其ノ肆
刀が振り下ろされる。怯むことなく相手の腕と白刃の間、そのわずかな間隙に身を滑り込ませる。下顎を狙って、てのひらを突き上げた。
瞬間、ジャッ、という音が、カゼヤに巻きついた。重りの付いた鎖がカゼヤを拘束する。物のようにそのまま引き倒され、締め上げられ、首に刀身が当てられた。そうして初めて、敵が口を利いた。
「主が死ぬところなんて、見たくないだろ? おとなしくこっち側へ来いよ」
言いながら、カゼヤを盾にしつつ犬神に近づく。スラリ、ともう一本刀を抜いた。犬神は黙ったまま、さして慌てた様子もなく、ただじっと、カゼヤと相手を見ている。――動こうとは、しなかった。
相手が刀を振り下ろす。犬神と刀身との距離が短くなり、切っ先が犬神を指した。ズォッと、大きくなる。
貫いた、と思った犬神の肩は、瞬間ぬらり、と崩れた。狐面が視線を移した先にいたのは、大狼。それは一直線にカゼヤに向かって駆け上がり、そしてカゼヤの斜め背後から足元の影へ滑り込んだ。
瞬間、ガキィン、と硬質にして金属的な音が響く。
ふわ、とカゼヤの体が浮く。カゼヤの両足の間には、獣形に戻った犬神がいた。――カゼヤは犬神の背に乗っていた。
「何をす……」
刹那の時、息をするような自然さで、犬神は人形に成った。左腕で背中を支え、右腕で膝を掬った形で、カゼヤを抱いている。口には、今し方折ったばかりの刃が咥えられていた。
とん、と軽やかに地上に降り立つ。カゼヤを下ろし、口から刃を抜き取った。
「いるか?」
「いらぬ!」
思わずはたき落とした。高らかな、細い音が立つ。カゼヤは勢いのまま犬神の手首をつかんだ。
「そんなことよりも! おまえ!」
ぐいっと引き寄せ、覗き込む。
「言っただろう!」
橄欖石色の瞳と視線を合わせ、叱りつける。
「おまえの前に立つのは、私だと」
怒りでもなく、呆れでもなく、カゼヤはただ、言い聞かせるように、言う。
「私が、おまえを」
犬神もまた、紫水晶色の瞳を見つめる。一切の揺らぎなく、主は言った。
「守るのだと」
犬神はまばたき一つせず、カゼヤを見続ける。――主に、嘘はなかった。本気だった。それゆえにかえって、どうしようもない気分がした。
カゼヤはくるりと犬神に背を向ける。折り切られた敵の刃を冷ややかに見下ろして、一歩、進み出た。――敵は、いた。まだ、そこに。
(得物が一つ減ったからとて、退(ひ)く理由にはならんか)
すっと、カゼヤは腰に手を持っていく。
(……まぁ、そうだろうな)
スラリ、と隠し小刀を抜いた。構える。一つ間違えれば命さえ奪いかねないものを手の中に握りしめて、なおカゼヤは、排他よりも静かな気持ちだった。
「――主は人を殺すんか?」
主の背に向かって、犬神は静かに問うた。不公平が少し、あとはただ、何かが違う、という直感だけだった。
「まさか」
微笑(わら)って、答える。
「無血で守らなければ、おまえまで血だらけになってしまうだろうが」
当然といえば当然、鮮明な答えを残して、カゼヤは駆け出した。
跳躍は一瞬、一切の容赦もなく、小刀を振り下ろす。剣花を薙ぎ払い、押し切った。命のやりとりを具現化した、金刃(かなは)の軋む音がする。
スッと、カゼヤは身を低く沈め、相手の左足を切り払った。相手が跳び上がり、それと同時にカゼヤの首めがけて白刃が横切る。フッと、カゼヤは姿勢を低くしたまま相手の開いた脚の間を擦り抜けた。
それは刹那、もはやすべてがこの時のため、カゼヤは相手の背後に背中合わせで回り、振り向きざま首から脳天へ向けて斬り上げた。
はらり、と紐が切れた。
――狐面の、紐が。
相手は慌てたように面を押さえる。片手で面を、片手で刀を、構えたところでカゼヤと満足に渡り合えるはずがなく、相手は面をかばったまま退却した。
その背をカゼヤは追わない。小刀を収め、相手が消え去った方角を見据えた。
「ふん。他愛のない」
言って、犬神を振り返る。犬神は無表情で、カゼヤを見ていた。わずか、唇を開く。が、すぐに閉じた。同じく無表情でそれを見やって、カゼヤは歩き出す。
城へと戻る間、二人は終始、無言のままだった。




