其ノ肆
夜はすぐに来た。
六月(なつ)特有の生ぬるい風が、対峙した二人の間を通り過ぎていく。ざわざわと、木々が不穏な音を立てて騒いだ。
犬神は軽く息を吐くと、しみじみと呟いた。
「それが、狐の名か」
言って、何かを諦めたような声で続ける。
「狐もオレと同じ……か」
「気づいていたの?」
「まさか」
目を伏せ、微笑(わら)う。
「初めて会(お)うたときは、完全に人間じゃった。じゃがこうして追ううち、だんだんと人外の匂いが混ざり始めた」
それに、と付け加える。
「人ならば通らんような所も通っておった」
言って、犬神はひたとシナノを見据える。そうして、本当に面倒くさそうに、提案した。
「オレは厄介事は嫌いじゃ。なにせ主がうるさいからな。白王とやらに命じてくれ。天狼の巫姫を城へ返せと」
「それは無理だわ」
にべもない決裂に、ピク、と犬神はシナノを睨んだ。
シナノは微笑む。人外のものを敵に回していながら、ひどく穏やかな笑みだった。
「わたくしは、彼の主ではないもの」
卑下でも謙遜でもなく、本心からの否定だった。シナノは続ける。
「わたくしは」
犬神から視線を外し、夜の彼方を見つめる。それはまるで、一幅の絵のように憂いと決意がない交ぜになった横顔だった。
「神様にお願いをしたの」
ぽつりぽつりと、夢の中にいるような少女は言う。
「神様は」
うっすらと、唇の端を上げていく。慈しむような笑みだった。向かい風が流れ、山吹色の髪をなびかせていく。
「叶えてくれた」
言って、ふと犬神に顔を向けた。その瞳は、確信を持った眼差しだった。
「あなたもそうでしょう? ――呪いの犬神様?」




