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天狼の巫姫  作者: 利月
一章
3/32

其ノ壱

 犬神の破壊行為により、次期巫女姫・カゼヤは、骨こそ折りはしなかったものの、犬神の鋭い牙に抉られた傷は深く、完治するまでに二月(ふたつき)を要する重傷を負った。

 しかしながら驚くべきことに、犬神のあの破壊行為は、死者を出してはいなかった。程度の差はあれど、重軽傷者のみですんだのは、奇跡というよりほかない。

 無論、カゼヤの母、現巫女姫も、命に別条はない。ただ、腹部を喰い千切られた傷は相当深く、腹腔内の臓器はいずれも半分または半分以上を犬神に持っていかれていた。なかでも下腹部――子宮は、完全に喰い尽くされていた。

 これで巫女姫の血を継ぐ者は、カゼヤただ一人となってしまったわけである。



 かの儀式は、陰(いん)の力を借りるため、徐々に陽(よう)の力を失い、陰の力が増していく黄昏時におこなわれていた。

 惨劇が起こり、全員の傷の処置が終わり、今は夜(よ)も真中であった。

 カゼヤは痛みで上げた己の呻き声で目を覚ました。汗が瞼を伝う。噛まれた右腕が重く、じんじんと痛んだ。

 首だけを動かし、窓のほうを見やる。大きな円で縁取られた障子の向こうに、玻璃窓を透(とお)して月光がぼんやりと浮かんでいた。

 次いで、扉のほうを見やる。御帳台の向こうにある室内は薄暗く、何もかもが輪郭を失くしていたが、宙に浮かぶ犬の首だけは、なぜかはっきりと見えた。

 犬は寝台から遠く離れた壁際で、様子を窺うように浮いている。カゼヤは左手だけを支えに寝台から身を起こした。

 ガチャンと、金属的な音が立つ。寝台脇に立てかけられていたトツカノツルギが倒れた音だった。

 それを忌ま忌ましげに見やると、片足で思いきり窓側へ蹴り飛ばした。刀は絨毯の上を滑り、寝台の下を潜(くぐ)り、壁に激突して止まった。

 途端に、ビリリと痛みが走る。バランスを崩して、寝台にうつぶせに倒れた。

 呻き声は、上げない。熱いような寒いような感覚にも、恐れはしなかった。

 犬神はただ、じっとカゼヤを見ている。

 カゼヤはもう一度、左腕に力を込めて上半身を起こした。頭頂部で一つに高く結い上げられた腰まである長い髪が、背中から肩へ滑り落ちる。

 四苦八苦して起き上がり、緩められていた襟や腰帯をきつく結びなおす。しかしこれもまた片手のみでしなくてはならないのが、非常に不自由かつ煩わしかった。

 寝台から立ち上がり、どうにかして動きやすいようあちこちを締めると、御帳台から出、机に歩み寄った。引出から、小大刀(こだち)を取り出す。握りしめて、扉へと歩き出した。

 錠を上げる。そうして初めて、犬神を見た。

「行(ゆ)くぞ。ついてこい」

 命じられ、首だけの犬はカゼヤの隣へと飛んだ。

 カゼヤは一つ頷いて、扉を滑らせる。最小限に光を落とした廊下が、ひんやりと広がっていた。



 釣燈籠の光に、カゼヤの髪が照らされ、一歩を進むごとに、絹のような光が流れる。黒に近い藍色の一つ結いの髪が、引綱(ひきつな)のように犬神を導いていた。

 唐紅(からくれない)の衣に濃紫(こきむらさき)の裙(もすそ)姿の主は、病人にはいかにも重そうだが、これが一番簡素な式服なのだから、致し方ない。脚にまとわりつく長裙(ながすそ)を払いのけるようにして、主は前へと進む。

 そうしてやがて、地下へ続く祭場(さいじょう)への扉に辿り着いた。

 ――地下祭宮殿。

 犬神が、犬でいられた、最期の場所。

 一つ深呼吸をすると、カゼヤは扉を身体全体で押し開けた。

 真の暗闇に、呑み込まれる。

 カゼヤは犬神を一瞥すると、何の迷いもなく扉の奥に入った。犬神も続く。

 祭場への下り階段は、下りる足音をも消すほど、静かだった。

 しん、とした、冷たい孤独が押し寄せる。――地下祭宮殿に辿り着いたのだった。

 静謐な空間に、足を踏み入れる。一拍置いて、ボッと炎が盛(さか)った。祀宮廟(しぐうびょう)の中の篝火に、火が灯ったのだ。

 カゼヤは目的のものに近づいた。

 ――もはや首しか出ていない、犬神の残りの体。

 主となると誓ったときから。

 一番最初にやろうと決めていた。

 ――犬神の体を掘り起こすことを。

 見下ろし、ゆっくりと瞼を閉じる。そうして再びゆっくりと、目を開けた。

「――犬神」

 呼ばれ、主を見上げる。

 主は、背筋を伸ばし、決然としていた。その顔のままで、犬神を見ず、ただ無機質なものになりゆくある残りの体だけを見て、告げた。

「そなたの体、返すぞ」

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