其ノ肆
白い月が浮かんでいた。
あの日と同じ、下弦の月だった。
ゆっくりと、右手を伸ばす。細い指先はもちろん欠けた月に届くことはなく、虚しく空(くう)を掻くだけだった。
それでも。
(あの日に比べたら、まし……)
土に広がるは、山吹色の髪。
流れゆくのは、鮮血の色。
遠く離れた場所には、一瞬にして吹き千切れた、己の左腕と左足。
黒真珠色の瞳に、涙が溜まってゆく。月が滲んで、景色が粒子状となり、光があふれた。
彼は、許す、と言った。
生き残ってしまった彼女を、慟哭に暮れることができなかった薄情さを。
――その代わりに。
シナノは目を閉じた。ひどく幸福な気持ちだった。
もう何も恐れることはない。冷えていく体が、安らぎへと導いてくれる。
そう。もう、これで。
おいてゆかれることは二度とない。
赤みを失った唇が、わずかに開いていく。
「よかった……」
涙が鼻筋を伝い、地面に染み込んでいく。
「使って……くれたんだ……」
――大切に。
使い切ってくれると。
こんな命でも。
遠く、神様の声が聞こえる。
シナノを許し、シナノをおいてゆかれる存在に二度としないことを叶えてくれた、神様の声が。
『約束だ』
ぱたりと、右手が月を引っ掻いて落ちた。
シナノはうっすらと、その口元に微笑みを浮かべた。
「よかった……」
月は白さを増していく。
(あなたが)
照らされるのは、血海の中の少女。
「冷たく、なる、とこ……」
みなくて、ほんとうに。
それでも少女は、長い間背負ってきた荷をやっと下ろしたかのように、安らかに笑んでいる。
最期、その唇が、小さく動いた。
よかった。
と。
それは嘲笑か哄笑か。
廃屋を割り裂かんばかりの笑い声が響いている。
食い込ませた牙に効力がないと判じた犬神は、素早く白狐から離れた。窺うように、間合いを取って見据える。白王がむくりと首から上だけを起こした。
「禁じられてたんだろ? 人殺しを。また鞘で殴られるぜ?」
血泡を口の端に飛ばしながら、白王は勝ち誇ったように言った。
「アンタは、アンタの主を裏切ったんだ!」
ダンッ、と、白狐の頭が床に叩きつけられた。
白王の肩口に食い込むは、大狼の太く長い爪。
犬神は、首だけの存在ではなくなっていた。
瞬時に天を統べる狼と成ったことの、その尋常でない力。
雪の上に舞い落ちた寒椿のように、白王の体に鮮紅の染みが広がっていく。
「おいおい、アンタの主は怖いんじゃなかったの、か……っ」
ぐっ、と、犬神は体重を乗せた。白狐に覆いかぶさり、誘なうように囁く。
「そうじゃ? じゃが」
獣の姿でありながら、犬神の眼差しは魔に引きずり落とす妖婉さが滲み出ていた。落ちることへの恐怖さえも快楽に塗り変える、神さえ畏れる神。
犬神は、続けた。
「もう、遅い」
爪に引っかけた白い物体を、犬神はまとわりつく目障りなもののように放り投げた。
とうとう右後ろ脚一本しか胴にくっついていない状態になったそれは、血飛沫を散らしながら宙を飛ぶ。
白狐を、見据えた。
――きっと。
犬神とカゼヤは、正しくはなかった。――正しい在り方ではなかった。
落ちる寸前、白狐がぐるりとこちらを向いた。後ろ脚一本と三尾を使って、口を大きく開けて、犬神めがけて突っ込んでくる。
二人を繋ぐものはただ、決めてしまったという意地だけのようであり、愛情だけのようでもあった。そこには決して、物理的に証明できる絆もなく、それはそのまま、証のない主従関係を示していた。
――それでも。
犬神も白王めがけて駆け出した。やがてすぐに、体の束縛を引きちぎるように首が飛んだ。
愛しかなかったとしても、よかったと、犬神は思う。
だって、犬神だって、カゼヤを。
愛しく、思ってしまっていたのだから。
――だから。
獲物の心臓に、正確に、犬神は、牙を突き立てた。
ずるり、といまだ脈打つ心臓を抉り出す。ぶちぶち、とも、みしみし、とも聞こえるような音を立てて、筋繊維が剥がれていった。ぬちゃり、と味のない臓器が口腔に広がる。
そうして白王は、生きたまま解体され、数秒の後に呼吸を停止した。




