其ノ弐
「……あのお方では、ないですか?」
それは幼女にも似た声だった。カゼヤも犬神も、弾かれたように声がした方を見る。
声の主は、カゼヤを取り囲んだ輪の、少し外れたところにいた。
ゆるやかに波がかった山吹色の髪、カゼヤとそう変わらない年の頃、しかし明らかに背丈は低い、いかにも姫君然とした少女が、紛れもなく犬神を指し示していた。その瞳に光は無く、黒い真珠を連想させる。見つめていると、吸い込まれそうだった。
「お初におめもじつかまつります。わたくしは、支七乃(シナノ)と申します」
少女が両膝を折って挨拶をする。額まで掲げられた腕で表情は見えなかったが、声は笑みで満ちあふれていた。
周囲の人間が、顔を見合わせて囁き合う。
――シナノ?
――聞いたことありまして?
――どこの家の者だ?
――もし、お父君は何とおっしゃって?
――そういえば確か、一月ほど前……
「過ぐる日」
ざわめきを飲み干すように、シナノと名乗った少女は切り出した。
「賊に襲われ、一族を亡くしました。が、幸いにも邸(やしき)は残りましたので、今はそこで暮らしております」
言って、再び腕に顔を付ける。
「ゆえにわたくしには、名乗るべき家も位もありません事、ご容赦願いたく――」
「そうですか。それは……心から、お悔やみを申し上げます」
カゼヤも、立ったままだが両腕を重ね合わせ、軽く頭を下げて喪の礼を取った。それを見て取り、シナノは立ち上がる。しんみりしたような、あるいは無位の者の存在による違和感が、華やかさの中で染みに似た影を落としていた。と、突然カゼヤの近くにいた婦人が、ことさら声を上げて「そういえば」と話題を変えた。
「犬神はあの方なのですってね?」
嫌な方向に話を振られた、とカゼヤは思った。だがもう遅い。犬神はといえば、無関心な様子で佇んでいる。
「わたくしの人違いでしたか?」
不安そうな表情で、しかしにこやかな声で、シナノも話題に加わった。カゼヤは「いいえ」と答える。強引に、時に、と切り返した。
「シナノ殿は犬神といずこかでお会いに――」
「おぉ、これはまた立派な青年ですな!」
カゼヤとシナノの遣り取りを遮って、感嘆の声が上がった。声の主は媚びたような笑みを浮かべて犬神に大股で歩み寄る。少し離れて立ち止まり、舐めるように上から下まで視線を行き来させた。対する犬神は、目だけを動かして見下ろしたまま、身じろぎもしない。
「神の姿でないことは至極残念ではありますが……しかし神に非ずとも成人男子、有事の際には見事な働きをしてくれることでしょう。神であれば尚の事、軍用犬以上のお力を見せつけていただけるのでしょうなぁ。――いいですなぁ、巫女姫は……」
振り返ってカゼヤにも媚びた笑みを向けようとした瞬間、ゴッ、という鈍い音が割り裂いた。
「……大臣」
手近にあった置物で奸臣を殴ったカゼヤは、低く静かにその名を呼んだ。すっと、顔を上げる。――年の頃は十三、いずれの大人も見上げなければならない体格にあって、睨み上げる視線は頭上から降ってくるものと見紛う気迫だった。
「なぜ軍用前提なのです。なぜそれが当然のような言い方をされるのです」
ゴトリと、置物を元あった場所に戻した。絹の音を滑らせて、ゆっくりと近づく。――これが、見世物という一連の、帰結だった。
カゼヤは口角を吊り上げた。見下すように顎も上げて、目前の相手を敵と選別した。
「いいだろう。貴様が私の犬を戦場に送ると言うなら、私が貴様を戦場に送ってやる」
怒りに満ちた宣言を叩き出し、カゼヤはくるりと背を向け歩き出した。幾度となく破壊された雰囲気はすでに巻き戻しきる余力を持たず、残ったのは困惑と白々しさだけだった。その背へ、犬神が呼びかける。
「……主」
神にも匹敵する、魔に属するモノの、甘美なる一声(ひとこえ)。それは取り巻いていた人間たちにとって充分な衝撃だった。どんな言葉でもいい、もっと聞きたい、そして願わくば、それは自分だけに向けられた言葉であってほしい。そんな情動を湧き起こさせる、声。が、犬神が頓着するはずもなく。主の背に向かって、淡々と続けた。
「オレはこいつと組むんか?」
間が抜けた、明らかに場違いな問いは、本心半分、揶揄半分だった。カゼヤは足を止め、犬神を振り返る。敵となった男を一瞬だけ見れば、それはビクリと怯えたようにカゼヤから目を逸らした。
「大臣たっての願いだ。いよいよのときは、叶えるよりほかあるまい?」
その悪質な答えに、犬神は心中で息を吐いた。――本当に。
すべてを敵に回しても。
主はこの犬神を、愛するのだ。
この狂犬を、庇護するのだ。
用は済んだとばかりにカゼヤは再び歩き出す。話しかけてくる有象無象に「失礼」と断って、廊下へ出た。
そのうしろを、犬神がついて歩く。




