其ノ参
かすかな空気の流れによって運ばれてくる、匂い。気配は一つ、しかしその気配は、隠伏(いんぷく)していた。――ただの通りすがりではない。主、と囁いた。
「尾けられとる」
歩きながらのその小声に、カゼヤは答えなかった。犬神と目を合わせることもなければ、足を速めることもなく、黙々と歩き続ける。――気配は、一定の距離を保ってついてきていた。
「存外遅かったな」
ぽつりと、カゼヤは呟いた。
「……どういうことじゃ?」
「私を殺そうとする者が現れることは分かっていた。おまえを使役したくてたまらない奴はたくさんいるだろうからな」
前を向いたままあっさりと言い、溜め息混じりにてっきり、と続ける。
「私が満足に動けぬときに来るかと思っていたのだが……」
「なるほど。――じゃが、主を殺した者に神宝の大刀が譲られるなら、ずいぶんと物騒なカラクリじゃな」
「そうではない。そんなことで犬神の権は移行しない。――だが」
まったく表情を変えず、カゼヤは人通りの少ない方へと歩き続ける。
「一度人間に降った犬神は使役しやすい」
路地裏の曲がり角を進み、行き止まりの道へ入った。
「大方、犬神(おまえ)にとっては主の首がすげ替わっただけだと、その程度の認識力と繋がりだと思われているのだろう」
「ほぅ……。ずいぶんとなめられたもんじゃな」
「私もそう思う。――だから」
言って笑みを浮かべ、カゼヤは立ち止まった。勢いよく振り返る。誰もいない、しかし確かに「いる」空間に向かって、声を上げた。
「出てこい」
それは宣戦布告だった。――返答はない。しかし、睨み射抜く。
やがて観念したか、ヌッ、と、黒い影が差した。角から、隠遁者の姿をし、狐の面をかぶった者が現れた。
カゼヤは落ち着いた様子で半歩、犬神の前に出る。
「人の飼い犬に手を出そうとするはそなたか? それともそなたの飼い主か?」
答えは――ない。代わりに、その者は刀を抜いた。フッと、カゼヤは笑う。
「出自を名乗らぬというのならそれもよかろう。だが対話を放棄した以上、今後いかなる交渉も受け付けないが、良いか」
刀を、構えた。カゼヤは目を伏せる。――決定的だった。
犬神の主となっただけの、何も持たないカゼヤは、さらに半歩、足を踏み出した。
と、スッと背後から、犬神が身を乗り出した。ゆっくりと、口を開く。
「殺せって言えよ」
カゼヤの耳元で、愛を囁くように唆す。カゼヤはそれを、一蹴した。
「断る」
強い口調で言い、腰を落として脇を締め、指先を立て腕を突き出し、構える。
「おまえの前に立つのは――この私だ」
刹那、かくんっ、と犬神の膝が折れた。カゼヤが前に出ようとした犬神の足を引っかけたのだ。そのまま引っかけたほうの足をうしろへ滑らせ軸足にし、体重を乗せる。
タンッ、と跳び出した。
走り出したカゼヤは一直線に敵へ向かい、蹴撃を繰り出した。相手がその足をつかもうとする。気づいて跳びすさり、腰を落としたまま、相手の鳩尾へとてのひらを突き出した。が、敵も接近したカゼヤめがけて刀を振りかざす。瞬時にカゼヤは一回転し、相手の横っ面へピンと立てた爪先を叩き込んだ。長い髪が、馬の尾のように軌跡をえがく。そのまま体を捩じりきり、地面に両手を突いて相手の足の動きを見ながら倒立前転をした。
――動く。
相手がこちらに向かい、着地後の背中を狙っている。
ならば。
地に突いた手を離す寸前、指の力を使って跳んだ。ぐるり、と空中で体の向きを変え、足を垂直に伸ばして再び一回転する。今度は相手の脳天に踵を落とした。きらめく刀が迫り上がってくる。白刃は、今し方武器になったほうの足を斬り上げようとしていた。カゼヤは体を反らし、両腕を伸ばして後方へ飛ぶ。トッ、と両手を軽く突き、弾みをつけて犬神を庇うように降り立った。
闘うカゼヤを、犬神はただ、見ている。カゼヤの後ろ姿を凝視したまま、動かない。
バッと、カゼヤは片腕を水平に伸ばした。――犬神が前に出て行かないよう、相手が犬神に近づかないよう。その背に、犬神は声をかけた。
「なぁ」
カゼヤは振り返らない。しかし構うことなく、犬神は続けた。
「主の攻撃、効いとらんのじゃなか?」
「……分かっている」
素っ気ない肯定に、犬神は溜め息をついた。
「だからさ」
「おまえはそんなことをしなくてもいい」
殺せと命じろと、言おうとしたその提案は、にべもなく切り捨てられた。カゼヤは続ける。
「これは私のものだ。歯がゆさも、焦りも、悔しさも、苦しみも、永遠に、私だけのものだ。おまえに分け与えてなど、やらぬ」
もう一度、犬神は息を吐いた。
「なぜじゃ? なぜいかんのじゃ? 殺すことを禁ずる、その執着はどこから来る?」
カゼヤは答えない。細い腕は、檻のように動かなかった。
「オレには牙がある」
その声は、呆れを含んでいた。あまりにも当然、口にすることさえ今更な、理。
うっすらと、カゼヤは口を開いた。
「殺せば、己を許せなくなる」
答えた主の顔は見えない。しかし口調は、揺るぎなかった。
「おまえの死は、おまえ自身を救わなくなる。――だからだ」
それがすべてのようだった。犬神は首を傾げる。
「……よく、分からんぜ」
「――犬神」
呼びかけは、明瞭だった。カゼヤは振り返りもせず、己の背中に向かって告げた。
「私は、おまえを愛すると決めたんだ」
間合いを詰めてくる、敵を見据える。
「だからおまえが、いちいち反応することはない」
言い切って、突進した。




