其ノ弐
犬神は、嗤った。
無意味と無価値をさも大義そうに力説する根拠を、哀れみをもって問いかける。
「まさか、それしきのことでオレと逢引したかったわけじゃなかろ?」
白王の顔から色が失われた。小さく息を飲む。
「それで、って……。アンタまさか本気でこんなのに飼われてたっていうのか!? 悪い冗談はよせよ、オレたちは――」
「アンタは」
遮って、虚勢を張る臆病な狐を見据えた。
「アンタのほうこそ、人間みたいじゃ」
それは、嘲りではなく、まして哀れみでもなかった。今気づいたことを述べているだけの、指摘だった。
「生きてるわけでも死んでるわけでもなくなった、悠久の時を共に暇潰しできる相手を探しとる、寂しがり屋な人間みたいじゃ」
淡々と、犬神は所感を連ねていく。そこに情というものはなく、神のように一切の斟酌がなかった。
「そのくせ人間を見下す。当然じゃ。己とよく似たもんに対する、同族嫌悪を起こしているだけなんじゃから――」
犬神の冷静な分析は、ドンッという衝撃音で、遮られた。
幾度となくカゼヤの血を啜った尾が、犬神の背後の柱を貫いていた。
小首を傾げるわずかな動きのみで避(よ)けた犬神は、見切りをつけたように目を伏せる。白王は激昂しており、三尾も双眸も怒りでぎゅうっと膨らんでいた。眉間にしわを刻んだまま、吐き捨てる。
「人の側(がわ)に落ちたか、犬畜生が!!」
「オレはオレになったときからなんも変わっとらん。今も昔も、欲望剥き出しのままじゃ」
「なら!」
ならば、なぜ。
その問いは、開かれた橄欖石色の瞳によって封じ込められた。薄い翠の眼差しは、滾っているようであり、しかし底冷えのする鋭さをも放っていた。――初めて。
白王は、怖気を肌で感じ取った。
スッと、呼吸(いき)をするように、犬神は動いた。
「オレの主は怖いんじゃ」
それはまるで、いとおしむような口調だった。視線は遠く、これまで過ごした日々を追いかけていた。
「首だけの巨犬を容赦なく蹴り上げる、はっ倒す」
ククッと、思い出し笑いを漏らして、目を閉じる。――思えば。
ずいぶん長い距離を、駆け抜けてきたような気がする。
「突然怒り出す」
人と神。
生と死。
決意と敢行。
「かと思えば、突然泣き出す」
交わるための、その長い距離を、主と二人、背中合わせに向いたまま、突き進んできた。
目を、開ける。
許してはもらえないだろう、と思った。
今からやることが、どんな結果をもたらすのか、――主がどんな顔をするのか、はっきりと想像できるのに、犬神はそれを止めなかった。
目を細めて、白王を見る。艶(あで)やかな笑みを浮かべて、誇らしげに言った。
「な? 怖いじゃろ?」
――絶対に、殺してはならない、と主は言った。
殺したら、絶対に許さない、とまで言われた。
それは、きっと、正しい在り方なのだろう。
――だけど。
「怖くて……愛しい、オレだけの主じゃ」
たった一人だ。
たった一人だけだったのだ。
――犬神の、主は。
「……まさか、それが?」
信じられない、というように、引きつった笑みを浮かべて、白王は問う。
「それしきのことが」
「充分じゃ」
押し潰すように、遮る。そうしてスッと、睨み据えた。
その眼差しは、微笑んでいるようでさえあった。慈愛に満ちた目元、翠の瞳は優しく包み込むような懐の深さを醸し出し、弓なりにふっくりと上がった唇は恩赦を施す神のように安らかだった。
その貌のままで、ゆらり、とゆらめいた。犬神の周囲の空気が、ゆがんだ。




