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天狼の巫姫  作者: 利月
四章
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其ノ肆

 あまりの早業に、カゼヤは自分の目線が少し高くなったことしか分からない。ややして、身体全体が宙に浮いていること、犬神の顔がやけに近いことを認識した。

 汗で濡れた体――その肌にまとわりつく絹の向こうに、犬神の手の温度を感じる。何をしているのかと行為を問うことは、カゼヤには一瞬にして無意味に思えた。代わりに真意を問う。

「……何のつもりだ」

「さっさと休め、主」

 ガッと、カゼヤはてのひらで犬神の顎を押し上げた。翳したような手の下から、犬神を睨み上げる。

「その言葉、そっくりそのまま返そう。――さっさと下ろせ、犬神」

 荒く漏れる息を抑え込み、カゼヤは命じる。しかし犬神は、無言で歩き出した。

「なっ――! 下ろせと言っているだろう!」

 ぐぎぎぎ、と顎をさらに押し上げ、もう片方の手で犬神の胸を叩いた。が、犬神は立ち止まり、片脚でカゼヤの下半身を支えると、膝裏に回していた腕を抜き、その手でカゼヤの手を顎から外した。

「暴れんな。落としゃせんよ」

「愚の骨頂が! そんなことを言っているのではないわ!」

 つかまれた手を振りほどこうと、カゼヤは腕ごと振り回す。危うくバランスを崩しかけた犬神は、たまらず絨毯の下、壁の中へと身を隠した。

 次にカゼヤが目を開けたときには、あんなにも遠くに感じていた部屋にいた。呆然と、横抱きにされたまま室内にいる己を自覚する。首を動かしただけで、寝台が見えた。

「これで一つ貸し……じゃな」

 頭上からの声に、思わず見上げれば、勝ち誇ったような笑みを浮かべた犬神が見下ろしていた。瞬間、カゼヤは全身を蝕む倦怠感を引きちぎって犬神から離れようとした。腕も足もばたつかせ、片手は再び犬神の顎を、もう片方の手は膝を抱いている手を外そうと、全力をもってもがく。

「はな、せっ……!」

 言い終わらぬうちに、顎を押し上げていた手は肘鉄となって犬神の鳩尾を、顎には頭突きを、食らわせた。これには犬神も耐えきれず、呻いてふらつき、カゼヤを抱いていた腕の力が一気に抜けた。

 どさりと落ちる寸前、カゼヤは猫のように空中で体勢を変えた。四肢で着地する。そのまま、這うようにして扉脇の棚へと向かった。棚板をつかみ、棚そのものを引き倒さんばかりに力を入れて立ち上がろうとする。

 抗いきれぬ倦怠感は、今や体中の関節に激痛を埋め込んでいた。神経が一束一気に引き剥がされているような痛み。しかし呻き声すら上げず、カゼヤはただ歯を食いしばって立ち、背筋を伸ばした。扉に背を預け、鳩尾に手をやっている犬神を見る。

「貸しはチャラだ……。おまえは、私の令(めい)を聞かなかった」

 クッと、犬神は笑い声を漏らす。扉から背を離し、棚を挟んでカゼヤと正対した。

「強情じゃな。意地を張っとる場合ではなかろ?」

「それでも」

 犬神の、侮りを含んだ呆れとも諭しともつかぬ言葉に、カゼヤは強い口調で覆いかぶさった。犬神を見据えたまま壁に手をやり、毅然と貫く。

「それでも、私がおまえの主だ」

 壁に突いた手を発条(ばね)代わりに指の力で押し、歩き出す。体は熱く、血潮が沸騰しているようだ。実際、毛穴から湯気でも出ているのか、視界は白く濁っている。にもかかわらず、衣の内側で冷えた汗は、寒気をもよおすほど低温だった。身内は熔岩、皮膚は氷河、その温度差に、今にも真っ二つになりそうになる。

 ちりりと、目の奥で原色の閃光が走る。瞬間、膝から力が抜けた。寝台の角に頭から突っ込む――その寸前。

 とす、と間に入った犬神へ倒れ込んだ。二度目の失態に瞬時に押しのけようとするも、犬神はカゼヤの両脇の下に腕を入れると、片膝で力なき体を支えた。

「おとなしゅうしとれ。熱が上がるぜ」

「……はなせ」

 言うが、命令というには程遠い覇気の無さだった。

 もはや目を開けているのも限界、瞼が落ちてくる。視界が黒く狭くなっていく。

 ――ここで倒れることは。

 きっと簡単なことだろう。

 ぐっと、カゼヤは犬神の両腕をつかんだ。

(まだ……、だろう……?)

 まだまだ、だろう?

 ――主ならば。

 つかんだ腕を、渾身の力を込めて引き剥がした。

 体がふわりと浮くような感覚。確かに風は、カゼヤの髪を巻き上げた。

 しかしそれが、最後だった。

 犬神を振り払ったカゼヤは勢いあまって反転し、背中から寝台に倒れ込んだ。軽い体を貫いた衝撃は、カゼヤを幾度か弾ませる。

 寝台に広がる、黒より深い藍の髪。苦しげに閉ざされた瞼。その頬は紅い。薄く開いた口からは、乾いた舌が水分を求めるように覗いている。――そして、急激な変化と体力の消耗に喘いでいる心臓に呼応するように、大きく上下している肩。

 犬神は、仰向けに引っくり返ったカゼヤを見下ろした。ややしてから、感服したように呟く。

「……バカじゃろ」

 ――それでも。

 犬神はカゼヤに歩み寄る。掬い上げるように抱き上げて、寝台に寝かせた。

 それでも、もう。

 そっとてのひらでカゼヤの頬を撫ぜる。火照って湿った人肌は、どうしてだか不安と、なにやらもどかしいものを誘った。

 決めてしまったのだけれど。

 ――お互いに。

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