其ノ弐
すべてを理解した。
いっそ嘔吐してしまいたいほど、胃や喉が急激に活性化し、つかえたものを知覚し、それが嗚咽となって絞り出された。
張りつめていたすべての糸が、ぶつりぶつりと音を立てて切れていく。――瞬間、負けたのだ、と悟った。
強くあろうと、主として立ち続けていようとしたこの心根は、今、崩れた。
さながら高く積み続けた木片の塔が倒れたときのような虚脱感が襲う。同時に、腹立たしさが沸騰した。
ぐっと、犬神の黒い袍をつかむ。握りしめたその手は、絶望でか怒りでか、小刻みに震えていた。
言いたい言葉があった。
それは罵りであり、問いかけであり、矛先を見失った赤黒いどろりとした感情であった。
犬神が、ふっと目を開けた。吐息を感じて、少し首を傾ける。それだけで、主が見えた。
すぐ、傍に。
――こんなところまで。
血だらけになって。
犬神は深く息を吸い込む。肺も胸も、何かでいっぱいになった。
月明かりの中の主は、声を殺して泣いていた。震えているその姿は、年相応の、小さな少女に見えた。
触れたくて、でもこんな血まみれの指先では汚してしまうばかりで、ぬくもりも、分けてやれなくて。
それでも、触れたかった。
愛しかったから。
そっと、犬神はカゼヤの頭を抱え込むように片腕を回した。抱きしめる。
「あのときと……逆じゃな」
「あのとき……?」
顔を上げて、カゼヤは問う。犬神は、薄く笑った。
「初めて、会(お)うた時」
そう。あのときから。
一人ぼっちが二人。背中合わせのまま。
「あのときは、オレが泣いて、今は、主が泣いとる……」
「ばか……」
呟いて、カゼヤも犬神の首を掻き抱いた。
「ばか……」
犬神の首に顔を埋(うず)めて、叱る。その声は、弱々しかった。
犬神が、すべてが何でもないことであるというように、もう片方の手でぽんぽんとカゼヤの背中を叩く。その音はやがて心音と同じ速さになり、まるで子をあやすかのように犬神は淡く笑みを浮かべて叩いていた。気づいたカゼヤが、歯を食いしばる。ギリッという音は立ったが、言葉は出てこなかった。
代わりに、後から後から、涙があふれた。押し殺していた嗚咽も、次から次へ零れ、一声(ひとこえ)ごとに大きくなる。このまま泣き続けていたら、からっぽになって、ぺっしゃんこになってしまいそうだった。
そんなカゼヤを、犬神は、撫でるように叩き続ける。
カゼヤはバッと顔を上げた。
ようやっと出てきた言葉は、血を振り絞るような声だった。
「ふざけるなあっ!」
それは何に対しての怒りだったのか。だが他に言葉が見つからないというように、再びカゼヤは号泣する。今、主がどれほど脆くなっているかを知っていたから、犬神は、ただ黙って、一人ではないことを伝え続けた。
「絶対に」
それでもこの主は、言うのだ。犬神は手を止めてカゼヤを見つめる。カゼヤは涙ですっかりぐしゃぐしゃになった顔で、言い切った。
「許さんからな」
きつくきつく犬神を、抱きしめる。
この苦しさが、鎖ならば。
それこそが愛しさの正体。
「知っちゅう」
「もう絶対に……」
「すまんかった……」
「おまえは目を離すとすぐにこれだ」
「すまんかった、ってば……」
「バカタレが……」
ぎゅうっと、カゼヤは抱きしめる指に力を込めた。
お互いの体は冷えきって、体温を失くして、月光よりも白い息が混ざり合って、それでも二人は、一人ぼっち同士だった。
「……天狼の、巫姫の名に、おいて……命ずる」
その宣言を、どんな気持ちで言っているか、犬神は知っていた。
「何じゃ……?」
目を閉じて、眠るように、呪いの神は願いを聞く。
カゼヤはじっと、犬神を見た。そうしてゆっくりと、唇を開いた。
「犬、神……」
「何じゃ……? 何でも、聞くぜ……? 何でも、聞いても」
頬に落ちる、主の涙が。その、感触が。
あたたかくて、愛しくて、けれどそれは。
とても、遠くて。
「許さんのじゃろ……?」
その問いに、カゼヤはハッと息を飲み――うつむくように、頷いた。
「そうだ」
だから。
与えねばならない。
その身に、刻みつける、この罪が、どれほどの時を経ても、許されないものであることを。
「犬神、に、命じる……」
愛するものに、鎖を。
「私の、……傍を」
そんな、ゆがみを。
「離れることは」
押しつけてもそれでも。
「一生、罷り成らぬ」
犬神は、笑った。微笑(わら)って、叶えた。
「仰せのままに」




