其ノ壱
本当は。
どこへだって行くことができた。
カゼヤは犬神の主ではあったが、神宝の大刀という鎖を捨てた時点で、犬神がカゼヤに従う義務はなくなっていた。
だからいつでも、この身体一つで、どこへだって行けた。
――犬神は風になっていた。
気流に乗って、物の間の綻びを抜けて、ただ一つのぬくもりを目指す。
何を犠牲にすることもなく、いつまででも、生きたい場所で。
――すでに冷えた、ぬくもりを。
崩れた土壁、腐りかけた柱、真空を切って、突き抜けていく。
それでも。
ダンッ、と、犬神は床板に踏み込んだ。
――どこへも行かなかったのは。
主は、いた。
不自然な体勢で両腕を柱に縛り上げられて。
細い首から上をぐったりと傾かせて。
頬に張りついた藍の髪。
その顔は眠るように目を閉じている。
うっすらと開いた唇は、青紫色。
そして――
臓器の入った胴に染み込んだ、黒みがかった赤。
遠目でも、その傷が一つでなく、まして浅いものであるとは、とうてい思えなかった。
それは、この部屋に立ち込めた血の匂いの濃さで明らかだった。
それほどまでに、主が傷つけられる理由が、己自身にあったのならば。
どうしてどこへも行かなかったのだろう。
白王は、その液体を振り落とした。
叩きつける音が、上がる。
次の瞬間には、黒い袍はつややかに湿った。朱い髪から、紅の雫が間断なく滴る。あたかも返り血を浴びた獣のようだ。
梁の上に座った白王は、カゼヤから搾り出した血を犬神に頭から浴びせると、歯茎を見せて笑った。
「確かあの女は、軽かったな」
その声で、ようやく犬神は振り仰いだ。しとどに濡れた髪の間から覗く瞳は、均一な翠色。――光は、無い。
「アンタの主は、もういない」
分からせるように、白王はゆっくりと告げた。そうして、ふっと声を漏らす。
「これだけ血を抜かれれば、ひとたまりもないよな?」
言って、手に持っていた酒器を放り投げる。傍らに引っくり返ったそれへと虚ろに視線をやれば、ねっとりとした、甘い匂いがむせ返った。
頭から主の血をかけられたのだ、と気づくまでに、さらに数秒かかった。
「久しぶりの血の匂いだろ? どうだ? 殺してみたくなったか?」
唆すように、急かす。痙攣でも起こしたように、声高に笑った。
「見ろよ。あんなわけの分からない令(めい)を下したアンタの主は、オレたちより弱っちいんだぜ? なのにどうしてオレたちが下に見られなくちゃいけないんだろうな?」
カゼヤを括りつけた柱を見やって、嘲る。ストンと、犬神の前に降り立った。その顔には、獰猛な笑み。耳まで裂けそうなほど口角を吊り上げて、顎をしゃくった。
「オレたちはこんなののために生まれてきたわけじゃない。オレは、オレたちは――」
きっと、失うもののほうが多いのだろう、と、犬神はぼんやりと思った。
かろうじて繋がっていた、主からの信頼。その細い細い糸から伝わってきていたそれは、失えばもう、二度と流れてくることはないのだろう。
そう。
あんなにも、信じてくれていたのに。
あんなにも、信じてくれていたけれど。
「オレたち自身のために生まれてきたんだ」
だけど。
だって。
「何の命も要らない、搾取なんて下等生物のすること、だからオレたちは――」
「それで?」
――許せないだろう?




