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天狼の巫姫  作者: 利月
七章
30/32

其ノ壱

 本当は。

 言えた言葉があった。

 どこへなりとも行け、と

 犬神はカゼヤの僕ではあったが、神宝の大刀という鎖を選ばなかった時点で、カゼヤが犬神を拘束できる力はなくなっていた。

 だからいつでも、犬神を、自由にしてやれる、言葉を言えた。

 ――言えた、はずだった。

 ゆっくりと、カゼヤは目を開けた。

 最初に映ったのは、板目張り。次いで見えたのは、遠くでわだかまるように盛り上がっている、黒い影。

 でも、言わなかった。

 いや、言えなかった。

 ぴくり、と指を動かす。そうして初めて、柱に縛りつけられていたはずの体が、いつの間にか柱もろとも床に倒れていることに気づいた。

 身を起こそうと、神経を腕に集中させる。しかし血を流しすぎた体では、指令は途切れて届かなかった。

 それでも、歯を食いしばる。腹部に力が入って、激痛が駆け巡った。

 ごぼ、と口から赤黒い血が吐き出される。

 ――恐怖は、なかった。

 だって。

 選んだから。

 じゃらじゃらと、腕に鎖を巻きつけたまま、這って体を誘導させる。

 選んで、しまったから。

 黒い影、しかし月明かりに照らされて、見知った姿を晒している、巨体に向かって。



 意識が飛ぶ。

 しかし痛みで目を覚ます。

 幾度となく世界が断絶されては、すぐに繋ぎ合わされていく、そんな感覚だった。

 でたらめに繋ぎ合わされた回路で再形成された世界は、ゆがみ、色彩をなくし、濃淡をぼやけさせ、時折原色の光が強く瞬く。平衡感覚はとうに失せ、カゼヤは自分が揺れているのか世界が揺れているのか分からなかった。

 それでも、這って進む。

 月明かりは白い。光の中を白い蝶が何羽も舞っているかのようだ。

 ぐしゃりと、意識が握り潰される。

 しかしまた、動く指先が覚醒を促す。

 そんなことを何度も繰り返して、ようやくカゼヤは、血の海に辿り着いた。

 水溜まりとも見紛うほどの量のそれに、眉を寄せる。むせ返る血の臭いの中心、そこに、白い獣の脚だけが投げ出されていた。

(……ゆるさぬからな)

 犬神が、殺したら。

(ぜったいに、許さぬからな)

 それはもはや強い呪いのような祈りだった。

 ずっ、と、己の血と見知らぬ獣の血を含んだ体を、引きずる。

(私たちは)

 どこかで、間違え。

(――否、最初から)

 でも。

(それでも、いいと)

 だって。

(私は)

 カゼヤは、犬神を。

(愛していた)

 だから。

(許さぬからな)

 それは他の誰であってもよかった。

(おまえが)

 だけどそれは、犬神でだけはあってはならなかったのだ。

(殺戮を、おかしたら)

 なんの、ために。

(――愛すると)

 誓ったのだ。

(絶対に)

 そんなことはさせない。

 冷えきった体から、白い息が零れる。震えたその吐息は、白い月光の中に吸い込まれていった。

 させない、ために。

 犬神は、いた。

(だから、私が)

 その姿は、人形(じんけい)。朱い髪も頬も口の周りも指の先も、黒く固まった血がこびりついていた。

 前に、立つと。

 すでに絶命していることが明らかな、白王の側に。

 目を閉じて、横たわっていた。

 ――瞬間。

 堰を切ったように、涙があふれた。

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