺れてくる。筋肉が凝り固まりつつあるのが分かった。
しかしそれでも、カゼヤは手を止めない。休むことなく、鞘で土を掻いていく。
犬の胸上あたりまで掘り進めたところで、力尽きたように鞘を土に刺した。寄りかかるようにして、うなだれる。そんな主を、犬神はただじっと見ていた。
「……さすがに」
ぽつりと、カゼヤは呟く。その声には、隠しきれない疲弊が滲んでいた。
「ここから先は、目測では掘れんな」
顔を上げて、首より上のない犬を見る。察することを拒むほどの怨みを滴らせた血が、いまだ斬り口から流れていた。
「傷つけてしまうやもしれぬ」
――傷つく。
犬神は胸元まであらわになった己の体を見た。
この首を斬り落とした巫女の娘が、そんなことを気にかけているとは。
なんだかおかしくなって、犬神は主に視線を移した。主は眉根を寄せて何事かを考え込んでいる。やがてふと、犬神を見た。
「――犬神」
囁きにも似た主の呼び声に、犬神は反応する。主の声は小さかったが、そこには無視を許さない強い力があった。
「すまないが、そなたの体がどの辺りにあるか、教えてくれぬか」
乞われ、犬神は黙したまま主とその先にある己の体を見つめた。陰(いん)の呪いそのものの瞳に、脱殻(ぬけがら)になった体が映る。ひたと睨み据え、やがて犬神は、一声も吠えず主の隣へと飛んだ。そうして一度だけ主を一瞥すると、くるりと一回、首の周囲を二回りほど大きな円をえがくように旋回した。
「それが」
鞘を杖代わりにして這い、カゼヤは犬神を覗き込んだ。
「そなたの全体、か……」
どこまでなら深く掘ってもいいのか分からない以上、外堀を埋めていくしかない。円の外周から、再び掘り始めた。
元来、鞘は土を掘るための道具ではない。反りのない鞘では、土を掻くのに限界があった。――それを使う、カゼヤのほうにも。
汗がこめかみを伝う。しかし自由な左腕を自分のために使うことは一切せず、ただひたすらに、犬神の体を土から掬い出そうとしていた。
斬り口からの血は絶えない。
とどまることを知らない涙のように、血の泉は音もなく湧き続けている。
犬の体は、すでにほぼ、表れていた。
首さえ出ていればいい、というように、土の下の体は動きを封じる意味もあって、押さえつけられたような体勢だった。前脚は腹部に密着させられ、尻尾は捩じられたまま土を抱き込んでいる。
やがてカツリと、鞘の先に小さく固いものが触れた。慎重に、土を弾いていく。
鞘の先に当たったのは、今にも股を裂かれそうなほどおかしな方向に曲がった後ろ脚、その爪だった。
ぐにゃりと押し出されたまま土を掻いている爪は、文字どおり抵抗の時を止めている。
とうとう鞘ではもどかしくなったカゼヤは、指で直接砂を掻き分け始めた。
怨みある血は深く強く地下に染み渡り、半時も掘っていたにもかかわらず、土はいまだ湿っていた。
掻き出すたびに、指先に、爪の間に、血混じりの土が絡みつく。――呪いのように。
酷使した肩が痛い。不均衡な姿勢は体のあちこちに負担を強いたのだろう、どこもかしこも凝り固まって、姿勢を変えることがかえって激痛をもたらした。
少しずつ、犬から土が払い除けられていく。穴の中の犬は、首がないことを除けば、生き埋めにされただろうことが分かる姿をしていた。
鞘を取り、己の右側に突き立てる。右手で鞘を握りしめて支えにし、荒い息もそのままに、穴の中へ身を乗り出した。
左手を、伸ばす。犬の前脚の付け根に、触れた。
ぐっとつかみ、引き寄せつつ持ち上げようとする。
が、深手を負った右腕一本、小大刀の鞘一本のみで体重を支えきれるはずがなく、カゼヤは鞘ごと穴の中へ落ちた。血に濡れていながらも、ふさふさとした毛が頬をくすぐる。一度呻いて、身を起こした。
ふと見上げると、犬神がこちらを見下ろしていた。
穴の中のカゼヤを嘲笑うふうでもなく、助けるふうでもなく、まして心配しているふうでもなかった。――ただじっと、見下ろしている。
それは命令を待つ犬に似た眼差しだった。加勢がほしいのならば、そう命じよ、と。
そこには、決して自分からは助けに行かないという、ある種の確執が覗いていた。助けには行かないが、助けないわけではない、と。
カゼヤは口の端を上げた。
「もとよりそのつもりだ、犬神。私は、――私が、そなたを助けるのだから」
言い放って、鞘を穴の上の地面に突き刺す。左腕を犬の腹の下に潜り込ませ、抱き上げた。
しかしこれも、腕一本で適うはずもなく、まして犬の体は、十三の少女が抱え上げるには大きかった。
「くっ――」
声が漏れる。
犬の体は重く、己の体は痛かった。――それでも。
自分が、この犬の体を。犬神に、返す。それだけは、譲れなかった。