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天狼の巫姫  作者: 利月
五章
25/32

其ノ陸

 何度目の裂帛(れっぱく)の音だろう。

 けれどそれが真実引き裂きたいのは、この存在そのもの。

 白王の尾は、カゼヤを袈裟に切り裂いていた。

 生理的な悲鳴が、カゼヤの口から迸る。

 絞り出した喉から、はー、はー、という乾いた息が漏れる。自分でも、その息から次第に熱が失われていくのが分かった。

「見苦しいな」

 笑みも浮かべず、血塗られた尾をゆらゆらと動かす。

「オレたちとアンタたちは、『違う』んだよ」

 ボタボタと血を零す腹の傷口に、指を這わせる。

「いい加減に、諦めなよ? 悪いことは言わないからさ」

 肩口から脇腹へ、脇腹から肩口へ、己が付けた傷口を味わうように、幾度となくなぞる。カゼヤは、弾む息を殺して声を押し出した。

「い――」

 食いしばった歯の隙間から、渾身の拒絶を絞り出す。

「いやだ」

 指が傷口に捩じ込まれた。

 それは容赦も躊躇もない一定の速さと強さだった。

 意味をなさない言葉が絶叫となって喉を突き破り、撒き散らされる。それでもカゼヤは、血の味を噛み締めて、震える声で言った。

「あいつは……泣いていた」

 痙攣を続ける体に意識を縫いつけて、証し続ける意味を吐き出す。

「ここに、来るまでの、間。あいつが、どんな生活をしていたのかは、知らない」

 体温が低下していっている。紡ぐ息は、とうとう白くなった。

「だけどあいつは、……泣いていた」

 ピク、と白王が眉をひそめた。カゼヤはうつむいたまま、続ける。

「何かを期待して、裏切られたからだ……」

 咎を告白する罪人(つみびと)のように、絞り出していく。

「私たちは、あいつに何かを約束したわけではない。でも、裏切ることを前提として、私たちを信じさせた」

 ハッと、白王は鼻で笑った。それで、と嘲る。

「罪滅ぼしでもしているわけだ」

 その言葉に、カゼヤはすぐには答えなかった。唇を噛む。鉄の味が染み込んだ舌に、真新しい塩辛さが広がった。

「そうだ」

 肯定に、白王が勝ち誇った笑みを浮かべてたたみかけようとしたのを、カゼヤは素早く遮った。

「それでも」

 顔を、上げる。

 大量出血をしている人間の顔とは思えないほど、穏やかな眼差しだった。

「あいつは、私を選んだのだ。そして私も、あいつを選んだ」

 幾度となく繰り返した言葉を、理由を、噛み締めるように、告げる。深い紫水晶が、何の打算も誇張もなく、白王を見据えた。

「神様も人間もない。たとえあいつが、人を超えた力を持っていても、あるいは私が、あいつを降せる刀を持っていても、私たちは」

 本気だ、と白王は思った。本気で、自分たちの在り方を、信じている。

 ――バカげていることに。

「対等だ」

 宣言は、静かでありながら、決して跪かない強さを響かせていた。カゼヤは笑う。それは、これまでの好戦的な笑みではなく、慈愛に満ちた笑みだった。目を伏せて、ただ一言、告げる。

「それで……充分だ」

 ぶしゅっ、と、白王は指を折り曲げた。

 桃でももぐように傷口の中で捩じった指から、果汁のように血が伝う。

「オレたちは違うって、これだけ説明しても分かってもらえないんじゃあ、仕方ない」

 落胆と呆れと、半ば愉悦が混じった声に、殺されるのか、とカゼヤは漠然と思った。この痛みの先にそれがあるのかと思った。が、降ってきた次の声は、そんなものではなかった。

「仕方ないよな? 犬神には『外れて』もらうしか」

「はずれる……?」

 カゼヤは訝しげに白王を見上げて、その音(おん)を口にした。白王は「そうさ」と笑顔で頷く。

「犬神に、アンタが縛りつけている人道とやらから外れてもらうんだよ。要するに、だ――」

 言って、カゼヤを覗き込む。琥珀色の瞳の奥底に暗い光を宿して、当然のことのように教えた。

「血がおいしいってことを、思い出してもらうのさ」

「なっ……」

 なにを、という言葉は、激痛に飲み込まれた。

 押し広げられた傷口をつかまれ、血を搾り出されたのだ。

 もはや声さえ出ないほどの、痛みだと知覚する神経さえも引き抜かれたような衝撃が、体中を駆け巡る。目の奥も目の前もちりちりと焼け、原色の極小粒子が視界に散らばる。やがてそれは真っ白な光へと変わり、どこか遠くで、ボタタッ、という音や、ぬちゃ、という感触を聞き取りながら、カゼヤの瞼は落ちていった。

 てのひらを真っ赤に染め上げ、指の間から紅い液体を滴らせながら、白王は――薄く笑んだ。

「これだけありゃ、さぞやいい匂いがするだろうな?」



 ふつ、ん、と何かが途切れた。――そんな気がした。

 犬神は人形の姿で森の中を歩いていた。――敵は近い。と同時に、主の気配もあった。攫ったモノと攫われた者は、この周辺でとどまっている。欲に任せて爪や牙を振るうことのないよう、あえて獣形を解き、足音を忍ばせて木立を分け入っていた矢先のことだった。

 犬神は知らず、立ち止まった。

 急に世界中でひとりぼっちになってしまったような感覚、寂しさを通り越して恐怖がひたひたと寄ってくる気配。

 暗雲の下、強風の中、荒野の中心で、ただ一つの命。

 それが、己。そんな気が、した。

「……カゼヤ……?」

 初めて、呼んだ。主の名を、呼んだ。その声は、頼りなく、かすかに震えていた。呪いの神ともあろうものの、なんと脆弱な末路。

 途切れた何かから、大量の粘つく液体があふれ落ちる。そんな単色の幻覚が、脳に直接流れ込んでくる。その液体の色は、幻覚の中では確かに濃灰の色をしていたのに、犬神には、鮮やかな紅(あか)に見えた。

 ざわざわと、風が騒ぐ。

 木々が揺れ、枝が擦り合い、葉が舞い上がる。

 月は雲に隠れたか、あるいはいまだ昇っていないのか。星さえ見えない、ぬばたまの闇。

 犬神の姿は、どこにもなかった。

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