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天狼の巫姫  作者: 利月
序章
2/32

其ノ弐

 それはまさしく呪いだった。

 降りた神は犬に取り憑き、犬の首を借りて、犬の魂を宿した。

 怨みと憎しみの分だけ、呪われた首は大きく膨らんでいく。それはもはや、狼とも呼べる大きさになった。

 首だけの犬は頚動脈からの血を滴らせながら、鬼火のように飛ぶ。

 迷っているかのような、まるで規則性のない、破壊。

 それでも次々に側近たちが噛み切られていく。篝火は倒れ、消え、真の暗闇が降りようとしている。

 少女は駆け出した。姫様、と呼ぶ声がしたが、聞こえないふりをする。

 闇の中、頭上から冷たい飛沫(しぶき)が落ちてくる。きっと血だろう。しかし少女は、それを涙だと思った。犬の、涙だと。

「姫様、刀を!」

 側近が叫ぶ。

 神宝の大刀・抖都叶剣(トツカノツルギ)をもってして、犬神を鎮め、封じ、降(くだ)せと。

 しかし少女はその声に従わなかった。まっすぐに犬神に突進し、重い緋の袴を持ち上げ、犬の顎を蹴り上げる。しぴぴっ、と血が頬にかかった。

「姫様っ!」

「刀をっ! 刀なくして犬神は――」

 側近たちが口々に叫ぶ。少女はなおも飛び続ける犬神を追いかけた。長い白の袖をたくし上げ、てのひらと手首の境目の骨を使って犬の鼻を殴る。

「刀なぞ要らぬ!」

 巫女の姫の絶叫に、側近たちは今度こそ絶句した。

「何を……」

 そうしている間にも、少女は走る。迷っているように、泣いているように、飛び続ける犬を追いかけて。

 ちりり、と追いかけてくる玉鈴(ぎょくれい)の領布(ひれ)の清らかな鈴の音に、ぐるり、と犬が目を剥いた。執拗に追いかけ、素手で向かってくる少女をとらえる。乾いた舌で乾いた鼻を舐め、牙を剥き出しにした。

 少女と犬神、互いを目指して両者が突進しだしたのは同時。

 少女には何もなく、犬神には牙しかなかった。

 衝突の音は、しんとした地下祭宮殿(さいぐうでん)の暗闇によく響いた。

 少女が最初に聴いた犬の声は、はーっ、はーっ、という息づかいだった。

 息づかい。

 生きたいという、声なき声。

 少女はぐっと、腕に力を込めた。密着した巨大な首だけの体から、濃厚な血の臭いと、ひどくやわらかい毛並が、あたたかさをもって鼻と頬をくすぐった。

「よく聞け犬神よ」

 幼さを残した声が、犬神の鼓膜を揺らす。聞く気は無い。噛み千切ろうと口を動かす。このまま顎から裂けても構わないとばかりに、大きく口を開いた。

「許せとは言わぬ」

 だが少女は、臆せず言った。首だけになってしまった野良犬を、抱きしめたまま。

「しかし私が許そう」

 口を、閉じる。乾いた舌の上には、何の歯応えもなさそうな細い腕が、すっぽりと収まった。

「一度しか言わぬ」

 顎に力を、込める。やわらかさと、固さが、幾数十日ぶりの獲物として犬歯を刺激した。

「今この時より」

 それでも、少女は呻き声一つ上げず、苦悶にゆがんだ顔もせず。荒ぶる犬の神に、真正面から宣告した。

「私がそなたの主(あるじ)となろう」

 ぴくりっ、と犬神の目が見開かれた。

 ――主。

 それは、何だ。

 それは何なのだ。

 何をする? どんなことを?

 犬神の脳裏に浮かぶのは、記憶の断片。そう遠くない、しかしもうずいぶん前の、かすれた記憶。

 拾い上げた宮城の人間の手は、あたたかく、優しげだった。

 あたかも掬い上げるように、そう、拾われた。

 ――けれども。

 ガッ、と、口を閉ざした。肌の破れる音がし、肉と血の味が口の中いっぱいに広がった。

 埋めた。

 首だけを出して。

「だか……らっ……」

 とうとう苦しそうに、しかし少女は続けた。

 あまつ、今、食物をちらつかせて。

 首を。

 首を斬り落とした。

 ぐっ、と、少女が犬神の首に震える指を食い込ませた。文字どおり裂かれる痛みに目の前がちりちりする。しかし少女は、引かなかった。

 まっすぐに、犬神を強く抱きしめたまま。

 ただ、一言。

「なかないで」

 主は、命じなかった。命じずに、ただ。

 願った。

 ――主。

 それは、何だろう?

 きっと、こんな年端もいかぬ少女にだって、分かってはいまい。

 ――それでも。

 犬神は、ゆっくりと顎から力を抜いた。そっと牙を少女の肌から外す。ねっとりと、血に濡れた衣が舌に絡みついた。

 犬神は、まっすぐに少女を見た。

 少女もまた、犬神をまっすぐに見ていた。

 ――あぁ、それでも。

 今、決めてしまった。

 犬神は、決めてしまったのだ。

 この少女を主にすると。

 己の母を喰い千切ったこの犬神を、追いかけ、殴り、それでもなお追い続け、真正面から抱きしめてくれた、この少女を。

 永遠(とわ)の主にすると。

 小さな少女の御前(みまえ)、犬神は深く頭(こうべ)を垂れた。

 幾数十日かぶりに喉を潤した水分は、懺悔を乞うるほど、甘かった。

 血の味を、甘いと覚えてしまった、この犬神を。

 それでもと少女は、両手を広げ、一見不遜とも見えるような笑顔を浮かべて。

「汝、犬神の主の名は――」

 臆することなく告げるのだ。

「加世邪(カゼヤ)」

 と。

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