表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天狼の巫姫  作者: 利月
三章
14/32

其ノ参

 かすかな空気の流れによって運ばれてくる、匂い。気配は一つ、しかしその気配は、隠伏(いんぷく)していた。――ただの通りすがりではない。主、と囁いた。

「尾けられとる」

 歩きながらのその小声に、カゼヤは答えなかった。犬神と目を合わせることもなければ、足を速めることもなく、黙々と歩き続ける。――気配は、一定の距離を保ってついてきていた。

「存外遅かったな」

 ぽつりと、カゼヤは呟いた。

「……どういうことじゃ?」

「私を殺そうとする者が現れることは分かっていた。おまえを使役したくてたまらない奴はたくさんいるだろうからな」

 前を向いたままあっさりと言い、溜め息混じりにてっきり、と続ける。

「私が満足に動けぬときに来るかと思っていたのだが……」

「なるほど。――じゃが、主を殺した者に神宝の大刀が譲られるなら、ずいぶんと物騒なカラクリじゃな」

「そうではない。そんなことで犬神の権は移行しない。――だが」

 まったく表情を変えず、カゼヤは人通りの少ない方へと歩き続ける。

「一度人間に降った犬神は使役しやすい」

 路地裏の曲がり角を進み、行き止まりの道へ入った。

「大方、犬神(おまえ)にとっては主の首がすげ替わっただけだと、その程度の認識力と繋がりだと思われているのだろう」

「ほぅ……。ずいぶんとなめられたもんじゃな」

「私もそう思う。――だから」

 言って笑みを浮かべ、カゼヤは立ち止まった。勢いよく振り返る。誰もいない、しかし確かに「いる」空間に向かって、声を上げた。

「出てこい」

 それは宣戦布告だった。――返答はない。しかし、睨み射抜く。

 やがて観念したか、ヌッ、と、黒い影が差した。角から、隠遁者の姿をし、狐の面をかぶった者が現れた。

 カゼヤは落ち着いた様子で半歩、犬神の前に出る。

「人の飼い犬に手を出そうとするはそなたか? それともそなたの飼い主か?」

 答えは――ない。代わりに、その者は刀を抜いた。フッと、カゼヤは笑う。

「出自を名乗らぬというのならそれもよかろう。だが対話を放棄した以上、今後いかなる交渉も受け付けないが、良いか」

 刀を、構えた。カゼヤは目を伏せる。――決定的だった。

 犬神の主となっただけの、何も持たないカゼヤは、さらに半歩、足を踏み出した。

 と、スッと背後から、犬神が身を乗り出した。ゆっくりと、口を開く。

「殺せって言えよ」

 カゼヤの耳元で、愛を囁くように唆す。カゼヤはそれを、一蹴した。

「断る」

 強い口調で言い、腰を落として脇を締め、指先を立て腕を突き出し、構える。

「おまえの前に立つのは――この私だ」

 刹那、かくんっ、と犬神の膝が折れた。カゼヤが前に出ようとした犬神の足を引っかけたのだ。そのまま引っかけたほうの足をうしろへ滑らせ軸足にし、体重を乗せる。

 タンッ、と跳び出した。

 走り出したカゼヤは一直線に敵へ向かい、蹴撃を繰り出した。相手がその足をつかもうとする。気づいて跳びすさり、腰を落としたまま、相手の鳩尾へとてのひらを突き出した。が、敵も接近したカゼヤめがけて刀を振りかざす。瞬時にカゼヤは一回転し、相手の横っ面へピンと立てた爪先を叩き込んだ。長い髪が、馬の尾のように軌跡をえがく。そのまま体を捩じりきり、地面に両手を突いて相手の足の動きを見ながら倒立前転をした。

 ――動く。

 相手がこちらに向かい、着地後の背中を狙っている。

 ならば。

 地に突いた手を離す寸前、指の力を使って跳んだ。ぐるり、と空中で体の向きを変え、足を垂直に伸ばして再び一回転する。今度は相手の脳天に踵を落とした。きらめく刀が迫り上がってくる。白刃は、今し方武器になったほうの足を斬り上げようとしていた。カゼヤは体を反らし、両腕を伸ばして後方へ飛ぶ。トッ、と両手を軽く突き、弾みをつけて犬神を庇うように降り立った。

 闘うカゼヤを、犬神はただ、見ている。カゼヤの後ろ姿を凝視したまま、動かない。

 バッと、カゼヤは片腕を水平に伸ばした。――犬神が前に出て行かないよう、相手が犬神に近づかないよう。その背に、犬神は声をかけた。

「なぁ」

 カゼヤは振り返らない。しかし構うことなく、犬神は続けた。

「主の攻撃、効いとらんのじゃなか?」

「……分かっている」

 素っ気ない肯定に、犬神は溜め息をついた。

「だからさ」

「おまえはそんなことをしなくてもいい」

 殺せと命じろと、言おうとしたその提案は、にべもなく切り捨てられた。カゼヤは続ける。

「これは私のものだ。歯がゆさも、焦りも、悔しさも、苦しみも、永遠に、私だけのものだ。おまえに分け与えてなど、やらぬ」

 もう一度、犬神は息を吐いた。

「なぜじゃ? なぜいかんのじゃ? 殺すことを禁ずる、その執着はどこから来る?」

 カゼヤは答えない。細い腕は、檻のように動かなかった。

「オレには牙がある」

 その声は、呆れを含んでいた。あまりにも当然、口にすることさえ今更な、理。

 うっすらと、カゼヤは口を開いた。

「殺せば、己を許せなくなる」

 答えた主の顔は見えない。しかし口調は、揺るぎなかった。

「おまえの死は、おまえ自身を救わなくなる。――だからだ」

 それがすべてのようだった。犬神は首を傾げる。

「……よく、分からんぜ」

「――犬神」

 呼びかけは、明瞭だった。カゼヤは振り返りもせず、己の背中に向かって告げた。

「私は、おまえを愛すると決めたんだ」

 間合いを詰めてくる、敵を見据える。

「だからおまえが、いちいち反応することはない」

 言い切って、突進した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ