其ノ壱
何も見えなかった。
ただ、ひどく濃い、潮の臭いがしていた。
手を突いて起き上がる。ねちゃともぴちゃともつかない音が聞こえた。
どこかを切られたような気もするし、どこかを貫かれたような気もする。けれど、そんなことは瑣末なことだった。
……悲鳴。
そう、先程まで聞こえていた悲鳴が、今はもう、聞こえないのだ。それが何を意味しているのか、想像することを本能が拒んだ。
腕と脚に力を込めて立ち上がろうとする。が、生まれたての仔鹿のように、それはかなわなかった。体に力が入らないことも原因だったし、床がぬるぬると滑るのも一因だった。
……痛い。
でも、どこが痛いのかが、分からない。
どこ、に……。
庇護を求めて親の存在を探す。もう、そんな歳でもないことは分かっていたけれど、今ばかりは縋りついて泣いて、抱きしめてもらいたかった。
――瞬間。
一切の物音がしないことに、気がついてしまった。
悲鳴ばかりでなく、足音も、助けを求める声も、安否を確かめる気配も、――息づかいさえ、聞こえない。
圧倒的に闇(くら)く冷たい場所に、ただ一人きりという感覚。
すべてが一定の温度、不動の中で、もぞもぞと呼吸をしているのは、自分だけ。
そうはっきり知覚したと同時に、すさまじい嫌悪感が湧き上がってきた。
――今、自分は。
家族の死体に囲まれている。
まるで生きていることこそが場違いであるかのように。
嗚咽が込み上がってくる。しかし口から出てきたものは、昨晩家族で囲んだ夕餉の成れの果てだった。
こうして消えていく。
汚臭にまみれた汚物となって、記憶が塗り変わっていく。思い出にすらなれなかったそれは、ただ、苦しく痛いばかり。
いったんあふれ出したものは、堰を切ったように流れ出続けた。喚くことすらできないほどの、襲撃に似た嘔吐。いつの間にかツンとした臭いにも慣れ、髄液のように垂れる鼻水が視界に入った。そして、滂沱たる涙。
このまま体中から水分も体液も流し尽くして、からっぽになってぺっしゃんこになってしまいたかったのに、そうはなれなかった。
知らない間に声が漏れていた。もう吐く物がなくなったのだ。――胃液さえも。
己のしゃくり上げる声を聞いて、さらに泣く。哭(な)く。もはやどうして叫ぶように泣いているのかも分からないほどに。ただひたすら、受け容れられない現実を吐き出すように。
やがて自分が、泣こうとして声を上げていることに気づいた。悲しい、哀れだ、そんな心境になりたくて、必死に涙を流そうとしている。しかし、もう涙は涸れていた。
しょせんすぐに涸渇するような感情しか抱(いだ)いていなかったことが、さらに動揺を招いた。こんなはずじゃない、きっともっと悲しいはずだ。なのにあふれてくるものは、何も無い。からっぽだ。――こんなにも呆気なく、ぺっしゃんこになってしまった。
その程度の、人間だったのだ。
認める前に、拒絶が先立った。違う、そんなわけがない。思いは螺旋をえがいて絞めつけていく。ぐるぐるに縛り上げてどこか暗く深いところへ落とし込んでいく。それでも思う。違う、と。
もはや悲しいから叫んでいるのか、悲しむために叫んでいるのか、死を遠ざけようとしているのか、己から逃げようとしているのか、分からなかった。
半分に欠けた月が、雲間から茫と覗く。薄絹の向こうにいるその下弦の月は、今宵の出来事をすべて見ないふりをしているかのようだ。どこかで梟が飛び立った。
「へぇ……」
飛び立ったと思ったそれは、葉擦れの音を鳴らして舞い降りた。
「まだ生きてたのか」
笑い含みの声が、頭上から落ちてくる。それは暈をかぶった月を背にして立っていた。見える影は、長身痩躯。そして――燃える炎に似た形の影が、体躯を中心に躍っていた。
「べつに責めてるわけじゃないぜ? これでも一応、心から感心してる」
焔(ほむら)の形の影は、右に左にゆらめく。まるで振り子のように。声の主は、何の憚りもなく庭の玉砂利を踏みしめて近づいてきた。門衛の死体を跨ぎ、優雅な足取りで歩み続ける。
そうして彼女を、見下ろした。
伸び上がる炎に似たそれは、三つに裂かれた、尾だった。背後からの月光を受けて、白く淡い燐光を放っている。
彼女は彼を見上げていた。からっぽの箱のような体を、動かすこともできなかった。
彼は、嗤った。生きた者は彼女しかいない、この場所で。
「誰が許さなくても、オレが許してやるよ」
言って、簀子の上に片膝を突く。彼女へと身を乗り出し、白蝋めいた顎に手をかけた。
「だからさ……」
彼女は動かない。二人の間にある汚物は、彼の妨げとはならなかった。
人の形をした、三尾の狐は、彼女の耳元へ、唇を寄せる。
「オレにその命、くれない? 大切に、使い切ってやるからさ」
全開になった窓から、風が乾いた音を立てて流れ込んでいた。風は帳(とばり)を巻き込んで、屋の内へ外へと間断なく激しく吹き荒れている。キィキィと、蝶番の軋む音が悲鳴のように上がった。
寝台には誰もいなかった。
――カゼヤが消えていた。
自力で歩けるふうではなかった。目を覚ます兆候さえなかった。
熱があった。まるで体内にある異物をすべて押し出すかのような、絶え間ない発汗だった。餓(かつ)えた獣のような呼吸をしていた。
それでもカゼヤは、寝台にいなかった。
室内にかすかに残るは、どこかで嗅いだことのある匂い。
そう遠くない記憶に引っかかった手がかり。しかしそれを詮索するよりも、犬神は駆け出していた。見えない細い糸のようなその痕跡を、追いかける。
全開になった玻璃窓から、狼に似た神が黄昏に向かって躍り出た。
その姿を見届ける、少女がいたことを、犬神はまだ――知らない。




